LGBTQs、同性愛(の人たち)について、おもうこと
まず何でnoteを始めたかと言うと、こういう「考えてること」を書き始めると、Twitterではずらららららららららららーっといくつもツイートを連ねることになるからです。
要するに「俺の話は長い」と宣言しました。今。
私は生まれた時の性別、現在の戸籍、身体、性自認、全てが「女」で異性愛者の所謂「大多数」です。
身近にLGBTQsの方がいたことも過去にあり、特にそういう方々への嫌悪感も違和感も、逆に特別感もありません。
例えば親しい友人に「私は同性愛者だ」と告白されても「おお、そうか」ってぐらいのリアクションしか返せません。
特別扱いは私に求めないでほしいし、多分「当事者」と呼ばれる方々はそんな扱いは求めていないと思う。
大多数として生きていて、今時の、駅などの外のトイレの表示を赤と青でなくすとか、そういうのは何だ、困る。あの話進んでるのかね。
私は目が悪いので(メガネをかけて0.9とかその程度。度が合ってないのね)、遠目では男子トイレか女子トイレかというのは色で判別しているのだ。
身体は男性だが性自認が女性なので、女子トイレに入りたい、その気持ちはわかる。私が「男子トイレには入りたくないんだが?」と思うのと同じだろう。
しかし年頃の娘がいてもおかしくない年代として、もしLGBTQsであると騙って女子トイレに入ろうとする輩がいないとは言い切れない。もしそういうのが本当にいたとして、中にいた、もしくは後から入ってきた女性が何からの被害に遭ったら?
もしくは身体は女性だが性自認が男性で、男子トイレに入ったところを加害されたら?
(勿論どちらのパターンも、数は少ないが男性が被害者になるパターンもあるだろう)
そう思うと、性自認に合わせてその性に合ったトイレを利用可能にするというのだけはどうも頷けないでいる。
ベストとはいかずとも、ベターなのは、男子トイレも全て女子トイレのように個室にしてしまうことだと思うんだけれど。
余談になるけれど、女子トイレはキレイだと思っている男性って今でもいるんでしょうか。
外ではショッピングモールや大きな駅、コンサートホールなどの掃除が行き届いているトイレしか使わない私でも、脱ぎ捨てられたストッキングとおそらく履き替えたストッキングの抜け殻(勿論ゴミ箱には入ってない)、スタバの飲み残し、大きい方を流し忘れた(not「流れ損ねた」)便器などなど、いろんなモンとこんにちはしてきましたけれどね。
閑話休題。
婚姻に関して言えば、「同性婚を認めると出生率が下がる」とか言われているらしいですが、異性に性欲持たない人が異性と結婚して子供を作ろうと思うか?ってことですよ。
例えばあなた、ハンバーグがどうしても食べたい!って時に、寿司屋とか蕎麦屋とか勧められても、「そういう気分じゃないんだよ」ってなりません?
中日ドラゴンズのグッズが欲しい時に「日ハムのグッズどう?うちの監督ビッグボスよ!!」って言われても「要らんがな」ってなりません?
食べたいのはハンバーグ!欲しいのはドラゴンズのグッズ!他のは関係ない!
そもそも結婚とは、子供を作るための制度なのか?
私は親も親戚も小うるさいことを言わなかったのと、そもそもモテというものから縁遠かった故にいい歳して独り身子なしだが、年頃の時にテキトー(悪い意味の方)な同年代の男あてがわれたとしても、子供を作ろうとは思わなかったろうし、相手もそうだろう。
異性愛者が異性をあてがわれたとしてもこの感覚なのだ、同性愛者が愛してもいない異性と無理矢理結婚したとして、子供を産み(産ませ)育てようと思うとは到底思えないのだ。
(産ませるという言い方は嫌いなのだが、産んでもらうというのも微妙に違う気がするので、今回はあえてこの言い方をすることをご了承願いたい)
勿論無理矢理、自分の気持ちや嫌悪感にギッチリと蓋をして、子供を作って産んで(もしくは産まれて)、育てようとしたとて、「無理」がどこかに入っている限り、結構な確率で機能不全家庭になってしまわないか?と思う。
そりゃまあ…世界のみんなが私みたいにどこか欠けてる人ばかりではないから、自分の性愛対象ではない配偶者を愛して、子供を愛して育て上げ、「幸せな家族」を作れる可能性だって低くなくあるだろうけれど。
そもそも。(2度目)
同性を愛することの何がおかしいのだろう?と。
異性愛者が異性を好きになるのと同じで、同性愛者は同性を好きになる。
ざっくり言えばそれだけのことだし、細かく言えば、異性愛者の男性が「他の女性ではない、ただこの人ひとり」を愛するように、同性愛者の人だって「他の同性の誰でもない、この人が好きだ、大切にしたい」ってなるんじゃないの?
「人が人を愛する」
それに関して、異性愛同性愛何が違う?私にゃ違いがわからんな。
勿論、LGBTQsの方々を嫌悪する人がいるのはわかっているし、嫌悪する自由はあると思う。それを理由に相手を侮辱したり差別したり攻撃しなければ。
理想論なのかもしれないけれど、人の地位?はフラットであるべきなんだと思う。犯罪を犯さない限りは。
(性善説で語れない人についてはまた後日書こうと思います)
何が正しい、何が間違えている。
何が普通、何がおかしい。
どちらが上、どちらが下。
そんなのクソ喰らえですよ。
異性愛が正しく、同性愛が間違えている。それは何故?
ただ異性愛の人が多いだけじゃん。多いから正しく見えているだけ。多い方に従えっていうのも随分乱暴な話だ、もう21世紀になって20年以上経つと言うのに。
多数決が全てではない。少数派も同様に権利を認められるべきなんだ。一緒の時代に生きているのだから。
私たち異性愛者にとって普通のこと──例えば婚姻届を提出し、夫婦と公的に認められること、ただそれだけの、本当に本当に普通のことを求めているだけなのだ。
何か特別なことをしてくれと言っているわけではない、「正式な婚姻関係にある」と、それだけのことを何故認められない?
子孫を残すことができないから?それなら、病気などで子供を作れない夫婦は?金銭的な理由で子供を持てない夫婦は?ライフプランに子供を含まない夫婦は?
それでも異性愛者は婚姻を許され、同性愛者は婚姻を許されない。
私のような生涯独身者は?結婚もせず、子供を産むことも、産ませることもなかった人たちは?
子孫を残すことができない、その条件で言えば同じじゃないか。
なのに、やはり異性愛者は「縁がなかったんだね」ぐらいで済まされ(それ以外の理由もあるでしょうが)、同性愛者は下手すれば白眼視される。
こころは誰にも変えられない。人為的に作るものではないからだ。
なのに、作られたものではない自然のものなのに、彼ら彼女らに許されないことが大きすぎないか。
もう少し、何の咎もない人の権利というものを認められはしないのか、この国は。
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