科学はこれからも進歩し続けていくのか?学術研究が苦しくなっている理由を解説(文字起こし)
この記事は、「ベーシックインカムちゃんねる」の「科学はこれからも進歩し続けていくのか?学術研究が苦しくなっている理由を解説」の文字起こしになります。
記事の最後に「要約(まとめ)」を載せています。
導入
今回は、「科学・学術研究」がテーマです。
一般的に、「科学」は今も進歩し続けていて、これからも新しい発見がどんどん行われ、成果が蓄積し続けていくように思われているかもしれません。
しかしここでは、「科学・学術研究」や、それを行う場とされている「大学」は、これからどんどん苦しくなっていくし、科学の信頼性・継続性が危機に晒されていると考えています。
「科学」においては、「単なる主観や思いつきではなく客観的な事実であること」が重視され、その「ルール」を守りながら各研究者が「新しい事実」の発見を積み重ねていくことで、まだわかっていないことが明らかになっていき、科学全体が進歩していく……という考え方がされているかもしれません。
しかしここでは、そうはならないのではないかと考えます。
なぜそう考えるかの結論を先に言うと、「その研究成果が本当に客観的な事実かの検証(ファクトチェック)」や、「データを収集し後世に残そうとする試み(アーカイブ)」は、科学を維持する上でのインフラとも言えるような重要な仕事ですが、それらの難易度が上がっていくのに対して、使われるリソースが少なくなっていくからです。
過去から現在にかけて、「論文の数」などの研究成果の量自体は膨れ上がり続けています。
研究成果の量が増加するほど、それらの「ファクトチェック」や「アーカイブ」に必要なリソースも増え続けていくのですが、対して、その仕事を各研究者がちゃんとやるインセンティブが実はありません。
この問題はまだそこまで表面化していないかもしれませんが、これから少子化が進み使えるリソースが少なくなっていくなか、当チャンネルのこれまでの動画で「社会」が維持できなくなっていくだろうと主張しているのと同様に、「科学」もその維持が難しくなっていくだろうと見ています。
今回は「科学・学術はこれからも進歩し続けていくのか?」というテーマについて論じていきたいと思います。
前の動画の内容を前提として話を進める
この動画の話をするにあたって、「なぜ「正しさ」が重視される社会になったのか?」という前回出した動画を「前の動画」として、その内容はすでに説明したものとさせてほしいと思います。
「前の動画」では、
「豊かさ」と「正しさ」が相反すること
「集団」を重視するのが「豊かさ」で、「個人」を重視するのが「正しさ」であること
「ローカル」が「豊かさ」で、「グローバル」が「正しさ」であること
などの内容を述べましたが、これらについてはすでに説明したものとして今回の話を進めます。
前の動画がかなり長いので、今回の「科学」や「学術」といったテーマだけに興味のある方には申し訳ないのですが、一応スライド付きの文字起こしや要約もnoteで公開しています。
動画概要欄に関連動画や文字起こしへのリンクを貼っておきます。
※「前の動画(なぜ「正しさ」が重視される社会になったのか?)」と「文字起こしnote記事」へのリンク↓
「科学」における「正しいから豊かになるという倒錯」
前の動画では、「豊かさ(モラル)」と「正しさ(ルール)」の相反、「モラルを持って集団全体に貢献しようとすること」と、「ルールにおいて個人が有利になろうとすること」は相反するという内容の話をしました。
一般的に行われている「仕事」も、「人のためなる仕事をするべき」という「モラル」と、「貨幣を稼ぐほど分配の優先権を得られる」という「ルール」とのバランスによって成り立っていて、しかし、「ルール(正しさ)」が重視され各個人が貨幣を稼ごうと努力するほど社会全体が豊かになっていくと考えるような「正しいから豊かになるという倒錯」が影響力を持っているという話を、前の動画で説明しました。
これについて今回の動画では、「仕事」のみならず「科学」においても同様の構造があると考えます。
「学術研究のルール」に則り、各研究者が個人の研究成果を出そうと論文をたくさん書くことで「科学」が発展していくと思われやすいですが、これもまた「正しいから豊かになると考えるような倒錯」であると見なします。
前の動画では、社会の根幹を支える「出産や育児」「インフラ整備」「エッセンシャルワーク」などの仕事が、「市場のルール」には評価されないことを説明してきました。
同じように、「科学」における「ルール」には評価されないがエッセンシャルな仕事として、例えば、「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」などが挙げられると考えます。
「教育」や、「事実性や再現性の検証(ファクトチェック)」や、「データの収集や保管(アーカイブ)」は、「科学」の根幹を支える仕事ですが、しかしながらそれらは、学術的なポストやキャリアにおいて重視される「ルール」には評価されません。
「学術研究のルール」において「成果」として認められるのは「新しい発見(新規性)」であり、例えば博士号などの学位は基本的に、「教育」や「検証」や「アーカイブ」をした人ではなく、「新しい発見」をした人に与えられます。
「教育・検証・アーカイブ」は、「科学」の根幹を支える重要な仕事でありながら、それをやっても「学術研究のルール」には高く評価されないので、ポストを得ようとする研究者の多くはそこにリソースを使いにくくなります。
各々の研究者がそれらの重要性を認めていないわけではなくとも、「ルール」と「競争」の影響力が強まり、個人の成果が求められるようになっていくほど、むしろ長期的な科学や学問全体のために必要な仕事が行われなくなってしまうという、「個人のため(正しさ)」と「集団のため(豊かさ)」が相反しているという問題と、「正しいから豊かになるという倒錯」の問題があるとここでは考えます。
再現性の危機
まず、現状の「科学」が直面している「再現性の危機」について説明しようと思います。
「再現性の危機」は、けっこう前から言われている問題なのですが、ここでは『Science Fictions』という最近翻訳が出た書籍を参考にする形で説明していきます。
『Science Fictions』という本は、「再現性の危機」をテーマにしていて、多くの学術的な研究成果において、実はファクトチェックがかなり杜撰であるという問題が事例を挙げながら論じられています。
科学・学術における「研究成果」は、それが「事実」としてしっかり検証されたものが大部分であると一般的に思われているのに対して、実はそうではなく、例えば『ファスト&スロー』のような有名な心理学の本で主張の核として使われているような実験結果が、より多くのサンプルと新しいテクノロジーで再現実験をすると同じ結果を得られなかったり、「スタンフォード監獄実験」のような誰もが知っているような実験も、改めて検証してみるとお粗末な研究で科学的な事実とは言い難いものだった、みたいなことが書かれています。
心理学や経済学のみならず、生物学や化学や医学といった分野においても、「科学的な成果は信頼性の高いもの」という通念に反して、再現性を確認できない成果が非常に多く混ざっていて、査読を経て『ネイチャー』や『サイエンス』などの権威のある科学雑誌に掲載されたものでさえ、多くの不正や再現性の無さが後から指摘されています。
「客観的な事実」であることが重視される「科学」において、研究成果は、書かれた手順通りに再現実験を行えばまったく同じ結果になるという「再現性」が、守られなければならない「ルール」になるのですが、学位や成果を認められた論文であっても、条件設定や測定方法などがちゃんと書かれていない(再現実験をするために必要な情報が十分に提示されていない)場合が多くあります。
「医学」のような生命や健康に関わる分野でさえ、実は再現性に乏しい研究成果が多く、しかしそういったものが、科学的な裏付けのある信用できるエビデンスとして扱われるようなことが起こっていると、『Science Fictions』という本では指摘されています。
素朴な感覚として、「科学的事実」を扱っているなら、長期的には不正なんていずれ検証されてバレるはずなのに、なぜそんなことをするのだろう、と思うかもしれません。
ただ、詳しくは本に書かれているので読んでほしいのですが、研究において、不正なのか、あるいはミスや怠慢なのかは、境界が曖昧なところがあります。
例えば、何度もサイコロを振ってたまたま出たような結果を統計的有意なものとして成果にしてしまう、みたいなことが起こったとき、これは悪意を持った不正なのか、研究者当人に能力が足りなかったのか、というのは微妙なところなのですが、いずれにしても、わかりやすい成果を出さなければポストが得られないような競争のプレッシャーに晒されていれば、そういうことが起こりやすくなります。
また、発表された論文がちゃんとルールを守っているかの査読や検証(ファクトチェック)は、それをしっかり行っても「新しい発見(新規性のある自分自身の研究成果)」にはならないので、研究者にとってはあまり時間や労力を注ぎたくない仕事です。
そして、検証が評価されにくく新規性を評価されやすい現状の「学術研究のルール」において、研究の条件や過程を論文にちゃんと記述せず再現実験を難しくしたほうがむしろ、自身の不正やミスや怠慢が指摘されにくくなる構造があり、このようにして学術研究の多くは、「優秀な研究者たちなのだからちゃんとやっているんだろうな」と一般的に思われているよりもずっと、「再現性」が低く信用できないものになっています。
「科学・学術研究」のベースには、「研究者はちゃんとルールを守り、事実性・再現性のある結果を提示する」といった「モラル」があるわけですが、それが成立しなくなってきているというのが「再現性の危機」という問題です。
前の動画で提示したこのチャンネルの枠組みで説明するなら、「競争(ルール)」の影響力が強まるほど、「モラル」が弱まっていき、やがて「ルールを守るという最低限のモラル」さえ成り立たなくなってしまいます。
当チャンネルの過去動画ではこのような「正しさの過剰で正しさが成立しなくなっていく」構造を、例えば、市場競争が人口を減らしていけば、やがて市場のプレイヤー自体が存在しなくなり市場競争も行えなくなる、などの例を出して説明しました。
「科学」においても、個人の研究成果を競い合う「競争」が強まることで、「研究成果は客観的な事実でなければならない」という「ルール」を守ろうとする「モラル」が弱くなっていき、「科学」全体の信頼性が破綻していく構造があると考えます。
なお、「競争」に勝つための最適化が進んでいくと不毛になりやすい例として、これは『Science Fictions』の本で「サラミ・スライス」という名前の戦略として紹介されていたのですが、一本の論文にまとめられるような内容をわざと複数の論文にして発表する、みたいなことが行われるようになります。
論文の被引用数によって研究者の評価が決まるならば、たとえ一本にまとめたほうが便利でわかりやすい内容であっても、細かくスライスして複数の論文にしたほうが引用された数を稼ぎやすく、無駄に細かくスライスして成果を発表する、みたいな不毛なことが行われやすくなるということです。
当チャンネルの過去動画では繰り返し、「競争」という「正しさ」は、我々の「自然な本能」が好ましく思いやすい一方で、実は「豊かさ」に反するものになりやすいことを指摘してきましたが、「科学・学術」にも同様の問題があり、「個人の研究成果を重視する競争を行い、各々の研究者が頑張って論文をたくさん出そうとすることで科学が発展していく」というのは倒錯したものと考えます。
現場では「ローカル」が機能している
現在の科学・学術研究の場において「ローカル(豊かさ)」の働きがないと言いたいわけではありません。
今も「大学」では、「教育」や「査読」や「資料の管理」など、「個人の研究成果」に直結するわけではない仕事が行われているし、それは、「ローカル」な制度や義務感やモラルが機能しているゆえに成り立っているものでもあります。
ちなみに、「ローカル」がしっかり機能しているような研究室であるほどむしろ、専門的な課程の履修や、基礎的な再現実験や、教授に与えられたテーマの下働き的な仕事が評価され、現場の采配や温情のような形で学位が与えられる、みたいなことが行われやすくなっていると思います。
なぜなら、そもそもの話、「重要な研究成果を出す」なんて一生かけてもできるかわからないようなことなのに、20代か30代くらいで何らかの「成果」を認められなければキャリアに入れない、といった仕組みに無理があるからです。
そんなことは現場にいる人たちはわかっているわけで、長期的に協力し合ってまともな研究を行えるような「ローカル」が機能した場所であるほど、若いうちの「結果」はあまり重視されず、ポテンシャルや人柄などを見て研究者の仲間に引き入れられることになります。
日本も昔は、博士号などを持っていなくても大学のポストを手に入れやすかったと言われていますが、ただ、「競争(正しさ)」が強まっていくほどそのような「ローカル」が難しくなり、わかりやすい結果(短期的な成果)が求められるようになっていきます。
「科学」は「ローカル」に多くを頼る一方で、「ローカル」を解体していきやすい
「正しさ」が強まることによる「ローカル(豊かさ)」の解体については、前の動画で何度も説明しましたが、「科学」の場合は、「市場」などと比べてもより急速に「ローカル」が解体されていきやすいと考えます。
なぜなら、「科学」はその性質上、「専門性」の「細分化・複雑化」が進みやすいからです。
前の動画で出した図式ですが、「最大(グローバル)」と「最小(個人)」が「正しさ」で、「中間(ローカル)」が「豊かさ」になります。
「中程度」である場合に「ローカル」が機能しやすく、細分化が進んで「個人」に向かうことで「ローカル」が成立しなくなっていきます。
