太陽の色

小学生の、図画工作の時間だったと思う。

クレパスを持って、校舎から運動場に出て、私たちのクラスは外の絵を描いていた。

その授業時間の終わりだっただろうか。
みんなが運動場に集まって、小学校の担任のせんせいが私たちのクラスに聞いた。


「みんな、太陽の色は何色だと思う?」


赤、と思った。
みんなも「赤!」と元気よく返事をしていたと思う。

担任のせんせいは頷いた。

「そうだね。太陽の色は《赤》だよね」

だからこういう色で太陽は塗っちゃいけない、とせんせいはクラスの一人の絵をみんなに見せた。

その絵は、青空が広がっていた。
画用紙の右端には、私よりも元気に、そして大きく描かれていた《黄色》の太陽があった。

その時の私は、変な色に描くなあ、と思ってしまった。周りの子たちからも不思議そうな雰囲気が漂っていた気がする。

『どうしてそんな色に塗るんだろう』。

でも、私は心のどこかで納得していた部分もあった。

『太陽が《赤》だなんて、誰が決めたんだろう』

『だって、空の上で輝いている太陽は、《黄色》に見えるのに』

『たった12色しかないクレパスの中で、《黄色》が見たままに一番近い色なのに』

そう思った。

その《黄色の太陽》の絵を描いた男の子は、恥ずかしそうに俯いていた。

その子は同学年の中でも変わった子だと言われていた。だから、「ああ、また変なことやってる」と心のどこかで私は納得してしまっていた。

『ダメな』見本としてクラスの面前で見せびらかすように掲げられることが、どれだけ人の心にショックを与えることか、今なら分かるのに。
記憶違いでなければ、当時のせんせいは「〇〇くんが描いたみたいに」と名指してしまっていたような気もする。
良い事はともかく、こういうことで名指しされ、取り上げられることは、いけないことだったと今なら分かるのに。

その子がもし大きくなっていれば、もう忘れた嫌な記憶のうちのひとつかもしれない。
あるいは、もう思い出したくもない記憶かもしれない。

もしあの時のせんせいが、その子の太陽の色のことをどう表現すれば、その子も傷つけず、周りも納得するような雰囲気になれたのだろうと思う。

私がせんせいの立場なら、みんなと違う色の太陽を、やはり「間違い」だと思ってしまうのだろうか。
それがたとえ、目視できる状態のそのままの色であっても。

幼い私は、あの《黄色の太陽》を《間違いだ》《いけないことだ》と理解してしまった。

でも本当に間違いだったのだろうか。

私は今も時々思い出して首を傾げてしまう。

私は空が大好きで、朝も昼と夜も、よく空を見上げている。嬉しい時にも辛い時に、太陽も月も星を何度も何度も見上げてきた。
今を生きる現実世界で日用の糧に繋がる大事で、生命には必要不可欠なエネルギーだ。神聖な象徴でもあり、美術や絵画やイラストや物語に、様々な形で登場する。壮大な宇宙を想わせる美しく神秘的なものだ。

夕焼けの中に沈む太陽は確かに《赤》に近い色をしている。オレンジのときもある。白いときもある。
世界に出れば、太陽の色が日本と違って見える外国もあるのだろう。
芸術的な感性からすれば、《黄色》で描いても何の差し障りもないはずだった。

ただもし《黄色の太陽》のままであれば、描ききった絵を教室の後ろにの壁に飾るとき、みんなの描いた《赤い太陽》のなかで、あの子の《黄色い太陽》が一番目をひくことになるかもしれない。
そしてそれは、当時、あまりにも多様性が根ざしていないあの教室では、みんなが受け入れることができなかっただろう。
善悪も感情も論理も、まだ育ちきっていない無邪気な子どもたちは、遠慮を知らない。
そのとき、それを寛容に受け入れられるクラスの雰囲気はおそらくなかった。
当時の私自身も、残念ながらなかっただろう。
あまりにも幼かった。そして幼い以外に何も出来なかった。

でも幼い子どもにだって、無意識に何かを学びとろうとすることは、きっとできるだろう。
今も私がこうして思い出しているように。

変だな、不思議だな、と思ったところに何かの《学習》のような切れ端があるのかもしれない。『納得できない』という何かが、人に何かを教えてくれるかもしれない。
気に留めなれければ、ただ通り過ぎていく《何か》。

そして、その何かを正しく学ぶには、大人の助けが必要だと思う。押しつけでなく、本人の心に寄り添う形の方法で。

結局、教室の後ろに飾られたとき、その子の絵は《黄色の太陽》を《赤》のクレパスで塗りつぶされていた。
腹立たしい、というような激しさをクレパスの筆跡や筆圧から感じた気もする。
それでも完全に《黄色の太陽》は隠しきれていなくて、《赤い太陽》から少しだけはみ出ていた。


あれから、もう十五年以上経っている。
今の教育というものも変化しているだろうと思う。
教育理念や現代教育のことは、その方面に疎い私には分からない。どういう教育をして、今ならどういう対応をするのかも、素人の私には分からない。

ただ今はもう、あの頃みたいに〇や×の視点だけでなく、もっと豊かな別の視点と柔軟な対応ができるのではないかな、と思う。
子どもたちが無闇に傷つかない、学び舎になればいいなと思う。

私に未だに「太陽の色は何色か?」という問いかけを思い出す。

《黄色》の太陽があってもいいんじゃないかなあ、と小さくとも呟けるような子どもだったらよかったな、と今は少しだけ思ったりもする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?