人間

吐き出したいだけで同調されたいわけでも慰めの言葉が欲しいわけでも無い時はある。放っておいて欲しいと思うのは愛されている側の怠慢というか傲慢なのだろうか。


久しぶり映画をみた。映画館に足を運ぶのは嫌いじゃないし、むしろ好きな部類だ。メンタルが安定しなくて、ありとあらゆる芸術や日常のささいな音なんかも受け付けないでいたから、本当に久しぶりだった。
久しぶりに観た映画は最初から最後までのんびりとした日常の断片を、それはそれはぼんやりと映し出していて、私にはさっぱり訳が分からなかった。
訳の分からないものにお金を払うって豊かなことだと思う。多くの洗練された芸術は、されればされるほど訳が分からなくなっていく。極限まで個人的である、ということの裏返しかもしれない。

難しい横文字はつかえないし分からないから日本語で話して欲しい。と思うがこれは不勉強なことの言い訳に過ぎないのだよな。粛々と覚えて対応する。今は対応できるようになるのが目標で、使えるようになるのはその後の目標だと思っている。

これじゃあいかんと自分で自分に思っているときに甘言は不要なんだよな。
与えられた機会に、せめて最大限出来ることをやって、そのうえでダメだと言われたら諦めることにする。
生きることさえも、諦めることにする。


死ぬのが怖いから生きている人間だっていっぱいいる。著名な監督ですら「死のうと思った、でも怖くてできなかった」と言っていた。私は未熟で愚かなので、その監督が閑話休題と言わんばかりに時間を貰えているのが、それを貰えるほど素晴らしい功績を残せていることが羨ましくなった。


又吉直樹の「人間」を読んだ。彼の作品を読むのは「火花」以来で、火花は徐々に加速していく、線香花火みたいな作品だと思ったけれど、「人間」は私には難しくて一度読んだだけでは理解できなかった。
けれど随所にしんみりと刺さる言葉がちりばめられていて、時折メモしながら読んだ。(私にとって読書はほとんど好きな言葉集めになっていて、内容がどうであれそこに言葉があれば良くなっている。極論辞書が一番良い。)
「何も持たないということは、すべてを持っているということ」みたいな言葉があって、そうかなぁ、と思った。
私は自分のことを何も持たない人間だと思っているし、それを恥じている。恥じておりながらなにもしていない、恥に甘んじた愚かさがある。この時点で「何かを持っている」ことになってしまうので、多分何もない人間というのは分解して考えていくと存在し得ないのだろうと思う。
何もないって思っていれば、何か(自分を責め立てる気がする周囲のあらゆるもの)から逃げられる気がしてしまうのだ。
何もない人間はいないけれど、それが果たしてすべてを持っていることになるのだろうか?という疑問が残った。また機会があれば読み返したいけれど、結構ボリューミーな本だった。


やっているフリをしたり、嘘をついてばかりで、自分が嫌いになるだけだ。でもそれってやっぱり何も生まないから、自分を好きになるとまではいかなくても、せめて意味のあることをしたい。6割でしか頑張れなくなってしまった自分をいい加減受け入れて、やれることをやっていかなくてはならないと思った。


花粉のつらい時期になってきましたね。あたたかいけれど体調には気を付けて。ではまた。

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