科学は、その性質上「専門性」の細分化がより進んでいきやすいので、「ローカル」が急速に解体されていくと考えます。
「専門性」に関して、士業などの「職業的専門性」については、また別で論じる動画を出すつもりなのですが、ここでは「科学」における「学術的専門性」について述べます。
なぜ今回の話をする上で、「職業的専門性」と「学術的専門性」を分けるのかというと、「職業」の場合は、大勢が必要とする専門知を日常的に提供し続ける形で、まだ一定の同質性が担保されやすいのに対して、「学術」のほうは学者ごとに専門分野の細分化が進んでいきやすいからです。
「専門性」は、細分化が進みすぎると「ローカル(豊かさ)」として機能しにくくなり、「職業的専門性」にもこの問題がないわけではないのですが、「学術的専門性(科学)」においてはより顕著に細分化が進みます。
まず、何らかの「専門性」が存在しない場合、もちろん問題があります。
人が時間や労力を注ぐことのできる対象は限られているので、「専門性」を意識しながら協力し合うこと(社会的分業を強めること)で、社会がより豊かになっていきます。
しかし、「専門性」が細かくなればなるほど分業が進んで社会が豊かになると考えるのは「正しいから豊かになるという倒錯」です。
「専門性」は「中程度(ローカル)」である場合に「豊かさ」として機能するのであって、細分化しすぎるとむしろ「社会的分業」が破綻してしまいます。
各々が、「誰かが必要とする仕事を効率的に行うため」ではなく、「自分の優位性を示すため」に「専門性」を活用しようとするようになるからです。
前の動画では、例えば「市場」においても、一定規模の大企業同士(ローカル同士)で競い合うならば「豊かさ」が重視されるものの、個々人が自己PRや転職やキャリアアップのために努力するような「競争」は不毛になりやすい(つまり「集団」が細分化して「個人」になると「豊かさ」から遠ざかる)ことを述べてきました。
同じように「科学・学術」においても、専門性の細分化が進みすぎて「個人」になり、ポストや研究費を得るために、「自分の専門性」の重要さを競い合うような競争にリソースが割かれるようになると、「豊かさ」からは遠ざかりやすいと考えます。
ビジネスやメリトクラシーが重視される昨今は、「自分だけの専門性を身に着けよう」みたいなことが言われやすいです。
しかし、専門性において、「集団のため」と「個人のため」は利害が対立している部分があると考えます。
社会に必要な何らかの専門知や専門技能を、他人が扱えず自分だけが扱えるならば、尊重される有利なポジションを得られるのでその「個人」からすると都合が良いのですが、「社会」の視点においては、重要なものを属人性に依存している状態は脆弱であり望ましくないので、専門性は一定数に共有されていてある程度は替えが効く必要があります。
「個人」からすれば、専門性は自分だけが有していたいし、「社会」の視点からすれば、専門性は一定数に共有されていてほしいことになり、実際の社会においては、重要な専門技能は「個人」に依存せず一定数が共有する仕組みになっていると思います。
その点において、「職業的専門性」は、それが「個人」のものにはなりにくいのですが、「学術的専門性」は、研究者が各々の専門を深めることで「自分だけの専門性」に向かいやすいです。
「専門性」が細分化されすぎることの問題は、「ローカル」な場合に機能していた「モラル」や「価値判断」が成立しなくなり、その信頼性が低下していくことです。
例えば、学位やジャール掲載に値するかどうかなど、何らかの論文の善し悪しが評価されるとき、誰がそれを評価するのかというと、「ローカルな専門家集団」の価値判断に頼ることになります。
そして、「ローカルな専門家集団」による研究の評価は、「専門性」における「ローカル」が解体されるほどうまくできなくなっていきます。
専門性の細分化が進んで、同じ学部でも隣の研究室で何をやっているのかよくわからない……みたいな状況になっていくほど、何らかの論文が重要な問題を扱っているかどうか、ちゃんとルールを守っているかどうか、といったことを判定する力も弱まっていき、先に述べた「再現性の危機」という問題も、「専門性」における「ローカル」の解体によって起こりやすくなると考えます。
「ローカル」の解体は、「科学」において特に起こりやすいです。
前の動画では、「社会」の様々なところで「ローカル」が機能しにくくなっていることを説明しましたが、それでも「市場競争」などは、「科学」と比べればまだ一定の同質性が維持されます。
「ビジネス」の場合、それがちゃんとした仕事なのかどうかは、消費者など一般の人たちでもそれなりに判断・評価をしやすいからです。
一方で「科学」は、専門家でなければその善し悪しを評価しにくいです。
つまり「科学」において、「一部の人たち」しか価値判断をできない上に、細分化が進むことでその「一部の人たち」がだんだん少なくなっていくので、「ローカル」が機能不全に陥っていきます。
また「ビジネス」は、大規模に稼ごうとするほどステークホルダーが多くなっていき、「ルール」が守られているかどうかのチェックも厳しくなりやすいです。
対して「科学」は、高度化・細分化するほど理解できる人が少なくなっていき、「ルール」が守られているかのチェックが甘くなっていきます。
「ビジネス」の場合、その「ルール」自体は大勢にとってわかりやすく共有されやすいです。
前の動画で説明したように、「ビジネス」も、「国家」などの「ローカル」に頼り治安維持やルールの整備が行われなければ成立しないものなのですが、「貨幣をたくさん稼いだ者が勝者であり、より多くの分配の優先権を勝ち取ることができる」という「ルール」自体は明快で、それは実際に大多数の人たちに共有されています。
対して「科学」は、「何を示せば優れた研究成果なのか・どういう方法で研究が行われていれば再現性があると言えるのか」という「ルール」の部分さえ、「ローカルな専門家集団」の判断に多くを頼っています。
ゆえに、実は「科学」は「ローカル」に頼る部分が非常に大きいのですが、でありながら、細分化によって「ローカル」を勢いよく切り崩してしまう性質を持っています。
「客観的な事実」は「複雑化(ブレーキ)」
「ローカル」を急速に切り崩してしまう「科学」の特徴とは、「事実」を重視することです。
「事実」はその性質上、「単純化・簡易化」が否定される「複雑」なものであり、それを重視するゆえに「科学」においては、「細分化・複雑化」が進みやすくなります。
近代科学は、特定の場所でしか通用しない「ローカル」を否定して、グローバルに共有可能な「客観的な事実」を明らかにしようとします。
なお、万人が共有できる客観性(最大)を追求することで、多様性のある個人(最小)に向かっていく(最大と最小が接続される)図式については、前の動画で話したことなのでここでは説明しません。
前の動画の内容を踏まえて言うなら、「客観的な事実(最大)」の追求が、「特定の単純化を介さない事実の複雑さ(最小)」と接続され、その「最大と最小の両極端の正しさ」が、「ローカルな豊かさ」を解体していくということです。
「科学・学術研究」においては、「自分はこう思うから・常識的にこう考えられているから」などといった特定の「価値判断」を排して、「主観」ではなく「客観的な事実」を示そうとするのが「ルール」です。
対して、一切の「価値判断」が含まれない研究というのもありえません。「何らかの研究をしようと思うこと(研究対象の選定)」の時点で、必ず「価値判断」が介在することになります。
もちろん、先に述べたように、研究の善し悪しを評価しようとする上でも「価値判断」は不可欠です。
「事実」や「客観性」それ自体からは、「◯◯をするべき」「◯◯に価値がある」といった「価値判断」を演繹することはできず、このチャンネルの枠組みにおいては、「価値判断」が「豊かさ」側であり、「事実」が「正しさ」側であると考えます。
前の動画では、「豊かさ」が「アクセル」、「正しさ」が「ブレーキ」、といった比喩を使った説明をしてきました。
科学においても、何らかを特別に重要視しようとする「価値判断」が「アクセル」になり、「客観的な事実」は「ブレーキ」になると考えます。
前の動画で、「豊かさ(アクセル)」の作用として挙げたのが、「簡易化」です。
「取捨選択・選択と集中」などの「価値判断を働かせた簡易化」をすることは、特定の基準で重要なものとそうでないものを選り分けることであり、「正しさ」に反するのですが、これをしなければ現実的に何らかの試みを行うことができません。
対して、「ブレーキ(正しさ)」を重視すると、「複雑化」が起こるとしました。
「取捨選択・選択と集中」といった「アクセル」は、「正しくない」ものなのですが、ただ、それを否定すると「複雑化」が進んでいくことになります。
「科学」は「客観的な事実」を重視する試みですが、「事実性・客観性」に対して真摯になるほど、「簡易化(アクセル)」の作用が否定され、「わかりやすいことは何も言えない」といったような形で、「複雑化(ブレーキ)」が強くなっていきます。
「わかりやすさ(簡易化)」と「正確さ(複雑化)」のトレードオフ
かつて、「完全に客観的な認識(究極的な根拠)」というものが、多くの学者たち、哲学者たちの関心事でした。
何らかの主張があったとして、「その根拠(エビデンス)は何か?」という問いがあり、それに対して示されたエビデンスにも、「そのエビデンスは何か?」をさらに問うことができます。
そうやってエビデンスのエビデンスのエビデンスを遡っていった先の究極的な根拠(セルフエビデントなもの・自明なもの)は何か、といったことに関心が持たれていたのは、「客観的な事実」を重視する科学的な態度からすれば当然のことではあります。
このような「客観的な事実」を重視することによる「究極的な根拠は何か?」という問いに対して、その限界を指摘したカントの仕事は、有名なので知っている人は多いと思います。
カントは、「物自体」を認識することができない(認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う)ということを主張しました。
人間は、事実そのもの(物自体)を直接認識しているわけではなく、あくまで我々が認識できる形式に従って情報を受容しているにすぎないので、「完全に客観的な事実」を認識することは不可能……みたいな話です。
『純粋理性批判』という本では、我々が何かを考えるために使う「理性」の検討が行われていて、例えば「究極的な根拠は何か?」みたいな問い方をしてしまうこと自体が我々の「理性」に特有のあり方で、そのような「理性」の限界・欠陥が、矛盾する命題の両方が証明されてしまうアンチノミーなどのやり方で指摘されています。
このようなカントの方法が妥当なものかも議論があるのですが、「認識の客観性」というテーマにひとつの回答を出したという点において業績が評価されていると思います。
カントを引用して何が言いたかったのかというと、我々が何らかを認識・理解できている時点でそれは、我々に都合の良い形の「簡易化」を働かせた結果であり、十分に「客観的な事実」ではないということです。
このような見方において、「わかりやすさ」と「正確さ」には原理的なトレードオフがあることになります。
我々が何かを「わかる」時点で、それは少なくとも「十分に正確」ではないからです。
「正確な事実(物自体)」というものを、我々はそのまま認識することができず、「事実」を我々にとって都合よく歪めた形(わかりやすくした形)にすることで、認識や理解が可能になっています。
カントを持ち出すまでもなくもう少し素朴に考えても、我々が何らかを認識・理解することのできる力は有限であり、世界の複雑さ・事実そのものの複雑さをそのまま把握することはできません。
例えば、我々は「言語」を使って思考していますが、「言語」というのも、物事をいびつな形で「簡易化」しようとするある種の差別的なパッケージです。
しかし、「言語」のような「簡易化」を介することによって、我々は何かを考えたり論じたりすることや、集団に共有することが可能になっています。
「言語」などの「簡易化」が一切働いていない「究極的に客観的な事実」を想定してみると、それは我々が認識することのできない、何の指向性も持たない際限のない「複雑さ」であり、「客観性」や「正確さ」を重視することでその「複雑さ」に向かう作用を、当チャンネルでは「ブレーキ」と考えます。
我々が「簡易化」によって物事を認識・理解しているなら、「簡易化」が一切働いていない「客観的な事実」は、それが強く重視されるほど、何らかの試みを静止させる「ブレーキ」のように働くからです。
例えば、「アキレスと亀」というパラドックスがあります。
「距離や時間は無限に細かく分割することができるので、アキレスは亀に追いつけない」みたいな話で、『jojo』や『呪術廻戦』などの漫画にも出てくるので知っている人は多いと思います。
もし仮に、何らかの「事実」を、「簡易化」の作用(情報の取捨選択)を介さずに認識しようとしたなら、無限に分割できる距離や時間の前にアキレスが亀の前で静止したように、有限の思考がオーバーフローして「ブレーキ」がかかってしまうことになります。
際限なく複雑な「事実」に対して、「簡易化」を介することで我々の認識や理解が成立しているので、「自分たちに都合の良い形で何らかを雑にわかりやすくする作用(簡易化)」を極限まで否定すると、我々は何も理解することができなくなるし、現実的な場面における程度問題で言っても、「わかりやすさ」を否定するほどコストが嵩んでいきます。
つまり、「厳密さ・確かさ・客観性」を追求することで、「雑にわかりやすくすること」「自分たちに都合の良いものを評価すること」が否定されるのですが、ここでは、「簡易化」や「価値判断」が、何らかを試みるために必要な「アクセル」であり、その否定によって起こる「複雑化」が「ブレーキ」であると見なします。
