日記3
言葉
言葉それ自体には何の価値も内在していない。名前についても実に空虚な代物であると言えよう。「sky-18」という名は別にボクの性質を表している訳ではない。一人称でも、自分のことを「ボク」と呼ぼうが「私」と呼ぼうが本質的には何も違いが無い。まあそもそも本名は我が両親がボクの生前に決めたものだから、それは一切意味を為していないのだが…まあいいか。本名と刑務所の囚人番号、この二つに何の違いがあろうか。したがって、言葉と概念は互いに遠くかけ離れているものであるから概念を言葉で表現しきることはできない。われわれ人間をどうして言葉で組み立てられることができようか。これは決して自分の言語運用能力の低さに起因するものではなく、自分自身そのものを「ボク」や「sky-18」といった一人称で指し示すことができないことだけは確信している。すなわち、ボクを「ボク:と呼ばない限りはボクは「ボク」と一体であるけれども、それを言葉にした瞬間、例え頭の中で想ったとしても「ボク」という語は自分の実態から離れて行ってしまう。現在は自分を指し示すのに「ボク」という言葉で代用しているに過ぎない。仮に自分自身(これも一人称の一つ)に一人称を与えなくなったときこそ、自分の本性を暴き出すことができるだろう。