日報:2019年8月21日 根性論の話

所用で大和郡山へ。
「図に書いて説明するのとてもわかりやすいですね」とほめてもらう。

書くことがないので、今日は「根性論」の話をする。

私は、誤解を恐れずに言うと「根性論」を否定しない。

考え方が古いのかもしれない。しかし私は「根性論」で育ってきたしそれで生きてきていた。でも大好きな人はまだまだ多いのではないだろうか。

「根性」は「我慢すること」と似ているしむしろ同じともいえる。

学校の授業を我慢して出れば、バイトを我慢して続ければ………誰かから指図されたことや与えられた環境に対し、我慢して続ければ(がんばれば)、自分の願いは叶うかもしれない。
私は「他人様に合わせなさい」と言われて育っているので、余計にそういうフシがあったし、合わせられるようにならなければと必死だった。

必死に頑張って、中学卒業後の進路は、養護学校ではなく高専に行けた。

しかし、そういった「考えなしにひたすら耐え続ける根性論」はあまり意味がないのである。はっきり言って何も生み出さない。
特に学校に行っている間は「勉強を頑張ればいい」「部活を頑張ればいい」ので、そこに気づかない。

正しい「根性論」とは、具体的な目標があって、やりたいことがある。その過程をこなすことを耐えることである。
その中に「戦略」があったほうがいいが、それはもう「根性論」と別の話になるので割愛する。根性論は精神論だからだ。

Twitterでカッとして「やりたいことがあるんだったら歯を食いしばってがんばれよ」と言ったことがある。

正しい「根性論」を実践するならこの主張は間違ってはいない。
とはいえ、この主張は両刃の剣で、「根性論」は正しかろうが、間違っていようが、精神に大変負荷がかかる。相手によっては励ましにならず傷つけてしまうのである。

私は「根性論」で生きてきたと自負していたけれど、実は「考えなしにひたすら耐え続ける根性論」をやっていたんだと本稿を書いて気づいた。
それは、歳をとってしまい、精神に負荷がかかる「根性論」を実践できなくなってきたのである。

ただ正しい「根性論」はまだまだ実践したいと思っている。そうでないとしぶとさが身につかないからね。

(補足:酷暑の中でスポーツの練習、イジメなど、どう見ても明らかに心身と生命に関わる事案については、根性論を当てはめてはならない)




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