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"恐怖"と「錯誤相関」

昨日は久々にどうしようもない恐怖と不安に襲われた。
毎日どれだけマインドコントロールを充実させていたとしても、人の生死と向き合う瞬間には無力になるし自分を見失いそうになる。
昨日はとてもじゃないが普段のルーティンをこなせるような心の余裕は無かった。
なのでたまたま一昨日に、昨日分のnoteを書いておいて良かった。本当にたまたま昨日分を先に済ませておいた事で突然心奪われた緊急事態に、積み上げてきた習慣ごと奪われる可能性をなんとか食い止める事が出来た。
もう昨日のように、時間を過ごす事すら耐えられない感覚というのは極力人生から減らしたい。日常生活があんなにも幸せな時間だったなんて、改めて日常の素晴らしさと尊さを実感した時間だった。
時間を過ごす事に拒絶反応を覚え
自分の力では目の前の悲劇をどうする事も出来ない事がこれ程にも苦しい事だなんて
日常離れした感情、恐怖と不安を昨日味わう事になった。
自分のプラスの感情だけでなく
マイナスの感情にも向き合うのは現実として自分の意識の中に重くのしかかってくるものがある。
そして何より「錯誤相関」に振り回される。
それは具体的にいうと
自分がある行動を取った後にトラウマになりうるような悲劇が身の回りで起こってしまった時
自分がどんな行動を取ったか関係なく
日常離れしたその悲劇の原因を自分がたまたま直前に取っていた行動に押し付けてしまう、そんな心理現象だ。
今回の場合でいうと、昨日突然自分の元に
緊迫した家族の知らせが入って来た時だ。
自分はそれまでたしかギターの練習をしていた。
練習していた曲はお気に入りの曲でありながら悲しい要素を含んだ楽曲であった為
自分としては気持ちを良くしながらそれを弾いていた自分にもしかしたら原因が、と思ってしまった。
こうなってくるとそれ以降自分の行動や意識に
他人の悲劇に繋がってしまうのではないかと
考えるようになって自分の意思で行動を起こす事が怖くなる。怖くてたまらなくなる。
さらに、そんな自分が嫌になって余計にどうする事も出来なくなるのだ。
今は少し落ち着いている家族の状況も
またいつ変化するかもわからない。
「出来る事から始めよう」という思考がどれだけの難易度を含んでいるのか。

まあしかし、
それでもまだ客観的に自分の意識を捉えられている事だけは自分の救いとなっている。
くれぐれも「錯誤相関」に陥らないように、そして、自然にやってきたマイナスの感情には自然に向き合ってあげるという意識が今の自分には必要だ。

昨日の夜寝られなかったので
普段の0トレの代わりに自分の気持ちをひたすらノートに書き殴る作業を行ってみた。
ひょっとしたら今こうして平常心でこのブログと向き合えているのは、その効果が今の自分を助けてくれているからなのかもしれない。



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