「いじめゼロ」より「いじめ見逃しゼロ」
北海道旭川市で中学生が凍死し、その原因が学校内のいじめによるものだと、遺族が手記を公表したとのニュースがあった。
手記では、いじめそのものに加え、学校がいじめを認めなかったとも指摘している。この件に関する事実の認定は定まっていないが、学校の対応に「隠ぺい、事なかれ主義」との批判もでている。
学校の対応に「隠ぺい、事なかれ主義」があったとすれば、それは何故だろうか。そこには、「いじめはあってはいけない」との認識があるためではないだろうか。あってはならないはずの「いじめ」が起きたとなれば、学校長、管理者、担任などの管理能力が問われる恐れもある。何せスローガンは「いじめゼロ」である。あってはならないものがあるとすれば、見過ごし、見えないふりをしたくなる気持ちも起きるだろう。
そもそも、人は「いじめ」をする動物である。理性ではいじめは良くないと認識しているとしても、古来より動物間の生存競争を生き抜いてきた過程で身についた本能には、集団を維持するために異質な者を排除する能力がある。その一形態が「いじめ」だ。
社会的に成熟した大人であっても、いじめはなくせない。ましてや未成熟なこどもの間では、いじめが起きる可能性はさらに高い。
文明が発達した現在では見逃されがちだが、人間・人類は地球上に存在する生物の頂点に位置し、それを維持できるだけの獰猛さを持ち合わせた生き物だ。そこを忘れて「いじめゼロ」などという理想を押し付けても、実現は不可能だ。
ではどうするか?
「いじめゼロ」などという、実現不可能なきれいごとのスローガンを即刻廃止して、「いじめ見逃しゼロ」に変えることだ。いじめをなくせないなら、見逃さないことに重点を移せばいい。疑いの目で監視することへの抵抗もあるかもしれないが、防ぎようがない以上、それによる被害拡大防止に重点を移すことが望ましい。
いじめを見つけても、阻止などの対応が困難であれば、躊躇せずに警察などの公権力に対応を委ねてしまえばいい。いくら教育しても、わからない者はいる。理想を現実とはき違えないことも必要だ。
我が子は、同級生に理由もなく鉛筆で腹を刺された。躊躇せず、学校に相談し、運よく丁寧に対応してもらえたが、相手の親からは謝罪一つなかった。いじめる側はそんなものだ。