先に述べたように、事実性や客観性からは演繹できない「価値判断」は、「研究対象の選定」や「研究の善し悪しの評価」などにおいて不可欠なものであり、このような「アクセル」の作用がなければ我々は「科学」を行うこともできないのですが、「客観的な事実」を重視する「科学」自体の性質が「価値判断」に対して「ブレーキ」をかけ、このような事情を当チャンネルでは「豊かさと正しさが相反する」と説明しています。
「集団の価値判断(アクセル)」と「個人の価値判断(ブレーキ)」
ここでは、「客観性」が「ブレーキ」であり、「価値判断」が「アクセル」であると置いています。
なお、これは前の動画で説明したことですが、「価値判断」と言っても、「個人の価値判断」であれば「正しさ」の側になり、「集団の価値判断」が「豊かさ」の側になります。
図式的に説明するなら、「正しさ(複雑化)」の極限にあるのは、人間には認識することのできない「際限なく複雑な事実」です。
そこまで極端でなくとも、「個人の価値判断」であれば「正しさ」の側になります。
対して、「豊かさ(簡易化)」の側にあるのは、「ローカル」な集団が共有しやすいように単純化された「集団の価値判断」です。
つまり、「集団のため」や「簡易化」を重視すると「豊かさ」の側に寄っていき、「個人のため」や「複雑化」を重視すると「正しさ」の側に寄っていくと考えます。
ただ、「集団」を最大化しようとした場合には、「豊かさ」ではなく「正しさ」の側に行きます。
「豊かさ」が重視されるのは集団が「中程度(ローカル)」である場合であって、集団が「最大(グローバル)」になると「最小」と接続されて「正しさ」が重視されるようになるのですが、これについては前の動画で何度も言ったことなのでここでは説明は省きます。
「科学」という試みは、あらゆる人間が共有できる「客観的な事実」を追求しようとするゆえに、「ローカルな集団を重視しようとする価値判断と、それによって行われる簡易化」が否定され、「事実」そのものの特徴である「複雑化」に向かっていきます。
「科学」は「アクセル(ローカルな価値判断)」を否定する
「ローカル」を重視する「価値判断」が、何らかを集団的に行うための「アクセル」になるのに対して、科学的に思考すること(客観的な事実を重視すること)によって、「アクセル」が否定され「ブレーキ」がかかってしまう構造があり、「大学」というのはこの問題が顕著な場であると考えます。
日本の近代的な「大学」は、もともとは「国民のため・富国強兵のため」という「ナショナリズム」を強める形で整備されたものですが、戦時中という事情がなくなったあとは、近代教育や学術研究のための機関として残りました。
もっとも、近代化や科学が国民全体の豊かさに繋がるという前提は継続していて、ゆえに大学は現在も、公的な支援が行われる権威のある場になっています。
前の動画では、近代的個人として思考すると「正しさ」を重視する「リベラルな価値観」になりやすいことにも言及しました。
科学者・研究者は基本的に、学力テストといったメリトクラシーを突破し、近代的に思考するトレーニングを積み、客観的な事実を重視する「学術研究のルール」のもとで活動するので、思想的には「リベラル(正しさ)」の側に寄りやすくなると思います。
それはつまり、「大学」という場でポジションを得られたような人たちは、自分たちが拠って立つ「ローカル」を否定する考えを持ちやすくなっているということで、例えば、学者や大学関係者は、「自由」や「多様性」を尊重し、「国民の利益に繋がるような選択と集中」みたいな考え方に否定的であることが多いと思いますが、しかし一方で、そもそもの「大学」自体が、「選択と集中」によって成立している機関ではあります。
もし、何らかの知的探求や研究に対して優先順位をつけるべきでないなら、市井の人々が素朴に持っている興味関心も、大学で行われていることとまったく同程度に尊重されるべきであり、であれば、大学に優先して公的なリソースが投入される道理がなくなります。
「学問は自由であり、国家の都合に左右されるべきではない」といった考え方を大学に携わる人たちはしやすいのですが、そのような「学問の自由や多様性」は、現在の「大学」という場所そのものの正当性をも揺るがす性質を持っています。
つまり「科学」は、「客観的な事実(正しさ)」を重視し、それは「ローカル(豊かさ)」と相反するのですが、「ナショナリズム」のような「ローカル」が弱まっていくと、「大学」のような「科学」を行う場所自体の正当性が失われてしまう問題があるということです。
「ローカル」が弱まると研究の評価ができなくなっていく
「ローカル」が弱まると、「その研究は意義のあるものかどうか?」などを問う「価値判断」がまともに機能しなくなっていき、研究が「何でもアリ」になってしまうという問題が起こります。
学術研究において、「新規性(新しい事実)」を示すと個人の業績になるのですが、基本的に大体のことは「新しい事実」ではあるので、「価値判断」による選別が働かなくなるほど、「何でもアリ」になっていきます。
何らかの研究成果は、たとえそれがどれほど稚拙な内容であったとしても、それが「新しく提示された事実」であること自体を否定するのは難しいです。
例えば、極端な例ですが、自分はこういう人間で、こういう特徴を持っていて、自分の人生においてこういう出来事が起こって、そのとき自分はこう思いました……みたいなものをまとめて、「私という人間がいまこうしてここにいます」と単なる自己紹介のようなものを研究っぽい体裁で提示したとします。
これは、その人物がそれを記述したという点においては「事実」ではあり、また、これまでになかったという意味では「新しい発見」であることを否定できません。
もちろん現実的には、このようなものが「研究成果」として認められることはまずないと思います。
研究を発表する場である大学や研究室のようなコミュニティは、入る前の段階で選別があるので、稚拙すぎる内容を提示するような人は、そもそも研究を評価される段階までいかないし、仮に評価される段階までいったとしても、「その"研究 "の重要性を否定するわけではありませんが、あくまで我々の分野の専門性においては、それは成果と認められる水準の内容ではないことになります」……みたいな感じで他の学者たちにやんわりと否定されることになると思います。
より率直に言うと、「常識的に考えて、研究と言うからにはもう少し知的な水準の高いことをしろよ」といったような「価値判断」が学術の場においては機能しているので、著しく「水準の低い研究」が評価を得ることは起こりにくいです。
しかしながら、「水準の低い研究」と、それを否定する「価値判断」とで、「正しさ」に反するのは「価値判断」の側になります。
「知的な水準の高さ」や「常識的に考えて」といったものを深堀りしていくと、結局それが何なのかということを客観的な形で示すのは難しく、事実性に対して真摯であろうとするほど、「水準の高さ」や「常識」といった尺度を持ち出すことができなくなっていきます。
対して、「私という人間がいまこうしてここにいます」みたいなものであっても、それが主張されたひとつの「新しい事実」であることを原理的に否定するのは難しく、特定の「価値判断」を排して「客観的な事実」を重視する「科学」の場であるからこそ、水準の低いものを排除する正当性が失われていきます。
実際に、たとえ稚拙な内容の主張であっても、それがマイノリティや女性の苦しみなどと接続され、フェミニズム研究、オーラルヒストリー、エスノグラフィなどのような方法論の体裁が取られると、「研究と言うからにはもう少し知的な水準の高いことをしろ」と言うのが難しくなっていきます。
「グローバル・リベラルな価値観(正しさ)」において、マイノリティや女性が有利になりやすいことについては、前の動画で説明しました。
「客観的な事実」には指向性がなく、そこから何らかのイデオロギーが演繹されるわけではないのですが、強いて言えば「特定のイデオロギーを持つべきでないというイデオロギー」が「正しさ」を重視する「グローバル」なイデオロギーで、そこにおいては、「伝統的な価値観」や「ナショナリズム」のような、過去に影響力を持っていたイデオロギーが否定されやすくなります。
そして、「偏った評価基準を持つべきではないという評価基準」によって、何かを評価すること自体が難しくなっていった結果として、かえって「政治的に正しいというだけで評価を得る(過去の評価基準で不利だったというだけで高く評価される)」といった倒錯したようなことが起こりやすくなります。
伝統社会において被害者側になりやすかったマイノリティや女性は、「政治的正しさ」において正当性を勝ち取りやすく、「ローカル」が否定され「正しさ」が強まっていく大学ような場所では、「伝統社会の間違いを指摘してマイノリティや女性を尊重しようとする研究」などが、科学的・学術的な評価を得やすくなっていきます。
例えば、ある研究は、知的に洗練された興味深い内容が多く含まれ、データの集め方、データの処理の仕方、先行研究の踏襲、再現性の配慮などもしっかりしていて、しかしながら、「女性よりも男性のほうが優れている」という結果を示すものだったとします。
対して、ある研究は、稚拙な部分が多く、正確性や再現性などもあやしく、ただ、男尊女卑が当然だった伝統社会のなかで、女性が被ってきた理不尽や、女性が果たしてきた役割の尊さを強調するような内容のものだったとします。
あくまで極端な例ですが、この両者を対比したとき、大学のような「政治的正しさ」が強く影響力を持つ場において、前者の研究を発表した人のポジションが危うくなり、後者の研究のほうが高く評価される……といったことが起こりえます。
「科学」は、何らかのイデオロギーや価値判断に左右されないような「事実」を求めて争うものと一般的に考えられているかもしれませんが、何度も説明してきたように、「客観的な事実」からは、「研究対象の選定」や「研究の評価」などのために必要な「価値判断」を導き出すことができません。
つまり、どんな研究であれ完全に「客観的」であることはできず、必ず何らかの「価値判断」が介在します。
そして、「女性よりも男性のほうが優れている」という結論の研究は、たとえどれだけデータの集め方が丁寧で誠実なものであったとしても、少なくとも「研究対象の選定」の時点で、伝統的な価値観に迎合する結果が出るようなテーマを選ぶ「価値判断」をしたことを否定できません。
もちろんここで出したのは極端な例であり、ポリコレを掲げたからといって稚拙な論文が高く評価されるようなことは、おそらく現状ではそこまで多くはなく、基本的に学術の場においては、「学術研究は知的な水準が高くなければならない」という「価値判断」がまだ機能していると思います。
しかし、「ローカル」が解体されていくほど(「正しさ」が強まっていくほど)、研究において「水準の高さ」のようなものを評価することが難しくなっていきます。
また、「ファクトチェック」がお粗末な研究(ルールがちゃんと守られていない研究)も、本来ならばリジェクトされるべきなのですが、先に述べたように、「ファクトチェック」は、研究者個人からすれば自分の成果にはならない仕事で、「ローカルな専門家集団」の規範に頼って行われるものであるがゆえに、「ローカル」が解体されるほど疎かになっていきやすいです。
「複雑化」による「ローカル」の解体
前の動画で説明したことですが、「複雑化(正しさ)」による「ローカル(豊かさ)」の解体は、悪意によってではなく、各々が「正しさ」を重視して目の前の問題に対処しようとすることで起こります。
ただその「複雑化」は、競争的・利己的な側面においても、個人にとってそれを進めるインセンティブがあります。
「自身の興味関心を追求する形で問題に向き合うこと」と「自身を競争で有利にしようとすること」が、「正しさ(自由と多様性)」において繋がっているというのが、当チャンネルで指摘してきた「正しさ」の特徴です。
そしてこれは、専門性が細分化していきやすい「科学・学術」において、特に顕著に起こります。
まず、「事実」自体は際限なく複雑なので、雑な見方や思い込みを排して「事実」に向き合おうとするほど、物事の様々な面を考慮しなければならなくなり、「複雑化」が進んでいきます。
同時に、研究者は、「複雑化」を進めることで自身にとって有利な場所を確保しやすくなります。
対象を細かくしたり、何らかを掛け合わせる形で「自分だけの専門性」を深めると、その領域に関しては、自分より詳しい人間が他にいなくなるからです。
先に述べたように、複雑化(専門性の細分化)が進みすぎることで、「優劣の評価」や「ファクトチェック」が行えなくなっていくのですが、であるからこそ、それをした専門家当人からすると、自分が間違っていたとしても誰からも指摘されない有利なポジションを手に入れられることになります。
人が何かに注げるリソースは限られているので、ニッチな対象にリソースを集中すれば、少なくともその狭い領域に関しては、自分以上にそこに時間や労力を注ぎ込んだ人間はいなくなり、他から口出しされにくい「自分だけの専門性」を確保できます。
そしてこのような形で、「公開性」が重視されるはずの「科学」において、「細分化された専門性」という、実質的に当人以外は口を出すことが許されない「閉鎖性」が生まれることになります。
そうなると、「優劣の評価」や「ファクトチェック」などをまともに行えなくなり、質の低い研究や不正研究が咎められることも少なくなっていきます。
当チャンネルでは、「集団のため(豊かさ)」と「個人のため(正しさ)」の相反という形で現象を説明していますが、専門性の「細分化・複雑化」は、それを進める「個人」がアドバンテージを得られるものであり、また「学問の自由や多様性」という「正しさ」において推奨される性質のものではあれど、「科学」や「大学」全体の長期的な信用を低下させていき、「集団」にとってはマイナスになります。
専門が細分化しすぎて「ファクトチェック」すらまともに行われなくなる(ルールが守られているかどうかがわからない)というのは、現在行われている「科学」という試み全般の信頼性を揺るがす大きな問題と考えるべきですが、一方で、「リベラルな価値観・政治的正しさ」は、それを進めるのを後押しします。
