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櫻坂46歌詞考察「UDAGAWA GENERATION」:疎外された若者の諦念

櫻坂46 11thシングル表題曲「UDAGAWA GENERATION」が1/28から先行配信されている。一見意味不明なタイトルに、楽曲はレトロな明るさで溢れているが、歌詞はなかなかに奥深い。都会の象徴としての渋谷に憧れを持ちやってきた主人公が、街や自分自身の現実に気づかされ将来への期待を失う様子が描かれている。

以下、自分なりに歌詞を読み解いてみた内容をパートごとに載せている。最後に、タイトルの意味についても考えてみた。



1番

Aメロ

何で?何で?何で?
意味不明 どうしてここにいちゃいけないの?
今宵はFull moon ビルに目隠しされて
手探りで歩く人混みよ

いいじゃん いいじゃん いいじゃん
何をしたって…傷ついたって…
好きに生きたい
ホントの年齢より 大人に見えるように
Make me up! Yeah Yeah Yeah

タイトルの「UDAGAWA」から、「ここ」はきっと渋谷のスクランブル交差点から広がる繁華街のどこか。休憩しているところを近くの店の人や警官に注意されたのだろうか。それとも、誰かとぶつかって睨まれたりしたのだろうか。「ここにいちゃいけないの?」と思っている自分も、「手探りで歩」いている周囲の人も、あまり落ち着いた状態ではないことが窺える。メイクアップをしようとしているのは、他人から舐められたくないという気持ちのあらわれか。

少し脱線するが、渋谷をはじめ東京の街では気軽に休む場所が減ったと聞く。個人的な感覚でも、再開発によって綺麗に整った感じはするけど、居て落ち着く感じはしない。以下の記事にもある通り、こうした再開発により「気楽さ」「ゆとり」が無くなったあおりを最も受けるのは若者な気がする。


Bメロ

こんなバカをできるのも
若さのせいにできるまで
イリーガルって その線踏まずに…
ギリギリがいい 刺激的な日々
どっちに転ぶか?
どこまで行くのか?

どんな「バカ」をしたのだろうか。前後の歌詞を踏まえれば、メイクをして渋谷に出かけて遅い時間まで遊ぶことな気がするが、後半には「終電」みたいな単語も出てくるので、夜明けまで飲むことかも。

はっちゃけすぎるというより「その線踏まずに」「ギリギリ」なのが今どき。ルールに反発するのではなく、ルールの中で"巧く"やる感じ。


サビ

Unknown Unknown
誰かのマイルストーン
変わらないって最高じゃない?
いついつまでも遊んでいたいよ
だって…ずっと…
他に何があるのか?
未来…
We are UDAGAWA GENERATION

他人が敷いたレールに乗っかり続けるのは嫌だけど、自分で考えて道を切り拓くというのもなんだか違う。生まれてからずっと不況で、「未来」に対して期待するという心性をそこまで持っていない。諦念とそれに基づく刹那主義。個人的にはかなり櫻坂らしい歌詞。以下具体例。

無理をして微笑むしあわせなんて要らない
これからの人生期待なんかしてない

「最終の地下鉄に乗って」

何にも期待してない 未来は深い海の底

「制服の人魚」

明日に期待しなきゃ 傷つくこともないさ

「何歳の頃に戻りたいのか?」


2番

Aメロ

Yeah
普通に歳取るその都度Boring
やりたいこととか何にもNothing
ああしろこうしろ言われたくない
流されて行けばどこかに着く

Z世代なんて言葉は
誰かが作ったマーケティング
私は私だ Yeah Yeah Yeah

引き続き諦念と刹那主義。「普通に歳取る」ことを退屈だと言いながら、特にやりたいことがあるわけでもない。それでいて「Z世代」と括られるのはなんだか不服で、確たる自我を持っていたい。

Z世代にギリギリ入らない自分からすると、ちょっと欲張りな気がするけど、若者を過度に美化しないリアリズム(実態を正確に描写しているかは分からないが、理想化しないという意味での)が好み。


Bメロ

ここで騒ぐことすら 今じゃできなくなりました
ハロウィンなんかもうどうでもいい
浄化作戦 追い出されてしまう
あの娘(こ)はWelcome 私はNG?

再度渋谷にまつわる歌詞。2023年から渋谷区が始めた、ハロウィンイベントの自粛を促すキャンペーンのことだろう。2024年には「渋谷は、ハロウィーンをお休みします。」に加え、「渋谷に、路上でお酒を飲む文化はありません。」という広告も掲出された。こうした動きを「浄化作戦」と表現し、「私」は疎外感を抱いている。

渋谷区は2019年に「ハロウィーンを渋谷の誇りに」と言っておきながら、「ハロウィーンイベントの会場ではありません」「お休みします」などと手のひらを返した。また、渋谷のコンビニで缶のビールやチューハイを買って路上で飲むというのが海外からの若い観光客に人気を博したのに、今は路上飲酒を条例で禁止している。多様性を謳っておきながら、それは行政にとって都合のいい「多様性」でしかないという欺瞞。

「あの娘はWelcome 私はNG?」は、以前ニュースやSNSで見ていた渋谷ハロウィンにいた人たち(あの娘)は楽しそうにしていたのに、自分が来た頃にはダメになっていて、貧乏くじを引かされた気分になっているのだと思う。「可愛い子は優遇されててずるい」というルッキズム的なお話もあるかと思ったが、ここ以外にルッキズム要素は出てきておらず浮くので、時間軸で解釈した。


