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星に願いを、なんて

七夕は秋の季語だ。

駅の改札口を出て、ちらほらと七夕飾りを見た。
個人的には陰暦の七夕の方が、時節とマッチしてしっくりくるが、今年の夏は暑くてそれどころじゃない。

駅の構内を出ると、また七夕飾りが見えた。
家族が携帯に送ってくれた、七月の七夕祭りの写真を思い出す。
笹の葉が隠れてしまいそうなほど沢山下がった色とりどりの短冊たち。
幾数もの短冊が、風鈴の舌のごとく優雅に風に揺れている姿さえ見えてきそうだった。

子どもの頃は、ロマンティックに考えていた一年にしか会えない恋人同士を、大人になった今では、遠距離でよく続くな、とか、よく浮気しないな、と感嘆と少々の呆れを以て考えていて、そんな思考をしてしまう自分に気付いて少し苦い気持ちを味わう。

そういえば、短冊に願い事を書かなくなったのはいつからだろう。
好きな色の短冊を選ぶこと、卓上に控えた鉛筆やらペンやらをとりあえず手に取ることはできるだろう。
そして、そこでピタリと動きが止まってしまうのだ。数々の願いを前にした自分の心の迷いと困惑のために。昔はもっとシンプルだった願いも、今はなかなかどうして意味深に考えてしまうから。

どれかひとつに絞るのは難しい。紙を前にして言葉として形づくり、定義することは尚更むずかしい。
うまく形にならない願いや想い。諦めてきたものたち。諦めざるを得なかったものたち。それでも今もまだ願っているもの。本当にたいせつなもの。世間的外聞がいいもの、本音。
子ども騙しのように、でも心のどこかでは、本当に叶ってほしいと望んでいる願いごとの候補たち。

子ども頃に持っていた純粋な『願いごと』ではなく、不安や心配の裏返しから派生した無数の『願い』の数々。

これが大人になった、ということなのだろうか。
もっと楽しく考える大人もいるのだろうけれど。今の私はこの地点にいる。
思っていたような大人になりきれないまま。あるいは、思っていたような「大人」とは遠いまま、思いもしなかったような体験をして。

いつの間にかこんなに不安定で欲張りになってしまったな、と思いつつ、七夕を横目に通りすぎた。

時間がないから、余裕がないから、どうせ書いても叶えられないから。そんな、諦めのような言い訳で通りすぎていく。
遊び半分で考えて書いてもいいだろうに、そうしなかった。それができない、できなくなってしまったのかもしれない自分を隠しつつ。

だけれど、他人の願いごとを見るのは嫌いじゃない。
えー、と照れくさそうに書く人は大人も子どもも希望を持っているように見える。
遊び半分でもいいから。
熱烈な想いで飾る人もいるかもしれないが、少ないだろう。

ひとびとは儚くても、叶わなくても、想いや願いを込めて飾る。
そんな姿は好きだ。これからも続いてほしい。そう願う。

カラフルな短冊で笹の葉を彩る七夕はきらいじゃない。
願わくばその想いが、空の星たちに届きますように。

2023.08.07-2023.08.08

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