0620言葉の持つ善性と悪性
今日も塾に行ってきた。月曜なのに。
ただ今日はそこまで疲れなかった。それなりに接したことのある生徒たちを見たし、2コマだけだったからかも。
「常識」と「固定観念」との違いって何なんだろうか、とシャワーを浴びながら考えていた。
らしい。へぇ~~
正直どちらも似たり寄ったりであると思う。
「いつも頭から離れないで、その人の思考を拘束するような考え」とは「常識」のことである、と言われても、わりとすんなり飲み込んでしまえるんじゃなかろうか。
ただ、「常識」とは「持ち合わせる」ものであり、「固定観念」とは「とらわれる」ものである。
すなわち、ある事象について、その内容が社会や周囲にとって善であるか否かによって、その事象が「常識」であるのか「固定観念」であるのかが決まる、と言える。
とすると、では、その事象が善であるか否かはどう決まるのか、という疑問が浮上する。
何が善で何が悪かなど、その事象がおかれる環境に左右されるものである。
ただし、1つのコミュニティを統一・維持するために、「常識」とは善でなければならず、善を「常識」とする必要がある。
思えば、「常識」が一定のコミュニティの中でしっかりと浸透・共有されていたのは、インターネットによって人々の手の届く世界が大きく広がった、それ以前のことであったのではないか。
当時、様々な価値観は、狭い(あくまで現代と比較しての話だが)コミュニティの中で悪しき「固定観念」として廃され、代わりに、コミュニティ内の大多数が信仰する善なる「常識」が植えつけられていたのではなかろうか。
実際、近年「常識」とは、あまり良くない意味を内包する言葉となりつつある。
己の属するコミュニティでの「常識」が、他のコミュニティではただの「固定観念」になり下がる。逆もまた然りであり、その事実は多くの人々に、「常識」やその基盤である「善なること」が、他方では「悪しきこと」を内包している「固定観念」である、ということを気づかせてしまった。
「常識」とは、世界のレイヤーが変わると「固定観念」であり、「固定観念」もまたレイヤーが変わると「常識」になる。
この事実は世界の定理であり、海を渡り空を飛ぶ技術が発展した頃には発見されていたはずである。
だが、海を渡り空を飛べる人間はわずか一握りであったために、「常識」とそれが持つ絶対的な善性が揺らぐことは、ついに無かったのだろう。
そうして今、インターネットの普及により誰もが広い世界を一望できるようになり、「常識」と「固定観念」との間にある壁はセロハンのように薄くなっている。
言葉の持つ意味が、「善」か「悪」か、などという曖昧かつ不安定な基準でしか判別できない。
逆説的に、どちらの言葉を使っているかによって話者の価値観を推し量ることができるし、上手く使い分けなければあらぬ誤解を招くことになるだろう。
おわり。
途中から、国語の評論問題の文章書いてるみたいで楽しかったな。
特に意味の無いことをこねくり回しただけだけど、みんなが頭でぼんやり考えていることを、あえてしっかり言語化するというのは、わりと大事なことだと思う。たぶんきっとおそらくね。
たくさん書いたのでとっとと寝ます。明日も14時から授業なのだよ。稼ぐぞ~~
また明日、おやすみ~~
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