サビ

I wanna go! I wanna go!
生まれた街じゃないけど
シャッター閉められ 拒否されちゃったら
ずっとこのまま しゃがんでいたいよ
だから…全然…
夢なんか見たくない
何も…
We are UDAGAWA GENERATION

「生まれた街じゃない」ということで、この曲の主人公は少なくとも渋谷近辺の出身ではない。おそらくは日常的に遊びに来ていた場所でもなく、後の歌詞にもあるように「憧れて来た」ということだろう。そして来てみて、自分がお呼びではないことを自覚して傷ついている。傷つかないためには、自分が変わることよりも、「夢なんか見」ないほうが現実的であるという、これまた諦念。


Cメロ

ただただ歩いているだけなのにさ
嫌でも目に付く いいこと悪いこと
常識と非常識
食い違う青春
What are we to do?
What do you wanna be? What do you wanna be?

このパートは、「渋谷を歩いていたらいろいろ視界に入ってくる」というストレートな解釈から少し広げてみたい。スマホ社会・SNS社会で、普通に過ごしているだけで身の回りから世界中まであらゆる情報が自分に入ってくる。その中には「いいこと悪いこと」どちらもあるし、自分にとっての「常識」が誰かにとって「非常識」で、その逆もまた然り。

地元が近かったり、中高生の頃から遊んでいたりして、渋谷という街で青春を過ごした人もいれば、そんな青春は過ごせず渋谷へ「憧れて来た」のに「意味不明 どうしてここにいちゃいけないの?」と思わされるような人もいる。

こうした「食い違」い に戸惑い、"What are we to do?"(どうすればいい?) "What do you wanna be?"(どうなりたい?)と問いかける。世代として括られたり誰かの言いなりになるのは嫌だけど、進む道を自分でゼロから考えるわけでもない。


落ちサビ

Unknown Unknown
うちらのランドマーク
離れた街で憧れて来た
終電気にしない 住人みたいに
いつか…きっと
何か見つかると思う

また少し脱線。友達と飲み会や食事をする時、自分含め地方出身の人ほど店選びにこだわる人が多く、東京のいいとこの出身の人ほど割と無頓着な気がする。この違いは「せっかくだから」という気持ちの有無だと思う。どちらが良い/悪いということではないが、自分はたまにそのさっぱりした感じを羨ましく思うことがある。もちろん、選んだお店が当たりだった時はそれはそれで嬉しいし楽しいけれど。

趣味にも似たようなことが言える。現代アートの展示を観に行って、自分は何かと「理解しよう」と試みるけれど、幼い頃からアートに親しんできた友達ほど「全然分からなかった笑」とあけすけだったりする。

閑話休題。歌詞の「終電気にしない」は直接的には時間的余裕を意味しているだろうが、上記のような精神的余裕のことでもあって、「私」が見つけたい「何か」には、この精神的余裕も含まれると思う。


ラスサビ

I wanna go! I wanna go!
呪文のような独り言
世界で唯一 退屈じゃない街
疲れた朝陽 何度見ただろう
そんな…こんな…
自由とは愚かかい?
You know! I know!
何も期待してない
Forever
We are UDAGAWA GENERATION

「呪文のような独り言」が「I wanna go!」のことだとしたら、「渋谷に行きたい(行けばなんとかなる)」という、過度な期待(おまじない≒呪文)のことか?  個人的には「世界で唯一 退屈じゃない街」というのは言い過ぎで、その人の捉え方・楽しみ方次第でもっと多くの街が「退屈じゃな」くなる。だからきっと、「私」はある種呪文にかけられて視野が狭まっている状態なのだと思う。

朝までいた帰りに見る「疲れた朝陽」。「住人」なら帰りたい時に帰れるのに、自分は無理している部分があるから、朝陽を気持ちいいというよりも「疲れた」ものに感じる。

「私」が感じているしんどさは「自由」の副産物であるとも言える。情報や移動が制限されず「自由」だからこそ、渋谷に憧れを持つことができ、実際に訪れることができ、そして「住人」との差を感じてしまう。何も知らずにいれば、いっそ気楽に生きることができたかもしれないがそうはいかず、「(自由だからこそ手に入る情報でもってあれこれ)期待する → (自由だからこそ取れる行動の結果)失望する」というのを繰り返し、「何も期待してない」という、この曲でたびたび出てくる諦念にたどり着いたのだと思う。


最後に:「UDAGAWA GENERATION」が意味するもの

自分はエリアではなく川のほうの「宇田川のような世代」と解釈した。川モチーフに該当しそうなのはは2番Aメロの「流されて行けばどこかに着く」くらいではあるものの、歌詞で表現されている内容と相似をなすポイントがいくつかあるからだ。宇田川は暗渠になっていて見ることができない。再開発が進む渋谷において、多くの人々から忘れられた川。でも実は、街の下で流れ続けている川。

別に今更目立とうとは思っていないし、将来に期待もしていないけど、自我はあって、生きたくないと思うほど絶望もしていない。そんな考え方・価値観を象徴するものとして、宇田川を持ってきたのだと思う。


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