例えば、「海外のマイナーな作家の著作を専門にしています」とか「これまで誰も目をつけていなかった珍しい植物の生態を調査しています」などといった態度は、学問を愛する人たちからは好意的に思われやすく、対して、「なんでそんなニッチことを研究しようと思ったの?」とバカにするような人間は、実際にはリベラルな価値観が普及した現代においてもはやそんな人はなかなかいないにもかかわらず、学問や知的なものに対する敬意の足りない仮想敵として取り上げられがちです。
ただ、公的に支援されている場所において、「リソースが限られるなか、なぜそれを特別に優先しなければならないのか?」という問いはまったく無視できるものでもありません。
そして現在の「大学」のような機関は、「正しさ」を重視するゆえに、「なぜそこで行われる研究が他と比べて特に重要なのか?」という問いに対して歯切れのいい回答を持てなくなっています。
このチャンネルでは、「個人」に向かい細分化しすぎると「ローカル」ではなくなるという図式を提示してきましたが、そこにおいて、「全員が納得できる研究をしろ」というのは違います。専門家にしかわからないような事情は当然あるからです。
一方で、「素人は口を出すな」というのも違って、ほとんどの人がまったくわからなくなるほど細分化が進み続けると、実質的に「閉鎖的」なものになり、これはこれで「社会的分業」が機能しなくなってしまいます。
先に述べたように、「豊かさ」に繋がるような「社会的分業」は「ローカル」である場合に機能するので、何らかの研究やプロジェクトを公的なものとして行う場合には、大衆に迎合しろというわけではなくとも、ある程度は素人や一般の人にも理解される必要があります。
「リベラル・ポリコレ」が強まる現在の学術研究は、細分化が進んで一般人の関心を離れ、公的な支援の道理を失いつつある状態で、支援される枠が減っていくなか、限られた枠を争う競争がより過酷かつ不毛なものになっています。
細分化の結果として専門家同士で共有できる部分がなくなった後に、「他人が口出しできない自分だけの専門性」を掲げた上で行われる「いかに自分の研究が支援されるに値するか」を競う競争は、就職活動における自己PR合戦などと似たようなもので、いたずらに全員が疲弊していきやすいです。
「科学・学術研究」においても、その継続性や信頼性において「ローカル(集団のため)」を重視する作用が不可欠で、「研究の評価」や、「ファクトチェック」や、(これについては後で述べますが)「アーカイブ」といった重要な仕事は、「個人のため」ではなく「集団のため」が意識されなければ行われにくいです。
一方で、「ローカル」を強めることは、「学問の自由や多様性」を重視するリベラルな価値観に反するもので、このような形で現在の「科学・学術研究」は難しい状況にあることになります。
「定式化」と「実証」は性質としては対極
ここまで、「科学」における「ローカル」の解体について述べてきましたが、ハードサイエンスと言われるような、再現実験と定量化を行いやすい一部の自然科学の領域は、社会科学や人文学などと比べて、まだ「ローカル」が維持されやすい側面があります。
日本では「理系・文系」というざっくりとした括り方がよくされますが、その括り方の是非はさておき、いわゆる「理系」のほうが「ローカル」が成り立ちやすいと考えます。
その理由を要点から先に述べると、「再現実験に整合しないモデルを棄却できるので、複雑化が比較的進みにくい」点と、「メリトクラシーの階段が長いので、優秀な集団へのリソースの集中が同意されやすい」点において、実は、理系のほうがまだ「ローカル」が維持されやすいです。
一応説明しますが、「定量化」と「実証」は、むしろ相反する性質のものです。
このチャンネルの動画に対して、「数式が出てこないから実証的なものではないですね」みたいなコメントが来たこともあり、「記号化・定量化されているから実証的な性質のもの」と考えられている場合があるのかもしれません。
しかし、記号や等式や数字を使って現象をモデル化しようとするのは、「複雑な事実」を単純化しようとする試みであり、性質としては「実証」と対極のものになります。
数式の展開や計算自体は誰がやっても同じ結果になるという点で厳密なものではあっても、何らかの物理量を定義して記号で表現しようとする時点でそれは、「事実」を極端に抽象化しようとする試みになります。
ただ自然科学における「モデル化」は、「観測(再現実験の結果)」に整合する限りにおいて行われます。
自然科学では、「観測」が「事実性」において重視され、当然ですが「観測」と一致しないモデルは棄却されます。
何らかの「モデル(物理の公式など)」が「成り立つ」とされるのは、「観測(再現実験)」を何回やっても、そのモデルと整合する結果になるからです。
つまり、「簡易化(豊かさ)」と「複雑化(正しさ)」の相反の図式において、「モデル、記号、数式」というのは、我々の都合によって極端な抽象化を試みる「豊かさ」の側であり、「観測、再現実験」が「正しさ」の側です。
普通は、細かくしたり掛け合わせたりすれば「複雑さ」が増えるのですが、一部の「理系」の学問においては、「多くのものに共通する法則・複雑な世界をシンプルに説明できるモデル」を見つけ出そうとする試みが成り立ちます。
なぜそれが可能かというと、特定の物理現象は、観測を行いやすい(繰り返し実験をして結果を確認しやすい)からです。
再現実験をしやすい一部の自然科学においては、実験の結果に整合する範囲内という制約のもとで、「簡易化」が試みられます。
素朴な感覚として、理系は難しそうだから「複雑化」が起こるものと思われやすいかもしれませんが、ハードサイエンスというのは「簡易化」を目指すことが許されやすい領域です。
ただそこにおいて、事実性を規定しているのはあくまで「何回実験をしてもそのモデルに整合する結果が出る」という「観測」のほうであり、記号や数式を使うモデル化自体は、性質としてはむしろ「客観的な事実(正しさ)」に反します。
物理の教科書に載っているような公式は結果的には実証的なものと言えるのですが、それは数式が使われているから実証的なのではなく、何度も再現実験が繰り返されてしっかり検証されたものが公式として教科書に載っている、ということであり、記号化や定量化自体はむしろ実証に逆行するものです。
「観測」と「モデル化」を繰り返して発展していくタイプの自然科学は、わかりやすく人類の叡智の蓄積が見られ、「科学」という試みの中でも特に信用のあるものだと思いますが、今の世の中は、そういうハードサイエンスの権威を借りようとする研究もけっこう多く、あるいは、「数式によって定量的な答えが出るから信用できる実証的なもの」というイメージもそういうところから来ているかもしれません。
実際には、「数式」自体はむしろ実証と真逆の性質のものなので、再現実験を行いやすいわけではないような社会科学系の事象に対して、やたらと数式が多用されている場合は、ハードサイエンスの権威を借りようとする眉唾なものなのではないかと疑ったほうがいいかもしれません。
再現実験をしやすいのは、自然科学の限られた領域にすぎず、「理系」と括られる分野であってもその多くが、そんなに綺麗に再現性のある結果を出せるわけでもないです。
しかし世間一般的には、再現性がしっかりした領域とそうではない領域が同じ「科学」と見なされていて、「◯◯大学の研究によると〜」みたいに権威を笠に着る形で信頼性が高いとは言えない研究成果がやたらと引用されたり、杜撰な統計調査の結果を出して「数字を持ってきたからエビデンスがある」みたいに主張されることがよく行われているとも思います。
「理系」はまだ「ローカル」が維持されやすく、「文系」は専門が細分化しやすい
「理系」でも「文系」でも、それが「科学」という試みであるならば、「客観的な事実」が重視されます。
「理系」の場合は、観測(実験)によって再現性が確認されることでそれが「事実」であると認められるのに対して、再現実験をできない「文系」はどうやって「事実」を示そうとするのかというと、「歴史」が重視されることが多いです。
そんなに単純に対比できるものではないとも考えていますが、強いて言うなら、「理系」は「観測」が重視されるのに対して、「理系」における「観測」の位置に、「文系」の場合は「歴史」が当てはまります。
過去に起こったことは「事実」としての高い強度を持ちやすいので、社会科学系・人文系の学問が「客観的な事実」を重視する「科学」であろうとした場合、「歴史」は非常に大きなウェイトを占めるものになります。
そして、「観測」に許される範囲内で「簡易化」を試みることができる(観測と一致しないモデルを棄却できる)理系は、「複雑化」が抑制されやすい(ローカルが維持されやすい)のに対して、「歴史」を重視する文系は理系と比べて、「過去に影響力を持ったもの」を無視しにくいゆえに「複雑化」が進みやすく、「ローカル」が解体されていきやすいと考えます。
例えば、ニュートンやマクスウェルの方程式は、現象をうまく説明できるモデルだから重視されていて、それらの事実性は、今からでも再現実験をしてモデルとの整合性を再確認できることに拠っています。
対して、ルソーやマルクスなどが提示した論は、社会現象をうまく説明できている側面がまったくないわけではないのですが、現象と整合的だから重視されているというよりは、「歴史」に大きな影響を与えたという点において無視できないものになっています。
例えば、「マルクスの理論は資本主義が抱える構造的な問題をうまく説明できているからマルクスを読む必要がある」みたいに思われがちであるのに対して、実際には、『資本論』のような本が資本主義をうまく説明できているかというとそうでもないです。(もっとこれに関しては意見が割れるものだとも思うので詳しくはまた別の動画で説明するつもりです。)
『資本論』のような著作を無視できない理由は、それが様々なものに与えた影響があまりにも大きいからで、おそらく資本主義を否定する動き自体はマルクスが担がれる形でなかったとしても何かしらの形で起こったとは思いますが、ただ『資本論』は、それが存在しなかった場合に今の世界がどのようになっていたのかを想像しにくいほど歴史に大きな影響を与えていて、それゆえに、「歴史」を重視する文系の学問の多くにおいて触れないのは難しいです。
「文系」の学問において、何らかの過去の理論は、「それが現象をうまく説明できるモデルだから」という理由ではなく、「それが歴史に大きな影響を与えたから」という理由で無視できないものになりやすく、自然科学において「観測」が重視されるのと同程度に、社会科学や人文学においては「歴史」が重視されるので、たとえ過去に影響力を持った論がいかにおかしなものに思えても、過去に影響力を持ったという点において踏まえておく必要があります。
そのため、理系であれば、ニュートンが書いた著作などを読む必要は必ずしもなく、「観測と整合的なモデル」にフォーカスした上で教科書や参考書で勉強するのが推奨される場合が多いのに対して、文系の場合は、内容がわかりやすくまとまった教科書を読む、みたいなやり方はあまり推奨されず、事実性に対して真摯な態度を取ろうとするならば、「歴史」に影響を与えた著作に目を通さなければならなくなりやすいです。
しかし、過去に影響力を持った著作の多くをちゃんと読むのに必要な時間や労力は、ひとりの人間に与えられているリソースを大きく超えていて、「歴史」が重視されるゆえに何らかの基準における整理や取捨選択が難しい文系は、「観測」に合わないモデルを棄却できる理系と比べてより「複雑化」が進みやすく、「専門家同士で共有できる部分(ローカル)」が弱まっていきやすいです。
もっともこれはあくまで相対的な話であり、「理系」だから「複雑化」が起こらないわけではもちろんないし、「理系」に区分される分野であっても、「観測」と「モデル化」をそんなに綺麗に行えるわけではない場合もたくさんあります。
「ローカル」が解体されていくのは、文理を分けず「科学」全体の問題です。
ちなみに、「ローカル」の解体によってちゃんとした評価が行われなくなり、素人目にも知的とは思えないような質の低い研究が学位やポストを得る場合において、文系の研究のほうが悪目立ちしやすい傾向があるかもしれませんが、とはいえ文系の場合、何だかんだで博士号の取得などは難易度が高いことが多いと思います。
対して、専門用語が多く使われていると悪目立ちしにくいだけで、理系だからといって質の低い研究が少ないわけでもありません。
先に「再現性の危機」を説明したときに出した書籍にも例が載っていますが、「再現性の低い研究・不正研究」は、統計的な有意差を示せば専門的な論文の体裁が成り立つような、心理学、医学、生理学のような分野に実は多いです。
「天才」の信用も「ローカル」に頼る
「理系・文系」の話題を出してきましたが、ここで主張したいのは、分野に関係なく、「科学・学術研究」において、「ローカル」が弱まるほど「研究の評価」や「ファクトチェック」がちゃんと行われにくくなり、信用しにくいものになっていく構造があることです。
「科学」においては、「科学者になるためには卓越した知的能力が必要であり、ゆえに科学者が主張する研究成果は信用に値するもの」という考え方が、あるいは影響力を持っているかもしれません。
ただ、「卓越した知性(天才)」と評価されること自体、実は「ローカル」に頼っている部分が大きいです。
一般的に、「学力テストによる評価」や「専門性の課程」などの、社会やコミュニティが用意した階段を、常人よりも速い速度で駆け登れるような人が「秀才」や「天才」と呼ばれやすいのですが、その点において、「天才」もその評価を「ローカル」の信用に頼っていることになります。
数学のような分野は、他の学問と比べても特に「天才」に対する信用が強く働いている領域かもしれませんが、そのような数学においてさえ、研究成果の信用を「ローカルな専門家集団」に頼らざるをえない構造があります。
