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【私の十界論】声聞界…「もっと勉強しなきゃ」

学生の頃、私は、教学(法華経や日蓮大聖人御書について学ぶこと)が好きでした。とても昔の文章なのに、今の自分のことを言われているような感じ、文章の奥にある普遍的な考えが見えたときの面白さが好きでした。

でも私の周りにはそのことについて語り合える人はあまりいませんでした。
学会の座談会では、御書講義という時間がありましたが、本に書いてある文章を読むだけだったので、皆がそれをどう感じて現実にどう活かしているかを知る機会はあまりありませんでした。
学会以外の友人に仏法の話をしても、面白がられるか避けられてしまいました。
私はそのことに物足りなさと不満を感じていました。

同い年のHさんは、教学は苦手と言っていました。勉強会もあまり楽しくなさそうでした。でも、明るく素直で友達が多くて、よく友達を会合に連れてきていました。Hさんの人柄を信頼して入会した人も何人かいたようでした。

Hさんを見て、私は損な性格をしているのかもと思いました。いくら仏法を勉強しても、人に信頼されなきゃ、その話をすることもできない。人柄や振る舞いで愛される方が大事なのかもしれないと思いました。そしてそれは私にとってとても大変なことだったので、私には無理だと思いました。

でも本当は、「勉強」か「人柄」かのどちらが大事かという話ではなかったのだと今は思います。根本的に自分を認めてあげていれば、話す相手がいなくても勉強楽しい!と思えただろうし、私が楽しんでいれば話を聞いてくれる人も自然と現れたと思うのです。

私は、自分の学んだこと感じたことを、人に否定されるのが怖かったんだと思います。だから人に心を開くのが怖かったし、怖がってるのが伝わっていたのだろうと思います。

人に否定されても、私が学んだこと感じたことは間違えじゃない。人から言われたことでもっと気づくことがあればそれを取り入れればいい。と、自分に味方できれば、人に話すことはそんなに怖くないのかもなと思いました。


声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯をいいます。
この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
二乗が得た覚りは、仏の覚りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。しかし、二乗はその低い覚りに安住し、仏の真実の覚りを求めようとしません。師匠である仏の境涯の偉大さは認めていても、自分たちはそこまで到達できるとは考えず、自らの低い覚りにとどまってしまうのです。
また、二乗は自らの覚りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。

創価学会HP
https://www.sokanet.jp/kyougakunyuumon/kyougakunyuumon/jyukkairon03/