フョードル・ドストエフスキー ~人間の魂の深淵を描いた巨人~
激動の幼少期から青年期へ
1821年、モスクワにあるマリインスキー病院で軍医の父ミハイルとその妻の子として生まれたフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。幼くして母を亡くし、厳格な父のもとで育ちました。父は1839年に急死しましたが、一部では農奴による殺害説も囁かれています。この出来事は、後の作品における父子関係や暴力描写に影響を与えたと考えられます。
作家としての出発
1846年、処女小説『貧しき人々』で文壇にデビュー。当時の批評家ベリンスキーから絶賛され、一躍注目を集めます。しかし、その後の作品は評価が分かれ、苦悩の時期を迎えます。
死刑宣告と流刑地での転機
1849年、急進的な知識人グループ「ペトラシェフスキー・サークル」への参加が発覚。死刑宣告を受け、銃殺刑の執行直前、まさに目隠しをされ、銃口を向けられた瞬間に皇帝からの恩赦が伝えられるという劇的な体験をしました。この出来事は、生涯にわたって彼の思想や作品に大きな影響を与えました。その後シベリアの流刑地で4年間の懲役刑に服し、さらに義務兵役として4年を過ごします。
この死との直面と流刑地での経験は、ドストエフスキーの人生と文学の大きな転換点となりました。民衆との直接的な交流を通じて、ロシアの魂への理解を深め、キリスト教的な世界観を強めていきます。
円熟期の傑作群
1860年代以降、『罪と罰』(1866年)、『白痴』(1868年)、『悪霊』(1871年)、『カラマーゾフの兄弟』(1880年)など、傑作を次々と発表。経済的困難や賭博癖による借金に苦しみながらも、創作の手を緩めることはありませんでした。
特に『罪と罰』は、貧困にあえぐ元学生ラスコーリニコフが老婦人を殺害する物語を通じて、犯罪と贖罪、人間の自由と責任といった普遍的なテーマを深く掘り下げました。『白痴』では、全く純粋な善を具現化したムイシュキン公爵の悲劇を描き、『悪霊』では革命思想に取り憑かれた若者たちの破滅を描写。最晩年の『カラマーゾフの兄弟』では、家族の葛藤を通じて、神と人間の自由という哲学的テーマに迫りました。
晩年と遺産
1880年、『カラマーゾフの兄弟』完成の翌年に死去。葬儀には数万人の市民が参列し、ロシア文学の巨人としての地位を確立しました。
『カラマーゾフの兄弟』の第一部を完成させた翌年の1881年に死去。彼の没後も、未完の作品を含むその遺産はロシア文学において燦然と輝き続けています。
なぜドストエフスキーは「永遠の同時代人」となりえたのか
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