何らかの数式の操作が、誰がやっても同様の結果になるからそれが証明された定理と認められるわけで、そこにおいて、一定数の専門家に理解されること(「ローカル」に組み込まれること)によって、何らかの研究成果が信用を得られることになります。
このような考え方をするなら、仮に、「世界に数人しか理解できていないとされる超難解な理論」があったとして、それは「数人しか理解できていない」という点において信頼性が低いと見るべきです。人数が少ないほど、その数人が全員間違っている可能性を否定しにくくなるからです。
つまり、「天才が主張していることだから信用できる」といった考え方はせず、そもそもその「天才の信用」自体が「一定数の集団(ローカル)」に規定されているし、「ローカル」が解体されていけば(理解できる人数が極端に少なくなっていけば)、信用が低下していくと考えます。
以前、日本人の数学者である望月教授の「IUT理論」が話題になりましたが、難解すぎてまだその真偽が検証されたわけではなく、もちろん自分はこれについて理解や評価をすることはできませんが、このようなまだ検証されていない理論においても、「ローカル」に組み込まれること(一定数に理解されること)で信頼性が上がる構造があると考えます。
まず、どこの誰ともわからない人間が「すごい理論を発明しました」と言っても見向きもされないわけで、「IUT理論」は、発表した教授にすでに「天才」と評価されるほどの実績があり、「ABC予想」のような多くの数学者が関心を持ちやすいテーマとも接続しているからこそ、ここまで注目されるものになったと考えることができます。
ただ、数学という特に知的に信用されている分野の「天才」が発表したものと言えども、専門家集団の一定数がそれを理解できなければ評価が定まることにはなりません。
そして、「査読」や「検証」は研究者の成果になりにくく、研究者としての限られたリソースを使って真偽の定まらない難解な理論に取り組もうとする人がいるのかという問題があって、おそらくそういう事情も踏まえて、ドワンゴ創業者の川上量生さんは、「IUT理論」の間違いを証明した人に100万ドルの賞金を用意する、というやり方をしています。
「IUT理論」を例に出しましたが、それが長期的にどういう評価になるかはもちろんまったくわかりません。
ここまで情報化が進んだ社会で、大きく注目を浴びた理論の真偽が10年以上経っても定まらないというのは、ちょっと展開の読めない問題ではあると思っています。
理系のほうが「競争の結果として生じる協力」が成立しやすい
数学は「天才」の信用が他よりも特に強く働いている分野だと思いますが、それでも「ローカル」から切り離されれば信用が落ちると考えるべきで、もちろん他の分野であればなおさらそうです。
基本的に何らかの研究や調査は、「集団」で行われたほうが信頼性が高く、「個人」で行われたものほど信頼性が低くなります。
社会調査やアンケート調査のようなものにしても、省庁がやっているような大規模なものほど信頼性が高く、個人の学者がやるような調査は、それが大勢の目を惹きやすい内容のものだったり、何らかの主張を裏付けようとする性質のものだった場合は特に、大きく信頼性を差し引いて見るべきなのですが、しかしながら、「メリトクラシーやポリコレ(正しさ)」が強い影響力を持つ現代においては、「個人」としてやることが過大に評価されがちです。
そして、「研究者になるためには優秀さが必要であり、優秀な人間のやることだから信用できる」と考えられがちな社会において、「たとえ間違っていたとしてもそれを指摘されにくい、信用のある優秀な人間としてのポジション」をめぐって競争が起こっていて、しかしその競争が激しくなるほど、不正研究や再現性の低い研究によって成果を出す誘惑も強くなり、長期的には「科学」全体の信用が毀損されていきます。
なおこのような見方は、前の動画や過去動画で説明してきた、「メリトクラシーは個人にとって納得感があるものの、実は集団の豊かさに反する(正しいから豊かになると考えるような倒錯が起こっている)」という前提を踏まえたものであることに留意してほしいと思います。
ちなみに、「文系」でも、研究の信用において、語学や学歴のような「メリトクラシー」がけっこう大きな影響力を持っています。
例えば、ニーチェやハイデガーのような著名な哲学者も、古典文献学(語学)というわりとメリトクラシー的な正当性が強い分野で成果を出した人で、その実績による権威がなければ、今ほど著作が読まれていなかった可能性もあると思います。
「文系」にも「語学」のようなメリトクラシー的な要素はありますが、ただ、ギリシャ語・ラテン語や、多言語の習得が重視されるような一部のコミュニティを除いて、「数学」などと比べて「語学」で示せる卓越性には天井があります。
理系と文系を比べれば、「理系」のほうが専門性を認められるまでのメリトクラシーの階段が長いことが多く、これも「理系」において「ローカル」が成立しやすい理由であると考えます。
前の動画で説明したように、「競争」は「正しさ」の作用なのですが、「競争の結果として生じる協力」は「豊かさ」になりえます。
「理系」の専門課程は難易度が高く履修に時間や労力がかかりやすいゆえに、「同じ課程をクリアした仲間である」という協力関係が発生しやすくなり、また、「理系」は周囲からも優秀だと思われやすいので、そこへのリソースの集中に同意を得られやすい傾向があります。
つまり、あくまで文系と比較して相対的にではありますが、理系は、「観測」と整合しないモデルを棄却できるので「複雑化」が抑制されやすい、メリトクラシーの階段が長いので「競争の結果としての協力」が成立しやすい、という理由により、まだ「ローカル」が維持される場合が多いと考えます。
なお、一部の難関資格を除いて、メリトクラシーの階段が短い(専門課程による選別が機能しにくい)文系のキャリアの場合、大学入学時における偏差値のような、より早い段階でのメリトクラシーの結果が理系よりも重視されやすくなる傾向があるかもしれません。
もっとも「理系・文系」といっても分野や場合によって様々であり、一概に言えるものではないとも考えています。
「科学の進歩の最大化」が善いこととは考えない
当チャンネルでは、個人の能力や成果を重視する「競争」が、集団全体の豊かさ・強さにとっての「ブレーキ」になるという考え方を提示していますが、そう考える理由のひとつは、そもそもの「もとの才能の生産(人口の再生産)」が「競争の否定」に頼って行われることです。
仮に、科学の進歩のためには「才能のある人間」が必要だとして、その総量を増やすことを考えるなら、たくさん産めばそのぶん才能を持った個体も生まれやすいわけですが、出産や育児は「競争を否定するローカル」による余裕があってこそ成立します。
「競争」の過剰は出生率を減らし、それは「才能のある人間」の総量を減らすことでもあるので、ゆえに集団全体の長期的な視点においては、「競争することで科学が発展する」とも言えないのではないかという理屈です。これついては前の動画などで説明しています。
なお、これも前の動画で述べたことですが、当チャンネルでは、無条件に「科学の進歩が善いこと」と考えているわけではなく、「科学の進歩の最大化(可能性の最大化)」は、極端な「豊かさ」の追求であり、むしろ望ましくないものとしています。
何らかの発明や革新をとにかく増やそうとするなら、たくさん子供を作って才能を選別したり、人権などの枷を取り払って研究をすることになりやすく、それは「正しさ」に大きく反するものになってしまいます。
ゆえに、「とにかく科学を進歩させようとすればいい」というわけにはいかず、当チャンネルの枠組みでは、「豊かさ」と「正しさ」のバランスにおいて何らかの現実的な試みが行われると考えていて、それは「科学」の場合であっても同様です。
つまり、「競争」するほど科学が進歩するわけではないが、「協力」を強めて科学の進歩をとにかく進めようとすればいいわけでもなく、「競争」と「協力」は、どちらかが過剰になるのを避けながら、両方を重視すべきものであると考えます。
大学よりも企業のほうがむしろまともに研究が成り立つ
「協力」して「科学」という試みを成立させるためには、大学のような場が大きな役割を果たします。
しかしながら現在の大学は、入学時の選別の激しさにおいても、そこで研究者としてポストを得る難しさにおいても、「競争」を象徴するような場になっています。
「豊かさ」のためには「競争」ではなく「協力」が必要であるとして、現在は、「大学」よりも「企業」のほうがまだ、「個人の競争」を否定して「集団の協力」を重視し、まともに研究を行える場所になっている側面があると思います。
何らかの学術的な専門性を身に着けた人にとって、アカデミックなキャリアを歩もうとすると待遇が悪くなりやすく、企業に行ったほうが収入などの期待値が高くなりやすい、ということはよく言われます。
これに関して、たとえ企業と大学とで大学のほうが待遇が悪くなりやすかったとしても、アカデミズムが軽視されている、と言えるわけではないと考えます。
なぜなら、大学に所属する研究者として出した成果は個人の業績になりやすいのに対して、企業に所属しているときに出した成果は企業のものになりやすいからです。
大学の待遇が悪いのは仕方がないということを言いたいわけではないのですが、ただ、「大学に所属すると個人の業績になりやすい代わりに待遇が悪い」というのと、「企業に所属すると個人の業績になりにくい代わりに待遇が良い」というのは、トレードオフとしては妥当性があり、企業よりも大学の待遇が悪くなりやすいことをもってして「学問が軽視されている」ということにはならないと思います。
前の動画では、市場競争は主に「正しさ」として働くものの、競争の結果として起こる「資本蓄積」によって「ローカル」が成立し、競合他社と競い合う大企業・グローバル企業などにおいては、「個人による競争」よりも「集団による協力」が重視されやすくなる側面があると説明しました。
そして、何らかの研究が行われる場として「大学」と「企業」とを比べた場合、「大学」では、専門性の細分化に歯止めがかからず「個人のため」の「競争」が強まっていくのに対して、「企業」は、資本蓄積で得た余剰をもとに、より利益を出すための研究開発などの目的において、大人数を「集団のため」に「協力」させることができます。
そのため、ある側面においては「大学」よりも「企業」のほうが、研究の意義や個人の成果を競い合うような不毛な競争にリソースを割かず、協力し合って研究をすることが可能になっています。
もっとも、企業は企業で「貨幣を稼ぐこと」を目的にせざるをえないので、「市場のルール」の外側にある問題は、企業に頼っても解決は難しいです。
メリトクラシーでは集団を維持することができない
大学が苦しくなっている現状に対して、「国家や国民が学問を軽視しているのが問題だ」みたいなことも言われがちですが、当チャンネルでは、「個人の成果が重視される」といった部分が一番のボトルネックになっていると考えます。
大学の衰退を良しとしているわけではありませんが、「個人であること(正しさ)」が著しく重視される場であるからこそ大学は、むしろ順当に存続が苦しくなっているという見方をしています。
競争が激しい現代の感覚において、大学という場は、メリトクラシー的な正当性によって成立していると考える人が多いかもしれませんが、すでに述べてきたように、実際には大学は「ナショナリズム(国民のため)」といった「ローカル」に頼って成立していて、メリトクラシーが強まると、むしろ大学の正当性が危うくなっていきます。
リベラルな価値観においては、例えば、日本人の学者がノーベル賞などの賞を受賞しても、「その研究者個人がすごいのであって、日本人というだけのお前がすごいわけじゃない」「ノーベル賞は世界的なものなのだから、日本人が受賞したときだけ盛り上がるのではなく、どの国の研究成果でも平等にメディアで紹介するべき」みたいなことが言われがちです。
日本人の研究者の成果がその人個人のものであって日本人全員のものではないというのは「正しい」です。
しかし、そのような「正しさ」が重視されるからこそ、自分と関係のない人間の自己実現の追求のために公費が使われること(大学のような機関が公的に支援されること)も肯定されにくくなっていきます。
「同じ日本人が世界的な評価を得ると誇らしい」とか「日本の大学で学んだ者が日本の将来に貢献する仕事をしてくれるだろう」といった集団主義(ナショナリズム)が、大学のような場が優遇される根拠になっていて、対して、「優秀な者だから支援されるべき」というメリトクラシーでは公的な場を維持するのが難しく、なぜなら、メリトクラシーを突き詰めると「優秀な者だから支援されるべき」とさえ思われなくなっていくからです。
例えば、もし仮に、超天才たちが、常人には想像もできないが人類にとって価値のある何らかのテーマを扱っているのだとして、ではそういう超天才たちを支援する必要があるかというと、「そんなに天才なら研究のついでに事業をやるとかして金を稼ぐくらい楽勝だろう」し、あるいは「財界などにいる同じレベルの天才たちが、そのテーマに価値を認めて支援をしてくれるだろう」から、一般人が超天才のために支援をする必要などないことになります。
そこまで極端でなくとも、「有名大学に入学できる能力があるなら卒業後に金を稼ぎやすいだろうから、学費を下げる必要はない」みたいな考え方なら、すでに現状でもされやすくなっていると思います。
メリトクラシーの行き着く果ては、「優遇される枠を勝ち取れる者であるならば、そもそも優遇される必要などない」といった考えであり、ゆえにメリトクラシーでは「集団」を維持するのが難しいです。
現在の大学は、学力競争というメリトクラシーにその権威性の多くを頼る形になっていると思いますが、競争が強まるほど待遇が盤石になるかというと逆で、支援が与えられるに値する卓越性を示すために、論文の引用数の海外ランキングのような競争を意識しなければならなくなったり、企業と提携して「稼げる大学」を目指さなければならなくなっていきます。
大学に求められている役割は何か?
