工藤勇一先生の講演を一番前で聞いて、自然と泣けてきた話。
ここ数年位で最も胸が高鳴った時間でした。
あの、工藤勇一先生の講演を一番前で聞くという大変幸せな経験をしてきました。
YouTubeより遥かに刺激がある
私は教育とは無関係の仕事をしている。
だけど、どういうワケが所属する会社の業界団体の研修会で工藤先生が講演される事になった。
研修会のお知らせが来たのは3月頃だったかと思う。
私は「こんな幸運があるなんて!!」と、胸が張り裂けそうな位ドキドキしながら参加申し込みをした。
研修会当日、私は「参加者」としては最前列をゲットして臨んだ。
工藤先生が講演前に舞台上で打ち合わせをしている。
私は工藤先生に対してアイドル的な好意を抱いているワケではない。
だけど、これまで数年間に渡って著書、YouTube、TVで工藤先生を追い続けてきたモノとして、それはもう大興奮だった。
「生・工藤校長だ!!!」
あまりにも距離が近くて、凝視するワケにもいかず目のやり場に困る程緊張した。
イザ講演が始まると聞いた事がある話が多かったけれど、後ろにいる沢山の参加者の反応がとても新鮮だった。
・日本の労働生産性の低さ
・デジタル化の遅れ
・世界ではペーパーテストを重視していない
・人口減少
こういう話について、客席が物凄く驚いて衝撃を受けている様子が伝わってきた(一番前にいたので見えないけれど)。
私にとって耳慣れた話であり、どうすれば良いのか?と考え続けていた事が同じ業界に属するメンバーにとっては「初耳」状態だった事に、逆に私が衝撃を受けた。
自分の子を型にはめようとしている
私はこの講演の最後に、もしも質疑応答の時間があったら必ず真っ先に手を挙げて質問をしようと思って聞いていた。
それは過去に沢山の工藤先生のメッセ―ジに触れた結果
「では、子育ての当事者である『普通の親』はどうすれば良いのか?」
という事だった。
今回の講演でも、工藤先生は
「小1プロブレムなんて言葉がおかしい。1年生の子がずっと座っていられないのは当たり前。海外ではこんな事を問題視していない」という話をされていた。
この内容は、過去のnoteにも↓
だけど、「親」としてどうすれば良いのか?
長男は授業中にウロウロ立ち歩いたりはしていない。
でも、ずっと良い姿勢で集中して話を聞いてはいられない。
それは、授業がそもそも退屈でありレベルに合ってないからではないか?と思う。
先月こんな記事を書いた。
子供はこの環境で6年生まで過ごしたら「苦行に耐える事が勉強」だと勘違いしてしまうのではないか?と本気で思う。
他にも工藤先生の講演ではお馴染みの「宿題の問題」についても話があった。
言い回しは違うけど、指摘されているのはこういう話。
正直、我が家でもこの問題には頻繁にぶち当たっている。
小2の長男は計算問題が得意だ。
まだ九九も習っていないけれど、RISU算数(タブレット教材)はどんどんステージが進み、今は「平均」とか「小数点の計算」等をやっている。
でも、学校から出される宿題は「たしざん、ひきざんのひっ算」とか「表とグラフ」辺りである。
だからと言って、親である私が
「この宿題はあなたにとって意味がないからやらなくて良い」なんて言えない。
大人になれば手書きで文字を書く事も殆どないし、ひっ算なんて全く使わない事をよく分っている。
だけど「文字は丁寧に書きなさい」と言ってしまう。
日本の教育が世界とズレている事も
公教育の改革が必要な事も
痛いほどわかっているけれど。
私が子供だった頃と学校の風景が全く変わっていないのだから。
だからこそ聞いてみたかった。
「ただの保護者は、どうすれば良いでのか?」と。
当事者意識
でも、そんな事を他人に質問する事が既に「当事者意識の欠如」なんだろう。
極端な事を言えば、宿題をやる・やらない なんて本人が選べば良い事。
もし「やらない」を選択して先生に何かを言われたら「本人が選択した事なので」と子供を尊重する。
それ位の覚悟が必要なのかもしれない。
それにしても。
それにしても、日本で子育てするって息苦しい。
もっと正直に、もっと自由に。
好きな事に没頭できる世界で生きた方が幸せな気がする。
10年以上、引っ越しも転職もしていない私にとって
「日本以外の場所で子育てをする」なんて、物凄いハードルが高い気がするけれど。
「このままではいけない」と。
環境変化の必要性を感じた一日だった。
今日も有難うございました!
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