大丈夫の魔法 BUMP OF CHICKENに救われた話
私はBUMP OF CHICKENが好きだ。
しかし「ファン」と言うのは憚られる。彼らの音楽をすべて聴いているわけではないし、彼らの言葉や背景をすべて知っているわけではない。
それでも、私はやっぱりBUMP OF CHICKENが好きである。
彼らは何度でも「大丈夫」と言ってくれるからだ。
好きな曲がたくさんあるが、今回は「記念撮影」と「HAPPY」に救われた話を書きたい。
記念撮影
就活が終わった時に、そして慣れない仕事が始まった時に、繰り返し聴いていたのが「記念撮影」だった。
学生のとき、私は何者かになりたかった。
でも明確な目標も夢も見つからないまま、「普通」に就職することになった。たぶん、やりたいことがあった。でも、自分でもわからなかった。
BUMPの音楽は不思議だ。今まではわからなかった歌詞が、ある日突然、スッと「わかる」瞬間が来る。言語化できない感情を、代弁してくれるように歌ってくれる。
「想像じゃない未来」。
あまりにも自分の状況に重なった。私の場合は、ネガティブな意味で。
でも、そんなふうにしか選べなかった私を肯定してくれたような気がした。
今はまだ、どこへ進めばいいかもわからない。やりたいことも、夢も、目標もどこかへ置いてきてしまった。
でも、「大丈夫」なんだ。今のままでも良いのだ。
仕事でミスをした帰り道、同期に置いて行かれそうだと不安になった夜、いつだって励ましてくれたのはBUMPだった。
HAPPY
それから少し経った社会人2年目の終わりのある日。
運転中に聴いた「HAPPY」に涙が止まらなくなった。
仕事中にもかかわらず。
こんな歌詞がいきなり耳に飛びこんできたから。
ああ、なんでこんなにも、的確に言葉にしてくれるのだろう。
それなりに仕事に慣れてきて、ふと思う。
一体自分は今、何のために頑張っているのか、と。
歌詞が自分の感情と直結し、反射的に涙がこぼれ、そうして初めて自分が今苦しんでいることに気づいた。人には言えない心を、理解してもらえたような感じがしたのだ。
たぶん、これが「届く」ということだと思う。
BUMPの音楽は、「たくさん」の「ひとり」のために紡がれているのだろうと思った。だから、こんなにも刺さる曲がつくれるのだろう。
一見、救いのない言葉にも聞こえる。どんなに嬉しいことがあっても、それはいつか消えてしまうのか、と。
でも、この歌詞に救われる人はたくさんいると思う。
私は、悲しみも喜びも同等で、どちらが良い/悪いはない、という意味に解釈した。幸せそうに見える人を羨んだり、憎んだりする必要はないと思うと、少し気持ちが軽くなった。
それでも消えない悲しみだってある。たぶん誰にでも。
私もまだ生きていていいのだ。それを生きる意味にしたっていいのだ。
もう少し生きてみようよ、というメッセージのように聞こえた。
大丈夫の魔法
BUMPの曲を無性に聴きたくなるのは、いつだってしんどい時だ。
迷ったり、悩んだり、苦しくなった時に、立ち止まって振り返った先に待っている曲。でも、ただそこに居てくれるだけだ。
だけど、その「居てくれる」ことにどれほど救われるだろう。
先日、NHKの「18祭」で「窓の中から」という曲を、「杖のような曲にしたい」と話していた。
BUMPの曲は、手を差し伸べて引っ張ってくれるわけではない。
あくまで立ち上がるのは、この曲を聴いている私自身なのである。
私たちはあくまで「1人」。でも「独り」じゃない。
1人で聴いている先に、たくさんの「ひとり」が見える。
BUMP OF CHICKENは、弱さをまるごと受け止めてくれる。
それでも強くあろうともがく私たちを肯定してくれる。
「大丈夫。ひとりでも立ち上がれるよ」と。
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