これから、「大学」を公的な学術研究の機関として立て直し、所属する人たちの待遇を良くしていくためには、「国民のための仕事を重視する代わりに公的な支援がちゃんと与えられる場」として、改めてその役割を位置づけ直すというのが、ひとつの方法になるかもしれません。
もっともそのようなナショナリズムを強める方針は、学術的なトレーニングを積んでポジションを得た学者たちにとっては受け入れがたいものになりやすいとも思います。
なおここでは、大学において「リベラルな価値観」が強くなっていることに必ずしも否定的というわけではありません。
たしかに、自らの権威性を実はナショナリズムに頼っている集団が、国家に対して懐疑的・攻撃的な態度を取り続けるのは、それが行き過ぎたものになれば、他責的・利己的で思慮が足りないという誹りを免れないとは思います。
しかし、そもそも国家は個人に対してひどく加害的な側面を持つもので、過去の経緯などを踏まえれば、大学が国家の暴走に「ブレーキ」をかける役割を重視するリベラルの牙城であろうとすることも、簡単に否定することのできない意義があります。
このような「大学」と「リベラル」の話については、この動画の次に出す動画でより詳しく論じるつもりです。
当チャンネルでは、大学において「正しさ」が重視されることに必ずしも否定的な見方をしているわけではないのですが、ただここからはあえて、「大学」が「科学・学術」を重視する公的な場であるとした上で、これから大学で「豊かさ」を強めていこうとするのであれば、いったいどのような研究や仕事が重視されることになるのか、を論じていきたいと思います。
先に、大学よりも企業のほうがむしろ「個人の競争」を否定して「集団の協力」を可能にする場になっていると述べましたが、しかし企業は「市場」に評価されない活動をするのが難しく、であるならば大学には、「市場には評価されないが国家や国民にとって重要な研究開発を行う場」であることが期待されているかもしれません。
かつての日本の大学は、近代戦争という国家にとって危機的な状況に対応するための役割を果たしてきた側面があります。
現在は戦時中ではありませんが、少子高齢化が進みこれから社会の様々な部分が維持できなくなっていくであろうことを、国家にとって危機的な状況と見なすのであれば、その問題に対処するための研究開発の機関であることは、国民が大学に求めていることのひとつかもしれません。
過去動画で述べてきたように、例えば、インフラ整備や育児や介護などは、「市場のルール」には評価されにくい仕事ゆえに、市場原理にまかせてもその効率化や自動化が勝手に進んでいくわけではありません。
市場では評価されないが国民にとっては重要な仕事のための研究開発を大学が行うというのは、「大学」が「豊かさ(集団のため)」を重視する方法のひとつであると考えます。
もっとも、「インフラ整備や育児や介護の効率化・自動化」といった仕事を、「大学」という枠組みで行うべきかに関しては、検討の余地があるとも思います。
「研究開発」と「学術研究」はちょっと性質が違って、効率化や自動化を進めようとする種類の試みが「学術」と相性が良いとは限らず、それらは、「大学」の役割と位置づけるよりも、国家が企業にインセンティブを与える形や、官営の研究開発機関の設立や、産学連携のような枠組みで行ったほうが、あるいはうまく行く場合が多いかもしれません。
もちろん大学における研究開発を否定するわけではなく、可能ならば行われたほうが良いことだとは思いますが、今回の動画のテーマである「科学・学術研究」に関して言うならば、アカデミックな機関がより重視すべき仕事があると考えていて、それは先に言及した「教育」や「ファクトチェック」であり、さらに付け加えたいのが「アーカイブ」の仕事です。
「科学」や「学問」や「知」に関する情報を保管して後世に引き継ぐことは、言うまでもなく非常に重要な仕事ですが、このような「アーカイブ」の仕事も、「ローカル(国民のため)」が重視されなければ行われにくいものであると考えます。
データの収集・検証・整理・保管(アーカイブ)
特定の基準でデータを収集し、その信頼性を検証し、一次情報を辿れるようにカタログなどを整理し、事故が起こってもデータが失われないように保険をかけて保管する……といった「アーカイブ」が、「科学」におけるインフラ整備とも言えるような非常に重要な仕事であることは、専門分野を問わず同意されやすいと思います。
しかし、すでに説明してきたように、「データの収集・検証・整理・保管」などを行う「アーカイブ」の仕事は、「新しい発見」をするわけではないので、研究成果の新規性を重視する現状の「学術研究のルール」には評価されにくいです。
当チャンネルの枠組みで説明するなら、「教育」や「ファクトチェック」や「アーカイブ」が、「長期的な科学の継続性(集団のため)」に寄与する「豊かさ」を重視する仕事であり、対して、「個人の研究成果」が評価されて卓越的なポストが与えられるメリトクラシーや、「個人の興味関心(学問の自由や多様性)」を尊重するポリティカル・コレクトネスが、「正しさ」を重視しようとする作用になります。
先に「再現性の危機」に言及し、不正研究が多く混じる(査読やファクトチェックがちゃんと行われない)ことによって、「科学」全体の信頼性が低下していくという問題を指摘しましたが、これと並んで大きな問題と考えるのが、「アーカイブ」にリソースが使われず、後世に残すべき重要なデータがうまく引き継がれない(データが消失・散逸してしまう)ことです。
ただ、もちろん現在の大学などの場において、「教育」や「ファクトチェック」や「アーカイブ」といった「集団のため」の仕事がまったく行われていないわけではありません。
「アーカイブ」も、大学の各研究室や資料室でそれが重視されているところもあるし、図書館、公文書館、博物館、科学館、資料館、官庁などでも、データの収集や保管は行われています。
あるいは、企業が、自社や事業に関するデータを保管している場合もあります。
しかし現在、「アーカイブ」の仕事が、その重要性に見合うほど十分に行われているかというと、そうではないと考えます。
前提として、当然ですが、あらゆるデータを残すことはできません。
つまり何らかのアーカイブの試みは、必ず不十分に終わることになり、その上で、どのような形でどれだけ後世にデータを残そうとするか、を考えなければならないことになります。
先に述べたように、「研究成果」である「論文の数」自体は増え続けています。
出版されたもの、放送されたもの、販売されたものなどの量も増え続けています。
時間が進むほど人類が活動した結果としてのデータは増えていき、つまり、何らかの資料や記録や歴史を保管しておくべきとするなら、それをちゃんと行う難易度は、時代を経るにつれて上がり続けていることになります。
対して、少子高齢化が進んでいく社会において、使えるリソースは少なくなっていきやすいわけで、「データを適切に保管して後世に引き継ぐアーカイブの試み」は、これから満足な水準で行われる見込みがかなり低いと考えたほうがいいと思います。
もっとも、「どこまでやれば十分なアーカイブなのか」「未来にデータなんて残す必要があるのか」という議論はあって然るべきですが、そもそもあまり関心を持たれていないので、そういう議論自体もそれほど起こっていません。
長期的な国家や国民のためにちゃんとアーカイブを残そうとすることが重要な試みであるとして、まず現状は、それに責任を持っている立場の人がいません。
政治家は、その都度の選挙で選ばれた人にすぎないし、大学教授は、個人の業績などを認められて大学に所属している人にすぎず、博物館や資料館で働いている学芸員や司書なども、限られたリソースでやりくりしていて特に大きな権限を持っているわけではなく、「アーカイブ」に対して責任を持つような立場がそもそも存在しません。
もちろん各場所や各分野においては、責任を持ってデータを管理している人がいると思いますが、「日本という国家の継続性のため」という規模で体系的にデータをアーカイブしようとする試みが、国家的にそれほど重要視されているとは言えません。
例えば、デジタルアーカイブに関して、内閣府の知的財産戦略推進事務局という所が主に推進しているのですが、「過去の知財へアクセスしやすくなることでより創造的な社会に」みたいな、ちょっとメリトクラシーの影響が強めのコンセプトで行われています。
しかしながらアーカイブは本来、「記憶や歴史を次世代に引き継ぐことは国家の継続性にとって重要なこと」というナショナリズムを強める形で、より大規模に公金を投入して行われてもいいような仕事(そのような形でなければ十分に行えないような仕事)であり、対して、政府や国民はそこまでは関心を持っておらず、現状ではあまり重要性が認められていないと見なすべきだと思います。
もっとも現在の日本は、少子高齢化、限界集落、インフラや社会制度の崩壊など、より根本的に集団の継続性を揺るがすような問題が山積みで、アーカイブに関しても、「言われてみれば多くの人が重要な問題と認めるけれど、そこまで気にする余裕がない」という感じかもしれません。
「アーカイブ」は「メリトクラシー・ポリコレ」と相性が悪い
先に説明してきたアーカイブの仕事において、イギリスがその先駆けなのですが、それを専門的に行う職種として「アーキビスト」という言葉があります。
日本でも一応「日本アーカイブズ学会」はあり、また大きな規模ではないですが各省庁などがアーカイブ事業を支援したりもしています。
とはいえ、「アーキビスト」のような仕事が日本でそれほど認知されているとは言えないし、学芸員や図書館司書が似たような役割を担っているのかもしれませんが、それらも待遇の悪さが問題になっています。
「アーカイブ」の仕事が評価されにくい理由は、その重要性が認められていないからというより、「個人のため(正しさ)」が強く重視されているからだと、このチャンネルの枠組みでは考えます。
「アーカイブ」は、実は「メリトクラシー・ポリコレ」と相性が悪いです。
属人性を排した仕事を丁寧に行うことに価値のある「アーカイブ」の仕事は、個人の卓越性を示せるものにはなりにくく、また、学術研究のルールに評価される「新しい発見」にもなりにくいので、メリトクラシーの影響が強まると行うのが難しくなっていきます。
また、「アーカイブ」は、「ポリティカル・コレクトネス(多様性)」にも反します。
この動画で先に述べたように、「事実」は際限なく複雑なので、完全に客観的な形でのデータ収集というのは不可能で、「アーカイブ」は、何らかの指向性を働かせ、取捨選択をしながらそれを行う必要があります。
つまり、重要なものとそうでないもの(歴史として残すに値するものとしないもの)とを選別しながら「アーカイブ」が行われることになるのですが、ではそのときにいかにして価値判断を機能させるかというと、基本的には「国家のため・国民のため」という「ナショナリズム」を頼り、日本という国家の歴史や継続性において重要なデータを集めることになります。
「ナショナリズム」を頼る必然性があるわけではないのですが、アーカイブは、大規模に時間と労力を必要とする労働集約的なものになりやすく、現実的には、「国家のため」といった価値判断を機能させなければ、十分な質と量のアーカイブを行うだけの人手を確保するのが難しい場合が多いと思います。
ゆえに、基本的には「アーカイブ」は、「個人(正しさ)」を重視する「メリトクラシー・ポリコレ」と相性が悪く、「ナショナリズム(長期的な国家の継続性のため)」という価値判断によって可能になる「集団(豊かさ)」を重視する性質のものになります。
博士や大学人や学芸員などの学術的な知見のある人たちは、アーカイブの仕事が重要であることを強く認めてはいても、そのために必要な「ナショナリズム」には懐疑的になりやすいと思います。
このようにして、「個人のため」が肯定され「集団のため」が否定されやすい社会だからこそ、アーカイブの仕事もその重要性に対して、真剣に取り組まれにくいものになっています。
後世の人たちにとってありがたい仕事とは何か
ここで、仮定として、「科学・学術」において、今の我々ができることで後世の人たちからしてありがたい仕事とは何だろうか、ということを考えてみようと思います。
もちろん未来でどのような考え方がされているかを知ることはできないので、あくまで仮定の話になります。
「客観的な事実」を追求する「科学」には普遍的な性質があり、「努力して出した成果が後の人類に対しての貢献になる」といった考えを信じている研究者は多いかもしれませんが、そのような考えをここでは疑問視しています。
論文といっても玉石混淆で、トップ層が出しているような、多くの人が注目して査読や検証がしっかり行われているような論文ならば、信頼性は高く、普遍的な成果が積み上がっていく側面はあると思います。
しかし、先に「再現性の危機」として述べてきた、論文の総数が膨大に増え続けていくなか、査読や検証がまともに行われていない信頼性の低い成果が多く混じってしまうという問題は、「後世の人類のため(長期的な科学への貢献)」において、看過していいようなものではないと考えます。
一般的に、数%の確率で食中毒になる食品や、不良品が数%混じっている工業製品は売り物にならないと思いますが、研究においても、不正研究が数%混じっているなら、総体として信用できるものにはなりません。
「優れた論文を増やすためには裾野の広さが大事」という考え方もあるかもしれませんが、現在行われているような大学のポストを得るための競争がそれに寄与しているとは考えにくく、裾野を広げようとするならば、むしろ大学のような「選択と集中」の機関の正当性が失われます。
あるいは、「反証や修正が可能であることが科学の特徴であり、客観的事実を追求する科学という試みにおいて、不正研究が混じっていたとしても、長期的にはいずれ誰かによってちゃんと精査されるだろう」みたいに思われているかもしれませんが、そのような考えのもとで信頼性の低い研究成果を量産するのは、それを精査・修正しなければならない人たちの立場に立てば、むしろ迷惑行為になるのではないかとも考えるべきです。
「先行研究」を重視しなければならない後世の人たちからすれば、現在行われているような、個人の優位性を確保するための対象の細分化・複雑化がむやみに進められ、不正や不手際を隠すために後からの検証が意図的に難しくされていることもあるような研究結果の山に対して、そのひとつひとつを精査し直すみたいなことにコストをかけるのはバカらしいだろうし、であれば、今の時代のやり方で行われているような研究は総じて信頼性の低いものと見なした上で、より体系性や再現性を重視した方法でゼロベースで科学を始めたほうがマシ……みたいになる可能性もあると思います。
つまり、「ファクトチェック」の甘さが看過され、体系的な「アーカイブ」として管理されているわけでもない、個人の成果を競い合った結果として場当たり的に生み出された研究成果たちが、後世から「先行研究」として敬意を払われると考えるのは、ちょっと都合が良すぎるだろうということです。
対して、ではどういう仕事が後世に対する貢献になりそうかを考えたとき、現時点から「収集・検証・整理・保管」をしておかなければ失われてしまうようなデータを、丁寧にアーカイブして、トラブルが起こってもデータが消失しないようにバックアップなどもちゃんと用意する……といったような仕事は、おそらく後世の人たちにもありがたいと思われやすいものだと考えます。
