枷をはずして好きを思い出す作業
感情の起伏があまりない。
疲れてしまうのだ。
ここ数年、起伏は少しずつ戻ってきているがだいぶん長い間感情の起伏ないような生活を求めてきていた。生きていればいろいろあるが生活がいろいろありすぎて(かなり長い間)目の前の問題を解決していくこと優先で自分をないがしろにしてきたのかもしれない。
その時はそれでよかったはずなので後悔はあまりしていない。
「好きなものは何?」
という質問を前にすると自分がものすごくからっぽな気分になるぐらい自分以外の目の前のことにいっぱいいっぱいだったのだ。そしてなにか崇高な事を掲げて生きている「べき」というこころがムクムクと勢いよく育ち、私ではない誰かの好きなものはなんだっけ、と急いだ心で探そうとする。探してもまぁどうにもならないし、誰のためにも何のコトも起きず誰も困らず私一人が自己嫌悪するだけなのだ。
あぁ、本当のわたしってどこ?
いないわ。そんなん。
と今なら言えるがなかなか夢見がちな時期はそれなりに長く、探し当てられない苛立ちを自分以外のせいだと他者への不満を募らせることも多かった。(八つ当たりという)
人への嫉妬が強かったのもこの時期だと思う。嫉妬はいいことだとは思うのだが自分自身への掘り下げがないため、何に嫉妬しているのかよくわからずもやもやするだけのなんだが不機嫌な私で終わってしまい後味が悪い。
すきは当たり前に存在している気がするので改めて誰かに伝えるときにどうも見つけにくいような気がしている。
何かについていいかも、気分が良いかも、と思ったときに口に出したり伝えたりするのは大切なのかもしれない。そうやって自分の好きなものを定着させていくのだ。私はそれをやると良い気がする。
どこか「言わなくてもいいか‥」となりがちなので自分への備忘録として言葉にするというのはいいのかもしれない。
お菓子とゲームが好きで猫が好き。
シーズンイベントのお菓子のパッケージを描いて自分で買って食べたい。
もっと言葉にして樂しんでいこう。