『現代短歌の鑑賞101』を読む 第十回 近藤芳美
近藤芳美は、国語の資料集かなにかで目にしたこの短歌の印象が強い。そして、私のイメージはこの美しい一首に影響されすぎているように思う。「芳美」といういかにも美しい名前の印象にもとらわれている。
むかし近藤芳美集のような本を持っていたのだが、しっかり読めてはいなかったのだろう。
『現代短歌の鑑賞101』を読むと、美しいイメージよりも、社会を好んで詠んだ作者である。
さまざまな言葉が自分を責めてくる。身をかわしたつもりで生きていく。次々に身をかわしているが、気づけば痣のようなものが残っているであろう。
上のような読み方でいいように思うのだが、最初私は「言葉」は作者自身が発したもののように思っていた。自ら発した言葉もまた、自らの痣となるという読み方には、私自身の思い込みが入っているかもしれないが。
妥協し、決断できず、あいまいな言葉を発する。いまその言葉は穏便なものとして響くが未来の観点からはすでに裁かれるものであり、そのことは決まっている。
そのときどきのあやふやな自分に厳しい一首だ。歴史の向く方向がひとつ決まっていて、未来が正しい裁判官のようにあらわれるというものの見方は、前向きであるが事実ではないだろう。
そのような史観の崩壊した時代の私としては、この「未来」は本当にはるか遠い未来として感じられる。死後の裁きのような、宗教的な美と危うさをこの一首に感じた。
時代の変遷で色褪せるのではなく、むしろ復活するような一首である。雨暑き夜の集まりには、はばかりなく何事も話せるような間柄が想像される。外へ声も通って行かない。政治運動の会合かもしれない。
そのような場においても「天皇制」を話題にするのは避ける。論じてはならないことなのであろうか。
参考:
『現代短歌の鑑賞101』小高賢・編著
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