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上下のある関係性についてはともかく、対等な関係のなかであるにも関わらず、ちゃんと喧嘩できないっていうのは形容しがたい辛さがあるなと捉えなおす。同じ人間なのに、母語が同じなのに、言葉が通じなかったら、そもそも同じ土俵にも上がれなくて辛い気がする。相手または自分だけが同じ土俵に立っている気になっていたなら、尚更。
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はやく死ねばよかった、って死んでからも思うんやろうか。死にたいけど死んだところで未練タラタラできっと成仏は出来ないと思うし、どっちかっていうと地獄寄りの方やと思うから成仏って考え方で良いのかもちょっと定かでないな。
人を責めるより自分のせいにしといた方が何も考えなくて済むので楽なんだよな、だけどそれはちゃんと怒れないのと同じだから、私はいつまでも他人に私を消費されることを許してしまうんやろうか。うまく言えない。
鬱も適応も統失も別に何にもめずらしくないのに。もう嫌ですもう嫌、でももう言えなくなりました、反抗期はちゃんとするべき、私は自分の話を信じてほしいこどものまま。普通になりたい。こんなに普通なのに。ずっと皆と少しズレて生きるしか出来なくて、苦しい。そのズレをうまく昇華出来れば天才で、出来なかったら変な人。苦しい。
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(恋愛的に)「好き」より先に(人として)「大事」になったなら、もう多分それは恋愛に発展させすぎない方が幸せな気がする。真っ直ぐに失恋に向かうより、なんだか大きいものを失う気がする。
恋は盲目というか、好きな人の好きな部分しか見えない状態だから、すごく暴力的だと思うけど、盲目的であるだけでは「大事」には至らない気がする。
好き、と、大事、のバランスが自分と相手との間でうまく取れない時がなんだか一番手が届かない辛さがある気がするな。
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もう少し元気になったら、遊びに誘ってくれた友達に会いに行こう。
あと少しだけ余裕が出来たら、ずっと引っ掛かってること、ちゃんと謝ろう。
いつになるかね~。人生、局所局所で努力は必要やけど、上手に手を抜いて走り続けられる人が結局いちばん「人生」をするのが上手いと思う。
私はこれまで給水所をほぼフル無視して手足同時に出しながら全力疾走みたいなことをしてきた気がする。今更変えられないかもしれないけど、どうせ死ねないなら楽に生きたって良いのでは。
自分の人生は自分が認めたり許したり出来るぐらいで良い、知らんけど。
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痛みや辛さがあっても「こんなことなら出会わなかったら良かった」に転じることだけは今のところあんまりないな。もう二度と会えなくても、その人がくれたもの痛みも含めて全部自分のものだと思っている。
だから簡単には他人に分けたりしないで、自分だけで噛み締めて大事にする痛みがあっても良いと思う。(抱え込むのとは違う。)
全体的に浮き沈みの激しい記事だな、申し訳ない、タピオカ屋さんが絶滅する前かつ胃が受け入れられるうちにもう一回ぐらい飲みたい。
これを読んでくれる人にいつかすれ違うように関われたらちょっと幸せかもしれない。ではまた。