数々の伝説を生んだ武将~源義経
平安時代末期、平氏が栄華を極めていた頃に、源義朝の末子として生を享け、謎に満ちた生涯を送った義経。
母は常盤御前。
平清盛に命乞いに行った際、その美貌から3人の子と共に死を免ぜられた。
常盤御前は後に、一条長成の妻となり、当時牛若と呼ばれた義経も、長成の元で育つ。
11歳になった牛若は、鞍馬寺に預けられ、稚児名を遮那王と改めた。
しかし遮那王は僧になることを拒否し、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍である藤原秀衡を頼って平泉に下る。
都から奥州は遠い。
ここで第一の伝説となる、金売り吉次と凛々しい稚児姿の義経との華々しい旅路が、今でも語られている。
しかし実際はそのような甘いものではなかったことが、後の義経が兄・頼朝に宛てた手紙(腰越状)に書いてある。
抜粋すると、
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諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。
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現実は厳しいというべきか、土民百姓といえば、当時は最下層に近い身分の者たちを指す言葉であるが、更にその奴隷のように扱われていたというのである。
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奥州の藤原秀衡の元にいた義経に転機が訪れる。
伊豆に流罪となっていた、兄・頼朝が、打倒平氏の呼びかけに応じて挙兵したのである。
義経は喜び勇んで頼朝の元に馳せ参じ、黄瀬川の陣で涙の対面を果たす。
ここから義経の武人としての素質が大いに発揮されることとなるのである。
都では、従兄弟にあたる木曽義仲が暴挙の限りを尽くしていた。
これを不服とする後白河院は、頼朝に「打倒木曽義仲」の宣旨を送る。
頼朝は、弟・範頼と義経に兵を託し、宇治川の戦いにおいて義経が木曽義仲を敗走させ、粟津の戦いでこれを討ち取った。
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次なる敵は平氏である。
播磨国へ騎兵を使って迂回し、三草山の戦いで夜襲によって、平資盛らを撃破し、わずか3日後に、かの有名な一の谷の戦いで崖から逆落としを仕掛け、平氏本陣の背後を奇襲する。
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この崖というのも、昭和時代には汽車も通るくらいのもので、馬が下れないほどではなかったという。
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しかしここで着目したいのが、義経が日本史上初めてともいえる、騎兵を用いたことである。
後の武田信玄の騎馬隊とは違い、純粋に馬に乗った兵だけを率いた為、機動力においては他の追随を許さない。
長い日本の歴史では、義経の他に、信長が桶狭間の戦いにおいて騎兵を用いた一例のみである。
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このドラマチックな戦いは、都中に知れ渡り、義経は一躍庶民のアイドルとなった。
そして頼朝の許しを得ずに、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任ぜられた。
これが後々の頼朝と義経の対立を生む一因となる。
同時期、西国の範頼遠征軍が兵糧・兵船の調達に手間取り、進軍が停滞していた。
これを聞いた義経は、後白河法皇の許可を得て西国に出陣する。
ここでまたしても義経は、船を使って驚異的な速さで移動し、屋島の戦いにおいて平氏を敗走させた。
一息つく間もなく水軍を編成した義経は長門国彦島に向かい、壇ノ浦の戦いにおいてついに平氏を滅ぼした。
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ここでも義経は常識破りな戦術を用いた。
平家船の水手・梶取を射殺し、船を行動不能にするのである。
彼らはいわゆる非戦闘員であり、それを殺すという発想は当時無かった。
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後白河法皇からは戦勝を讃える勅使も賜り、悠々と京都に凱旋した義経であるが、既に2つの致命的失敗を犯していた
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頼朝の許可無く、朝廷から任官を受けたこと。
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三種の神器のうち、宝剣を取り返せなかったこと。
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頼朝は激怒する。
その上、義経は前述した「腰越状」の中で、全ては頼朝の家臣、梶原景時の讒言であると言い訳した。
「・・・わかっちゃいない」
頼朝の正直な気持ちだろう。
実の弟といえども、いや、だからこそやってはいけない失態である。
ことは武家政権の根本を揺るがしかねない。
義経は武人としては天才であったが、政治的センスは皆無だったと言わざるを得ない。
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結局義経は、謀反人として頼朝から追われ、奥州平泉に逃げ込む。
そこで更なる悲劇が起こる。
義経の最大の庇護者であった秀衡の死である。
行く末を案じた秀衡は、跡継ぎの泰衡に遺言した。
「あくまで義経を保護し、もし鎌倉と対立するようなことがあれば、義経を大将軍として対抗せよ」
しかし、鎌倉幕府から圧力を受けた泰衡は、これを恐れて義経を討ってしまう。
更に泰衡は逃げる途中に、家来の裏切りによって殺された。
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「義経は衣川で死なず、生きていた」
こんな伝説が世の中に広まった。
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ひとつは北方、即ち蝦夷の地に逃れた、というもの。
「義経北方伝説」である。
1799年、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。
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もうひとつは「義経=ジンギスカン説」である。
これは聞いたことのある方も多いかもしれない。
江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』に、清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清とした」と書いてあったという文章があった為である。
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どちらも学会からは完全否定されているが、どうしてこのような伝説が生まれたのか。
日本史上、稀に見るアイドル的存在の死を悼む心や、残念に思う人たちが大勢いたということではなかろうか。
「判官贔屓」という言葉も残っているが「判官」は義経を指すことは周知の事実であり、今も使われる言い回しである。
*追記*
これは日本に関わらず、世界史でも見られる現象で、例えば13世紀のローマ皇帝フェデリーコⅡ世は、『皇帝の書』を発布して善政を布き、聖都エルサレムを取り戻した名君として親しまれ、不死伝説として「エトナ火山に身を隠している」説や「ハルツ山中の洞穴で眠っている」という話は、義経に通じるものがあるかもしれない。