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新しく、知らない場所に参加しているということについて
1.暇になるということ
最近、「ワクワク」するをテーマに生活できればなと思っていました。
「ワクワク」という言葉自体は、啓発系の文脈で使われているイメージもありますので、ちょっとニュアンス的にどうかなとも思いますが。
ワクワクとは、言い換えてみれば、好奇心が湧くとか、楽しい気分になるみたいなことでしょうか。
こんなことを考えている僕ですが、数か月前まではこんなことを考える余裕もなく、日々を生きておりました。
伝わる方には伝わると思いますが、「予定がないからと言って暇だということにはならない」ということですね。
暇になるというのも、ある種の健全さが内包されているのかもしれません。
2.僕は一体、何でワクワクするのか。
さて、自分が一体、何でワクワクするのかを考えていました。
それはきっと「人と会う」「人とかかわる」ことなんだろうと思っています。
もちろん、「人と会うこと」がワクワクする人もいれば、できれば避けたいと思う人、どちらでもない人がいることは承知しています。
そこには、いわゆるそれぞれの価値観みたいなのがあると思いますので、わくわくするものを可視化や言語化してみることも、自分への気づきを助ける上でいいのかもしれません。
さて、僕はこれまで生きてきた経験から、大体調子がいい時は人と話が「ワハハ」と言っているイメージがあります。
それとは逆に調子が悪い時は一人で黙々と考え続けているイメージがあります。
もっとも、本当に調子が悪い時に、むやみに調子が良い状態に戻ろうとすると辛いので、そこは自己観察が必要だなと思います。
なんにせよ、暇になるということは良い兆候で、その兆候をうまく生かしていきたいと思うようになりました。
3.どうして人と話すとワクワクするのか
僕はワクワクというのは、「未知で不確かなもの」にあると思いました。
例えば、まだ行ったことがない旅行先のことを考えればワクワクしますし、
勉強していて、これまで全く知らない分野に出会った時もワクワクします。
しかし、「未知で不確かなもの」には、ワクワクだけでなく「不安や心配」といった感情も含まれているように思えます。
例えば、旅行先で急にケガをしたらどうしよう。とか
知らない土地で交通機関の乗り換えができるだろうか。とか
今までやったことがない、知らないことにはそういった感情が伴うのは、よくあることではないでしょうか?
ですから、僕が人と話してワクワクするというのは、
他人というものに、「未知で不確かなもの」が含まれているからだと思います。
ですので、見知った人や友人といるときは、「未知で不確かさ」が少ないので、安心するという感情が湧くかもしれません。
4.未知で不確かな他人
やはり、他人は「未知で不確かなもの」であるかと思います。
初対面の時に人に話しかけるのは、やはりドキドキします。
僕が高校1年生になり、初めてのクラスで横に座っていたクラスメイトに話しかけたことは、いまだによく覚えています。
クラスメイトに、くそまじめな敬語で話しかけたのをよく覚えています。笑
そのクラスメイトとはなんだかんだ仲良くなって、一緒に部活を立ち上げたり、プレゼンテーションの大会に出たりとかしました。
大学生になっても、そういうところは変わらず、
僕は中学と高校で、ガンダムのオタクを引きずっていたので、
同じ学部でグループの人に、大学でガンダムの話をなぜかしていた記憶があります。
その人ともなんだかんだウマがあって、今に至るまで交流があります。
僕たちが、初対面の人に話しかけることにドキドキしてしまうのは、
もしかしたら、話が合うかもしれないし、もしかしたら、まったく気が合わないかもしれない。
そういう可能性が、含まれているからだと思います。
その上で、人付き合いでうまくいかなくなると、人と話すのが怖くなったり億劫になるのは、ある程度自然なことだと思います。
やはり、他人は「未知で不確かなもの」ですので、自分がどのように行為したとしても、思い通りにならないことや手のひらを返されるようなことも、それもよくあることです。
それでも、僕にとって他人というものがワクワクさせてくれるということは、僕自身の中に人とのかかわりに「価値」があると感じているからだと思います。
僕はそういう人とのかかわりの中で生きるほうが、きっとトータル的には好ましいんだろうなと自覚しています。
4.最近について
さて、最近はようやく暇になったので、地元で開かれているイベントをインターネットで調べるようになりました。
講演とかお祭りのようなものより、なんかよくわからないけど人と交流出来たり、話したりできそうなところを探します。
つい、最近も「哲学カフェ」に参加をしてみました。
かねてから哲学は好きでしたので、漠然と興味はあったのですが、行けずにいました。
なんで、行かなかったんでしょうね。コロナかなあ?
参加をしてみると、様々な人がいて、とても心地よいです。
でも、この年になって、人と話すのも特段意識しなくてもいけるだろうと思っていましたが、知らない場所で知らない人たちと初対面で話すというのは、色々な感情が湧いたり、自分の行動に出るんだなと思いました。
その感情がどうのこうのとか、行動がどうのこうのとかよりも、そういう反応が自分のうちに生まれるのが面白いなと思っています。
あの時、こうすればよかったなあ、とか思ったりしているのが、
非常に人間ぽくて、そういうことを考えていることに気が付くこと自体が面白いのです。
5.習慣と挑戦
最後に紹介できればと思う言葉があります。
それが、「コンフォートゾーン」と「チャレンジゾーン」です。
コンフォートゾーンは自分にとって居心地がよい領域のことです。
チャレンジゾーンは自分によってちょうどいい刺激がある領域のことです。
別の記事でも、習慣について書きましたけれど、
安心できる領域というのは、習慣化しているような、いつもやっていることも含まれると思います。
一方、自分にとってちょうどいい刺激がある領域というのは、いつもやっていないことが含まれます。
つまり、「未知で不確かなもの」です。
「未知で不確かなもの」を受け入れるためには、自分にとっての「コンフォートゾーン」を育んでいくといいのかなと思いました。
いずれそういう記事も書きたいですね。
6.スケッチについて
被災地居場所「スケッチ」は、誰かにとって、ちょっとだけチャレンジだけど、安心もあるようなそんな場所にならないかなあと思っています。
これは僕の体験談なんですけれど、
痛烈な出来事が合って人と話すのが嫌になってしまったり、
仕事ばかりやっていて仕事以外のコミュニティがなくなってしまったり、
一人で生活していていざ誰かと話をしたくてもそういう場所がなかったり、
そういう生きていれば、どこかで出会う人生のタイミングに、こういう場所があったらいいなあと常々思っています。
あおし