「ファクトチェック」や「アーカイブ」のような科学全体の信頼性や継続性に寄与する「集団のため」の仕事と、自己実現としての研究といった「個人のため」の試みがあり、おそらく後世から評価されやすいのは前者なのですが、有限のリソースをどちらに多く使うかのトレードオフがあるなかで、現状は、「集団のため」が蔑ろにされ、「個人のため」が重視されやすくなっています。
それが悪いと言いたいのではなく、「学問の自由や多様性(正しさ)」といった観点からは「個人のため」が重視されるほうが望ましいのですが、しかし、「各々が研究成果を競い合うことで、後世の人たちにとっても恩恵のある普遍的な科学の進歩が進む」という考えのもとに「個人のため」が肯定されているのだとしたら、そこには大きな欺瞞があり、「正しいから豊かになる」と考えるような倒錯が起こっていることになります。
もっとも、ここでは、研究者を批判したいわけではありません。
全体の構造の問題は個人ではどうしようもない場合が大半で、個々の研究者の立場からして、「ファクトチェック」や「アーカイブ」のような仕事にリソースを使えるかというと、それが評価される仕組みになっていないからどうしようもないところがあります。
そして、何らかの野心や向上心を持った研究者個人としては、科学全体の信頼性や継続性が毀損されていく現状においても、多くの人が目を見張るような突出した成果を出すことができたなら、さすがに後世からも評価されるだろうし、それをする可能性を残すためには、現状のルールにおいて成果を出して研究者としてのポジションを確保する必要があり、このような「集団のため」よりも「個人のため」を重視せざるをえない構造のなかで、短期的に評価されようとするための研究成果が提示されやすくなっていきます。
後世に評価される仕事をしたいならば現状は「宝の山」
もし、長期的・歴史的に重要な仕事が、現状のルールでは評価されにくいのだとしたら、それはあるいは、視点を変えてみればチャンスであり、現状はある種、目の前に「宝の山」が広がっているようなものかもしれません。
何もしなければ失われていく情報がそこかしこに落ちていて、それをアーカイブすれば価値のある仕事になるからです。
重要な情報であれば、特に気にしなくても自然と受け継がれていく・誰かが記録に残しておいてくれる……とみんなが何となく考えているかもしれませんが、おそらく、そう考えられているよりは後世にちゃんと残せるものは限られているし、今からでも一定の意図を持って収集や保管をしようとしなければ、失われてしまうものが多くあります。
多くの記憶や歴史が失われていくなか、それらの「収集・検証・整理・保管」を丁寧に行えば、それは、価値のある仕事をしたと後世から評価されやすいかもしれません。
例えば、各地域の「戸籍」や「郷土史」や「歴史的な資料」みたいなものは、市町村が管理していたり、図書館や資料館に保管されたりしているわけですが、限界集落化して人手がなくなっていけば、歴史的に重要な情報が散逸・消失していくことも起こりうるわけで、それらを後世に引き継げるような何らかの形で残すことができれば、意義のある仕事ができたと言っていいと思います。
公文書や郷土史などの歴史的な資料のみならず、人々の細やかな生活の記録や風景などを残そうとすることも、ちゃんとやれば価値のある仕事になりえます。
例えば、スーパーやコンビニなどで日々売られている商品の品揃えや、飲食店が出すメニューなどの写真付きデータを、一定の基準で収集し体系的に整理しながらアーカイブを充実させていくみたいなことをすれば、それは歴史に残る一次資料になりやすいです。
出版されたものや放送されたものであれば、現状の仕組みのままでも後世に残りやすいかもしれません。
対して、音楽、イラスト、ゲーム、グッズ、玩具、広告などは、文化的な価値があっても、ちゃんとデータが残らずに消失してしまうものも少なくないと思います。
もちろん、すべてを残すことは不可能だし、何でも残そうとすればいいわけでもありません。
「アーカイブ」と一口に言っても、「どういう方法で何を残そうとするか」において、見識や賭けが問われることになるし、また、労働集約的な仕事を現実的に行い続ける管理や運用の能力が必要な試みでもあります。
ただ、日常に転がっているようなありふれたものが対象であっても、一定の質と量でアーカイブを行えば、歴史的に価値の高い業績になる可能性があり、そういう意味においては今も目の前に「宝の山」が広がっているということです。
「すごい発見をして、その研究成果で名前を残す」みたいなことをしようとするよりも、地道な収集や保管にリソースを使ったほうが、おそらく、要求される能力に対して、後世から価値を認められる重要な仕事を為しうる期待値は高くなります。
もっとも、先に述べたように、アーカイブはその性質上、個人としての卓越性を示せる仕事にはなりにくく、メリトクラシーとは相性が悪いです。
「丁寧にアーカイブをした」という業績と、「注目に値する発見をした」という業績とでは、野心のある個人が目指したがるのは後者であり、アーカイブの仕事は、他のエッセンシャルワークと同様に、多くの人がその重要性を認めても、自分自身のリソースを費やしてまで携わりたいものにはなりにくいと思います。
現状でもエッセンシャルワークが行われているように、職業として十分な待遇が与えられるならば、アーカイブの仕事に従事してもいいという人はいるかもしれませんが、とはいえ、国家にその重要性を認めさせて公的に支援させるとか、セレブを煽てて金を出させる……みたいなことも、そんなに簡単にはいかないと思います。
大規模なアーカイブ事業を為しうる方法については、一応アイデアがあるのですが、これについては、当チャンネルでいずれ「社会革命の方法」みたいな内容の動画を出すつもりで、その際に説明しようと考えています。
ユーザビリティ
「アーカイブ」に関連して、「ユーザビリティ・アクセシビリティ・ユーティリティ」と言われるような要素も、非常に重要なものと考えます。
単にデータが保管されていることのみならず、それが全体を俯瞰しやすく、必要な情報へアクセスしやすい形で綺麗にまとまっていて、ユーザーインターフェイスなどが快適で利便性が高いことも、実は「科学」の進歩や維持のために軽視できない要素です。
「ユーザビリティ」は「ファクトチェック」とも関連し、カタログなどがちゃんと整備されていて、多くの人が正確な一次資料まで簡単に遡りやすいほうが、より検証が行われやすい(信頼性が担保されやすい)状態であると言えます。
つまり、何らかの重要な情報や研究成果は、「ユーザビリティ」が高い状態で「アーカイブ」されている場合、「ファクトチェック」という観点からも望ましいのですが、しかし、「ユーザビリティ」を高めようとすることもまた、自分自身よりも他人を有利にしようとする「集団のため(豊かさ)」の側の仕事であり、メリトクラシーと相性が悪いです。
正確な一次情報がある場所や、それを正確に参照する方法を知っていることは、専門家の価値を高める技能であり、下手にユーザビリティを向上させると、専門家個人からすれば自らの優位性を手放すことになってしまいます。
「ファクトチェック」や「アーカイブ」などと同様に、「ユーザビリティの向上」は、「モラル」としては行われるのが望ましい仕事であっても、「ルール」においてはそれを行う個人を不利にしやすい性質のものなので、競争(メリトクラシー)の影響力が強いほど、ユーザビリティはむしろ悪い状態が維持されるインセンティブがあることになります。
なお、多くの人が素朴に実感しているように、「市場競争(ビジネス)」においては「ユーザビリティ」がちゃんと評価されることが多いです。
当然ながら、消費者は使い勝手の良いサービスのほうを好ましく思いやすいからです。
企業同士が大規模にシェアを奪い合っているような状況においては、その製品やサービスの「ユーザビリティ」が向上していきやすく、このような点を持ってして「市場競争によって社会が豊かになっていく」と考えられやすいのですが、ただ、何度も説明してきたように、「市場のルール」には「貨幣を稼ぐこと」を目的にせざるをえなくなるという欠点があります。
「科学・学術研究」の発展や継続は、必ずしも市場原理に評価されやすい性質のものではなく、この動画で述べてきた「ファクトチェック」「アーカイブ」「ユーザビリティ」の問題も、マーケットに任せれば解決されるわけではありません。
このチャンネルでは、「科学」がどうとか「市場」がどうというよりは、「集団のため(豊かさ)」が重視されるか「個人のため(正しさ)」が重視されるかで見ていて、「ユーザビリティを良くする(他人を有利にする)」ような仕事は、「集団のため」が重視される状態において可能になると考えています。
このような見方をした上で、専門性の細分化(ローカルの解体)が起こりやすい「科学」は、資本蓄積(大企業)のような「ローカル」が生まれる余地のある「市場」と比べて、より「集団のため」を重視する試みが成立しなくなりやすいことを指摘しています。
科学の進歩のための理想的な環境
「科学の進歩」を促そうとする上でも、「ユーザビリティ・アクセシビリティ」といった要素を軽視すべきではありません。
というよりそもそも、ここまで情報化が進んだ社会において、特定の大学の学部や研究室に入らなければ専門知にアクセスできないような状況が、「科学」において望ましいものとは言いにくいと思います。
「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」「ユーザビリティ」は、科学におけるインフラと言うべき仕事で、それらの充実を目指すならば、例えば、何らかの適性や才能のある人がいたとして、自宅からでも基礎的な内容から最新の知見までを学ぶことができ、検証・整理された一次資料や観測データにアクセス可能で、発表した研究の内容が優れたものであれば受け入れられて評価される……みたいな環境であったほうが、より「科学の進歩」という目的にも適った状態と言えるかもしれません。
理工系・自然科学系の研究においても、観測データの公開性や正確性は不可欠なインフラであり、複数の専門家によってちゃんと検証された一次データが、その実験や計測の手順まで含めてすべてオンライン上で公開され、誰もがそこに簡単にアクセスできて、再検証をしたり研究を進めたりできるほうが、天才的な能力を持った人が才能を発揮できる機会を得やすくもなるわけで、理想を言うならば望ましいです。
もっともここでは、そのような科学にとっての理想的な環境のために各研究者が尽力すべきと主張したいわけではありません。
前の動画などで何度も説明してきたことですが、「自己利益を追求する権利」や「各々の納得感」といった「個人のため(正しさ)」の作用も、決して無視していいものではないとしています。
「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」「ユーザビリティ」といった「集団のため(豊かさ)」に寄与する仕事は、科学の進歩や維持のためには不可欠ですが、だからといって個人がそれにリソースを注ぐことを強制されるような状態は「正しさ」に反すると考えます。
一方で、現状の大学のような場は、「正しいから豊かになるという倒錯」において「正しさ」が強くなりすぎる傾向があり、学問の自由と権利が尊重されてさえいれば科学が進歩していくと考えられていたり、国際的な論文の被引用数や大学ランキングなどの競争が重視されがちなのですが、大学を公的な支援が行われる「国民のため」の場と位置づけるならば、「豊かさ」と「正しさ」のバランスにおいて、もう少し「豊かさ」が評価されるほうに寄せていく必要があると考えています。
この動画の内容のまとめ
最後に、改めてこの動画の内容をまとめます。
「科学」において、各々の研究者が自らの興味関心を追求し、まだ明らかになっていないフロンティアを開拓していくことで人類の「知」が広がっていき、それらが積み上がることで科学が進歩していく……といったイメージが持たれていることが多いかもしれませんが、ここではそれを誤ったものであるとして、現在の「社会」の継続性が危ぶまれているのと同様に、「科学」もまた危機的な状況にあると考えます。
そう考える理由として
際限なく複雑であることが「客観的な事実」の性質であり、「事実」の総量がただ増やされていっても科学が進歩しているとは言えず、成果を積み上げるためには何らかの指向性(価値判断)が必要であること
研究成果の総量が増えるほど、その信頼性や継続性を維持するための「ファクトチェック」や「アーカイブ」のコストも増えていくこと
成果を積み上げるための「価値判断」や、体系を維持するための「ファクトチェック・アーカイブ」などの仕事は、「ローカルな専門家集団」が機能することで成立するが、「正しさ」を重視する「科学」という試みにおいて、「ローカル」の解体が進んでいきやすいこと
を説明してきました。
「科学」の成果を積み上げていくためには、「研究対象の選定」や「研究の善し悪しの評価」を行う「価値判断」が必要で、それは「ローカルな専門家集団」が機能していることで成り立ちます。
また、「客観性・再現性」といった科学の「ルール」がちゃんと守られているかどうかの「ファクトチェック(査読)」も、「ローカルな専門家集団」が行うことになります。
基本的に何らかの研究は、特定の専門分野の課程で専門性を鍛えた研究者が、「ローカルな専門家集団」の規範と信用に基づいて研究を行い、そこで出た何らかの研究成果は、専門家集団の査読や検証を経る(ローカルに組み込まれる)ことで評価が定まり、成果が蓄積されていくという形になっています。
逆に言えば、「ローカルな専門家集団」が機能していなければ、研究を評価する「価値判断」や、「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」などの仕事がちゃんと行われず、研究成果が積み上がって科学が進歩していくこともありません。
実は科学は、その運用において「ローカル」に頼る部分が非常に大きく、例えばビジネスならば、「貨幣を稼げば成功」といった万人に共有しやすい基準があるのに対して、科学の場合は、「何を示せば重要な成果なのか?」「客観性・再現性というルールが守られているか?」といった評価やチェックを専門家でなければ行えないという形で、「ローカルな専門家集団」に多くを頼っています。
しかし、「ローカル」に多くを頼りながらも、「客観的な事実(正しさ)」を追求する「科学」そのものの性質によって「細分化・複雑化」が進み、「ローカル」が勢いよく解体されていきます。
「ローカルな専門家集団」が解体され、他人の専門に口出しできなくなっていくほど、「公開性」が重視されるはずの科学において、「細分化された専門性」という実質的な「閉鎖性」が生まれ、研究成果の善し悪しを「評価」することや、「ルール」がちゃんと守られているかどうかのチェックをすることが難しくなっていきます。
そして、競争(メリトクラシー)の影響力が強まる状況においては、むしろ「評価」や「ルール」が機能しなくなるような「自分だけの専門性」を強めるほうが、研究者個人としては有利になりやすく、「複雑化」を進めるインセンティブが働くことになります。
