窓の庭
アパートの窓から見える向かいの二階建ての一軒家は、来月に取り壊されることが決まった。会社から帰って何気なくポストを覗いたとき、工事のお知らせと、再来年完成する五階建てのマンションの見取り図が届いていた。
部屋の内覧に訪れたとき、最初に惹かれたのがこの窓の景色だった。
庭には一番大きなソメイヨシノをはじめ、立派な木々が伸びていて、玄関前も濃淡の異なる緑色と、薄紫色の花によってバランス良く包まれていた。けれど、これだけ広い家なのにだれも住んでいないらしく、週末のたびに清掃員らしい女性が訪れるだけだった。
年中工事の音が響く東京の街ではめずらしく、この家だけはいつもひっそりとして、まるで静物画のように佇んでいた。
冷蔵庫の前で夕飯の支度を悩んでいると、スマートフォンが震えた。洋介からのメッセージだった。
洋介とは職場の同僚に紹介してもらって、二ヶ月前から付き合い始めたばかりだった。初対面からなんとなく見知ったような雰囲気の人だったけれど、話を聞いているうちに出身地が近いことがわかった。話し方のイントネーションも、間の置き方も、どことなく似ていて、私たちはすぐに仲良くなった。
八時を過ぎた頃、洋介はスーパーの袋に私の好きな桃と、お願いしておいたビール缶を詰めこんでやってきた。私は冷蔵庫の余りものを簡単に炒めて、味噌汁を温め直した。
「仕事はどう?」
「うん、忙しいかな。洋介は?」
「まあまあ」
おいしそうに夕飯を頬張る彼の向こう側に、庭が見える。庭は少しずつ緑の輪郭をなくし、夜の色に変わってきた。家の雨戸は相変わらず閉められて、わずかな灯りも漏れてこない。
「桃、剥こうか?」
「やってくるよ」
「いいよ、あれ苦手でしょ」
洋介は立ち上がって台所に行き、冷えた桃の皮を丁寧に剥いた。
「ねえ」
「なにか喋った?」
テレビの音で聞こえにくいのか、洋介が聞き返す。
「向かいの家、もうすぐ取り壊されるんだって」
「そうなの?」
桃をつまんで一口味見する。
「今日、ポストに届いていてね。五階建てのアパートになるみたい」
そう言って地図を広げると、洋介は汁のついた指を舐めながら食い入るように見つめた。部屋数を数えたら、一つの階につき六部屋もある。そのうち二部屋くらいは、ここの窓と同じ高さになるかもしれない。
「けっこうでかいね。これだけ広かったらずいぶん人が入るよ」
「オリンピックだからかな」
私も、頷いた。
「そういえば、駅前のレンタルビデオ屋の隣も、ちょっと古いビルだなと思っていたら取り壊されていたね。古い建物はどんどんなくなっていく。なんだか、俺たちの田舎とは大違いだ」
洋介は短くそう言うと、つけっぱなしのテレビに視線を移した。
エアコンの室外機がうなり、ベランダの向こうでは庭の木々が熱風に揺れている。来月取り壊されることが決まってからと言うもの、窓の外にあるはずの家も、庭も、まるで死んでしまったように感じられた。どうしても眠れなくて、隣にいる彼の背中に触れてみる。温かくて湿っぽい。てのひらで確かめるように撫でていると、そのうち、こちらに向けて寝返りを打った。
「眠れない?」
「うん」
「なにか考えていた?」
「そう」
「なんでも考えすぎるからだよ」
洋介はあくびをして、私の背中を撫でつける。
「目を閉じていたら眠れるよ」
彼は優しい。
多分これ以上言うことがないくらい、優しい。
洋介はもう一度、深い眠りに落ちていった。今度こそ朝まで起きないだろう。そのうち、彼の規則正しい寝息が聞こえてきた。呼吸をするたび、からだが浮き沈みして、私もそれに合わせてみるけれど、途中で息苦しくなってくる。どれだけ一緒にいても、当たり前だけれどこの人が今なんの夢を見ているかしらないし、ほんとうはどんな夢を見たがっているのかもわからない。
向かいの家は、まもなく取り壊されてしまう。
春になると満開になる桜の木も、台風にも負けない枝や葉も、なにもかもが取り除かれて、今までここになかったはずの五階建てのマンションが完成する。
カーテンの隙間から外灯の光が漏れて、部屋の中が青白く光る。
洋介の温かい背中に額をつける。瞼を閉じる。すると、ここが東京なのか、生まれ育った田舎なのか、急にわからなくなる。それから、今度こそなにも考えないようにと考えながら、私もようやく眠りについた。
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