二競対立について
「二競対立」という言葉を思いついたのは、一般的な「二極対立」や「二項対立」という言葉に違和感を感じたからなんです。
「二極対立」や「二項対立」は、二つの概念が対立の関係にあること。
例えば、「善と悪」「男と女」「東洋と西洋」などがそうですね。
一方、「二競対立」は、同じ目的や対象に向かう二つの異なる感情や意志が競争し、ぶつかり合う状態を示します。二つの対立する概念が、ただ分かれているだけでなく、互いに競い合っているという側面を含んでいるのです。どちらも目的以外のことは「無関心」や「眼中にない」状態となります。
この「競合」や「競争」という要素は、は、現代社会において注目すべき点だと思います。
それは日常生活のあらゆる場面で競争が存在しており、それが人々の能動的な行いを鼓舞したり、成長の原動力になったりしているからです。
「バガヴァッド・ギーター」から引用すると、アルジュナとドゥルヨーダナの間に二競対立が見られます。
愛と憎しみ、信仰と自己中心な行為などが同じ対象をめぐって競い合うような場合ですね。
アルジュナはクリシュナへの信仰に基づいて行動(バクティ; bhakti)しているのに対し、ドゥルヨーダナは自己の利益や権力を求め、敵意(ドヴェーシャ; dveṣa)と自己中心的に行動します。
二人は同じ目的(ダルマ)に向かっていますが、そのエネルギーの質は全く異なるのです。
イーショーパニシャッド(Īśopaniṣad)には、次のような言葉があります。
この教えは、「完全体は変わらない(不増不減)」という真理を示しています。これを踏まえると愛と憎しみのような一見対立する関係の中において、実は、調和を示唆していることがわかります。
対立があるからこそ、私たちはそれを超え、さらなる理解と調和に達することができるということです。
アルジュナとドゥルヨーダナの感情は同じ目的に向かっていますが、その気持ちのあり方(バーヴァ; bhāva)や感情の味わい(ラサ; rasa)が違うのです。このように、二競対立は単なる二極対立ではなく、同じ目標に向かう異なる感情やエネルギーの競争関係を表す興味深い概念なのです。
ポイント:
二競対立(dvispardhā virodhaḥ)は、単純な二極対立ではなく、同一目標に向かうが異なる感情や概念の競争関係を表す。
バクティ(bhakti)や敵意(dveṣa)は同じ対象に向けられるが、その性質が異なることで対立する。
ラサ(rasa)やバーヴァ(bhāva)は、それぞれの行為や感情の質を示すものであり、これにより両者が対立する。
皆さんも、内観し、競い合いながらも共に成長していくエネルギーを感じてみてくださいね!
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