もっとも、各々が利己的になるから「複雑化」が進むわけでは必ずしもなく、「事実」自体が「複雑」であるがゆえに、「科学」という試みにおいて事実性・客観性に対して真摯に向き合うことで、「雑な見方」「偏った価値判断」「集団に共有しやすい同質性」などの「ローカル」を成立させるための「簡易化」の作用が否定されていき、「複雑化」が進んでいきます。
当チャンネルでは、「豊かさ」と「正しさ」が相反するというモデルで現象を説明しようとしていますが、「科学」は、「普遍的・客観的な事実であること(グローバル)」を志向するゆえに、「ローカル」を否定し、「正しさ」の側に向かっていきやすいです。
一方で、現実的な「科学・学術研究」という試みは、「豊かさ(ローカル)」の土台があることで可能になります。
「大学」などの「ローカル」な場所や、専門分野ごとの「ローカル」がなければ、何らかの研究を評価する「価値判断」や、「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」のような科学の継続性において不可欠な仕事を十分に行うことができません。
つまり、科学を成立させるために必要な「ローカル」は、科学そのものの「グローバル」な性質と相反し、このようにして、「科学」においても「豊かさと正しさの相反」の問題があると考えます。
大学のような場は、かつては「国民のため(ナショナリズム)」といった「ローカル」を強める形で機能していたのですが、戦時中という事情がなくなると、「科学」の「グローバル」な性質によって「リベラルな価値観(正しさ)」が強まっていき、「正しさ」では特定の場が公的に支援される道理がないゆえに苦しくなっていきます。
もしこれから大学のような「学術」を重視する場の復権を試みるならば、例えば、「信頼性の低い成果を次世代に渡すのはモラルのある仕事とは言えない」などの形で「ファクトチェック」や、「情報や知識を後世に引き継ぐことは国家の存続に寄与する仕事である」などの形で「アーカイブ」のような仕事の重要性を位置づけ直し、「個人のため」の競争よりも「集団のため」の仕事にリソースを使おうとするというのが、ひとつの方法であると考えています。
「科学」を重視しさえすれば問題が解決するわけではない
なお、今回の動画は「科学・学術研究」がテーマであり、それを重視するなら、という前提でここまで話してきたことになります。
ただ、実は当チャンネルにおいては、「科学」という方法自体をそこまで万能なものとは見なしていません。
現在は、「客観的な事実を重視する科学的なアプローチによって問題が解決する」という考え方がされがちなのですが、むしろそのような「科学」という方法が重視されすぎていることに問題があるのではないかと、このチャンネルでは考えています。
科学という方法を重視しすぎることに問題があるとして、ではどのようなアプローチをするべきかについては、また機会を改めて別の動画で説明するつもりですが、ここではひとまず、「科学」に限界がある例を出そうと思います。
例えば現在、経済政策をめぐってよく議論が行われています。
そのとき、「科学的(経済学的)に正しい経済政策をすることで全員にとって良い結果がもたらされる」という前提において、「その正しい経済政策は何か?」について議論されることがあるのですが、このような場合、「科学」という方法が過大評価されているところがあると考えます。
「科学」が「全員にとって良い結果」を導けるとは限らず、なぜなら、「事実」とは別に、「利害」が対立しているかもしれないからです。
例えば、経済をインフレにしようとするかデフレにしようとするかは、「経済学的な正解」があるというより、インフレになると得をする人と、デフレになると得をする人がそれぞれいて、両者の利害の対立があります。
これは単純化した見方ではありますが、例えば、資産が少ないがこれから働きやすい若年層であれば、インフレのほうが有利で、資産を切り崩して生活することの多い高齢層であれば、デフレのほうが有利……という傾向があるかもしれません。
このように「利害」が対立していて、どちらかを選べば片方が得をしてもう片方が損をする場合、科学的な方法によって「事実」を明らかにしさえすれば「全員にとって良い結果」がもたらされるということにはなりません。
もっとも、「若年層ならインフレが有利、高齢層ならデフレが有利」という説明のモデル自体が妥当かどうか(事実に則したものかどうか)ならば科学の範疇です。
「利害対立と思われていたものが実は誤解で、両方が得をする解決策がある」という「事実」が、科学的アプローチによって判明する可能性もゼロではないかもしれません。
しかしそれはおそらく稀有な成功例であって、逆に、「しっかりと利害が対立している」という「事実」がより明確になる場合だってあるので、基本的には、「利害」の対立は「事実」の追求によって解決できる性質のものではありません。
そして、利害の対立があるとき、例えば、「あなた個人は損をするかもしれませんが、集団全体のためにその方針に納得してください」というのは、客観的な事実からは演繹できない「価値判断」の問題であり、このような「価値判断」を当チャンネルでは、「正しさ」に反するが「豊かさ」を成立させるもの、と位置づけています。
合理的な個人にとっては不合理な「価値判断」によって「社会」が成立している以上、「科学」によって「事実」が明らかになっていけば物事がうまく行くわけではなく、それどころかむしろ「社会」の維持が難しくなっていきます。
もちろん、何らかの「価値判断」を集団的に行う上で、「事実」はその前提になるものでもあり、科学的な方法が不必要なわけでは決してないのですが、「科学的であれば問題が解決する」とは言えないということです。
「どのようなモデルであれば、物理現象(あるいは経済現象など)をより正確に説明できるか?」といった目的であれば、万人が納得する「事実」を追求することができるかもしれませんが、「どのような経済政策を行うべきか?」などの「利害」が対立している問題の場合は、「事実」を説明するモデルの精度が上がれば問題がうまく解決されるというわけでもなく、むしろ「事実」が明らかになるほど「利害」が浮き彫りになって「協力」し合えなくなっていくかもしれません。
今の世の中では、人文学のような実証性の低い領域は、ハードサイエンスなどと比べて知的な信用が低いと見られることが多いと思いますが、「利害の対立があるなかでどうやって他者と対話をし、社会を形成していくか」といったような、「科学」では必ずしも解決できない問題を扱おうとしている側面もあります。
そして、「平和な社会が維持される」とか「人口の再生産が行われる」などは、その土台がなければ科学や学問自体が不可能になるという点では、より根底にあるテーマと言うこともでき、そのような点において、人文学は過小評価されていて、「科学」はむしろそのパフォーマンスに対して過大評価されているようなところがあるかもしれません。
別の言い方をするなら、人文学は「科学」であろうとすることでもともとの力を失っているということであり、これに関してはまた別の動画で説明するつもりです。
今回の動画は、「科学・学術研究」をテーマにしていて、大学のような場を「科学」のためのものとして立て直すならばどうすればいいかという話もしてきたのですが、ただそもそも、「大学」で「科学」が重視されるべきかについても議論の余地があるとは思います。
「大学」というものにも変遷があり、「アカデミア」の由来になったプラトンの学園、中世ヨーロッパにおける都市横断的な「大学」、「アカデミー」のような実学的な専門教育が重視される場、ナショナリズムを背景にした近代的な学術機関としての「大学」など、一口に「大学」と言ってもバリエーションは豊富で、今の我々がイメージするような「科学・学術研究」が常に重視されてきたわけでもありません。
また、現在の「大学」にしても、「科学」や「学術研究」のための機関かというと必ずしもそう言えるわけではなく、実質的に「選別」のためのものになっていたり、様々な形の「教育」が行われる場であったり、「共同体」という側面を持つものだったりもします。
長くなったので今回はここまでにしますが、次回の動画では「大学」というテーマについて、もう少し深堀りして論じたいと思います。
まとめ【「科学」も「ローカル」を頼る】
「科学・学術研究」においても、「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」のような「集団のため」の仕事と、研究者個人として成果を認められようとする「個人のため」の仕事があると考える。
「正しいから豊かになると考えるような倒錯」において、「各々の研究者が自分自身の研究成果を求めて発見を積み重ねていくことで科学が進歩する」と思われがちだが、「集団のため」の仕事にリソースが使われなくなると、「科学」の信頼性や継続性が失われていく。
「再現性の危機」と言われる問題があり、多くの学術研究において、「ファクトチェック(査読)」はそこまで厳密に行われず、「再現性」というルールが守られていないことがある。
「グローバル」な公開性が重視されると一般に思われがちな「学術研究」においても、「ローカル」は不可欠であり、研究の評価や査読は「ローカルな専門家集団」に頼って行われる。
「職業的専門性」と比較して「学術的専門性」は、「細分化・複雑化」が進みやすく、より「ローカル」が解体されていきやすい。
「科学・学術研究」は、「研究の善し悪しの評価」や「ルールが守られているかのチェック」を専門家でなければ行うことができず、「ローカル」に多くを頼らざるをえないが、「客観的な事実(正しさ)」を追求する「科学」自体の性質によって「ローカル」が勢いよく切り崩されてしまう。
まとめ【事実(正しさ)と価値判断(豊かさ)】
「豊かさと正しさの相反」の枠組みにおいて、「客観的な事実」が「正しさ(ブレーキ)」になり、「価値判断」は「豊かさ(アクセル)」になる。
「厳密さ・確かさ・客観性」を追求することは「正しい」が、その作用によって、「人間にとって都合の良い見方や価値判断をすること・雑にわかりやすくすること」といった「豊かさ(簡易化)」の作用が否定され、このような事情を「豊かさと正しさの相反」と説明する。
一切の「簡易化(価値判断)」を介さない「客観的な事実(正しさ)」は、際限なく「複雑化」するものであるがゆえに「ブレーキ」になり、対して、「ブレーキ(複雑化)」に反する「アクセル(簡易化)」を機能させなければ、現実的に何らかの試みを行うことができない。
まとめ【「ローカル」が切り崩されていくという問題】
日本の近代的な「大学」は、「国民のため」にリソースを集中させる性質を持っていたが、戦時中などのナショナリズムを強める事情がなくなると、「科学」それ自体の性質によって「学問の自由や多様性(正しさ)」が重視されるようになり、しかし、であるがゆえに大学は公的に支援される場であることの正当性を失っていく。
「ローカル」が弱まるほど、研究の善し悪しを評価する「価値判断」が機能しなくなるが、そのような「特定の価値判断をするべきでない」という状況において、旧来的な社会で不利だった「マイノリティ」や「女性」が、過去に不利な「価値判断」をされてきたという理由によって優遇されやすくなっていく。
専門性の細分化によって「ローカル」の解体が進むと、研究の評価やファクトチェックが難しくなっていくが、まさにそのような「他人が口出しできない、自分だけの専門性」である状態は研究者個人にとっては有利であり、しかし、そうやって「ローカル」が切り崩され専門家同士で共有できるものがなくなったあとで行われる、各々が自分の研究の重要性を主張し合うような競争は、過酷かつ不毛なものになりやすい。
「理系・文系」という区分において、「観測」に整合しないモデルを棄却できる「理系」のほうがまだ「ローカル」が維持されやすく、「歴史」に影響を与えた論を無視できない「文系」のほうが「ローカル」の解体が進みやすい。
科学においては、「科学者になるためには優秀さが必要であり、優秀な人間だから信用できる」と考えられがちであるのに対して、ここでは、「ローカル」が解体されて「個人」になり、評価やチェックが行われにくい状態になれば信頼性が下がると考える。
まとめ【「メリトクラシー」では「集団の協力」を維持できない】
現在は、「正しさ」において「ローカル」が解体されていきやすい「大学」よりも、「資本蓄積」という「ローカル」が成立する「企業」のほうが、まだ「協力」して研究を行いやすい場になっている側面があるが、しかし企業には、市場のルールに評価される(貨幣を稼げる)研究しか行えないという問題がある。
大学という場は、メリトクラシー的な正当性によって成立していると考えられがちだが、メリトクラシーが徹底されると「優秀な者だから支援されるべき」とさえ思われなくなっていく。
これから「大学」の正当性を位置づけ直すならば、むしろ「国民のため」を再評価することが必要で、市場には評価されにくいが国家や国民にとって重要な仕事(研究開発・ファクトチェック・アーカイブなど)を意識する必要がある。
まとめ【「ファクトチェック」「アーカイブ」「ユーザビリティ」の重要性】
「教育」「ファクトチェック」と並んで、「アーカイブ」は、科学におけるインフラとも言うべき重要な仕事である。しかし「アーカイブ」は、新しい発見ではないので学術研究のルールには評価されにくく、また、大規模に人手を使う労働集約的な仕事になりやすいので、「記憶や歴史を次世代に引き継ぐことは国家の継続性にとって重要なこと」といったナショナリズムに頼らなければ、現実的に行うのは難しい。
「科学」において、今からできることで後世の人たちの恩恵になりやすいのは、各々が自己実現のために成果を競い合うことではなく、科学の信頼性や継続性を高める「ファクトチェック」や「アーカイブ」の仕事を重視することだが、しかし、そのような「集団のため」の仕事を現存の研究者に強制するのは「学問の自由や多様性(正しさ)」に反し、このようにして「科学」において「豊かさと正しさが相反」していると考える。
「ユーザビリティ」も、「アーカイブ」や「ファクトチェック」に関連し、「集団のため」に必要な仕事だが、専門家として優位に立ちたい個人からすれば、ユーザビリティが向上すると自身の優位性が失われやすく、競争(メリトクラシー)が過剰な状態においてユーザビリティはむしろ悪い状態が維持されやすい。
まとめ【大学の役割・科学の限界】
「教育」「ファクトチェック」「アーカイブ」「ユーザビリティ」は、科学におけるインフラ整備と言えるような仕事であり、長期的な科学の進歩・発展を目的とする上でもそれらが重視されるのが望ましいが、一方で、各個人の自由や権利を否定してまで「集団のため」に尽力させるわけにはいかない。
もっとも、「正しさ」の過剰によって全体が破綻しそうな現状に対して、大学のような場を「集団のため」のものとして再建するためには、個人の成果を競う競争よりは、集団に寄与する仕事を高く評価しようとする必要がある。
今回は「科学・学術研究」をテーマにしてきたが、「事実」を追求する「科学」という方法自体に限界があり、例えば、「利害」が対立しているという問題は「事実」を明らかにしても解決するわけではない。
「大学」にしても、必ずしも「科学・学術研究」が重視される場であるとは限らず、「大学」の問題については次回の動画で論じる。
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