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仲哀天皇は女性だった?

日本の第14代天皇である仲哀天皇。
古代の英雄、日本武尊の子であり、三韓征伐で有名な神功皇后の夫である。
しかし、今の通説では実在性さえ疑われる人物となってしまった。

仲哀は女性ではないか?
まず漢風諡号に注目した。
「哀」を抜くと「仲天皇」(なかつすめらみこと)と読める。
「なかつすめらみこと」=「中皇命」と呼ばれた人物が『万葉集』で認められる。
誰を指すのかは定説が無いが、斉明女帝か、その娘である間人皇女が有力とみられている。
いずれにしろ、先の天皇と後の天皇の中継ぎという意味の呼称である。

斉明女帝は661年、百済復興に加勢するために筑紫に赴き、そこで崩御した。
仲哀もまた、熊襲討伐のため筑紫に赴き、三韓征伐の前に崩御している。
これは偶然か。

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仲哀天皇の諱も謎が深い。
『日本書紀』では、足仲彦(たらしなかつひこ)。
『古事記』では、帶中津日子命という。
ここでも「仲(中)つ」という呼称が出てくる。
もっとも、次男(または次女)であれば「仲(中)」というのも不自然ではない。

しかしここで『日本書紀』と『古事記』の記述が食い違う。
『日本書紀』では日本武尊の第二子であり、同母の第一子を稲依別王としているので、諱に「仲」が付いてもおかしくない。
対して『古事記』では、紛れもなく第一子として書かれており、稲依別王は異母の弟として書かれている。

そもそも稲依別王が第一子ならば、仲哀の前に即位している筈なのである。
犬上君と武部君の祖先であるという記述があるので、若くして亡くなったわけでもない。

『古事記』では日本武尊の御子は六柱と書かれているが、『日本書紀』では七柱であることが確認できる。

『日本書紀』は何故、第二子にこだわったのか。
実際は第一子であるのに、諱に「仲」が付くという矛盾を隠そうとしたのではないか。

あとは「姫」だったものを「彦」と書けば、簡単に性別はひっくり返すことができる。
仲哀の母は垂仁天皇の皇女である。
ここにも謎が隠されているので後述する。

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話は少し飛ぶが、私は最近になって、仙台市の大崎八幡宮に参拝した。
八幡宮というからには、応神天皇・比売大神・神功皇后が祀られているのだろうと考えていたのだが、御祭神を調べると比売大神ではなく、仲哀天皇が応神天皇、神功皇后と共に祀られていたのである。
御由緒にも「宇佐八幡宮を勧請し」とはっきり書いてある。

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比売大神=仲哀天皇
とすると仲哀は女性ということになる。
では仲哀女帝とは誰なのか。

垂仁天皇の皇女、倭姫命ではないかと私は考える。
日本武尊が西征の際、天照大御神の巫女として衣装を授けた女性でもある。
先ほど述べた謎というのは、仲哀の母と倭姫命が異母姉妹の関係にあるということだ。
これは、読む人間を煙に巻く意図が明確にあったと考える。


年齢が合わない、と思う方もおられるかもしれないが、記紀の年代は当てにならないというのが現代の定説となっている。

中国南朝へ使節を派遣した「倭の五王」から年代を比定すれば、倭王讃(第16代仁徳天皇または第17代履中天皇)の崩御は430年代。
『新羅本紀』によると346年に初めて首都金城を包囲したとあり、これが応神天皇が生まれた年と推測される。
この間、約90年とすれば倭王讃は応神の息子である仁徳、孫の履中どちらでも不自然はない。

ここから逆算していくと、応神の父(仲哀とされる)が310年代後半頃の生まれ、日本武尊の長男が仲哀なので20歳の時の子供とすれば290年後半の生まれ、その兄の第13代成務は同年代で、その父第12代景行天皇25歳頃の子供とすれば景行天皇は275年あたりの生まれであろう。
景行天皇の同母妹の倭姫命は5歳ほど離れているとして280年頃の生まれとなる。

三韓征伐の前年、345年には倭姫命は65歳前後と推定できる。
当時としては長寿の部類であろうが、不可能ではない。
むしろ前に触れた斉明女帝が崩御したのは67歳であり、倭姫命と重なる部分があるのだ。

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倭姫命の後を継いだ応神天皇の父は定かではない。
華々しく登場した崇神王朝は仲哀女帝で終わりを告げ、神功王朝の幕開けへと繋がるのである。

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