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宗教2世とマインドコントロール

宗教2世の問題を扱っていると「宗教2世のマインドコントロールはどうしたらよいのか」「宗教2世はより強いマインドコントロール(洗脳)にかかっているのでは」などなど、いろいろ言われることがあります。

ただし、そういったことを言う人が必ずしもマインドコントロールの定義について詳しいわけでも、宗教2世問題に対する理解があるわけでもありません。また宗教2世の専門家を自認する人ですら、マインドコントロールを乱用したりするケースもあるため、逆に宗教2世支援を阻害する可能性もあると感じています。そこで、このマインドコントロールというものと宗教2世の問題をそれぞれ一度整理してみましょう。

マインドコントロールとは

そもそも論ですが、この「マインドコントロール」という言葉が厄介です。カルト問題に関わる方でさえ、定義にかなりのばらつきがあるからです。ジャーナリスト、弁護士、精神科医、一部の社会心理学者が使うケースが多いのですが、よくよく話を聞くとかなり温度差があります。

このようなことが多いため、マインドコントロールの話が出てくると、その人は何を意味して言っているのかをまず確認しなければならないことも多々あります。定義が必ずしも安定していないのです。

例えばカルト対策の弁護士が使う場合は、内心というよりは行為の方を中心に考えるようです。これを「広義のマインドコントロール」としましょう。

しかし、これはマインドコントロール、もしくはカルトマインドコントロールというものが最初に主張されたものとかなり異なります。当初はカルトの教祖などに信者の心(内心)が操られるメカニズム的な意味で使われていました。これを「狭義のマインドコントロール」としましょう。

特に有名なのは、元統一教会信者で脱会カウンセラー若しくはマインドコントロールの専門家として現在も活躍されているスティーブ・ハッサンの「マインドコントロールの恐怖」という書籍でしょう。

この書籍ではそのメカニズムを次のように説明します。

①解凍
現状を理解するための思考の枠組みを揺さぶり破壊し、それまでの人格を崩壊させる。

②変革
新しい行動と思考と感情のセット、または人格をそれまでの崩壊させた人格の空白に当てはめる。

③再凍結
新しい人格を固定化させるため、新しい目的と活動に従事させる。

つまりマインドコントロールとは本来の意味では、「人格の意図的な入れ替え」を指す用語として使用されてきたという経緯があります。

これら内心のメカニズムの説明にはビリーフシステムなどを使う者もいますし、また一般の詐欺など、人を騙すテクニックとの違いについて「破壊的カルトに限定すべき」としているようです。なお、この「破壊的カルト」なる用語は、マインドコントロールを行う団体を指すとされています。

この用語が生み出された背景も理解しておく必要があるでしょう。

この用語が多用される背景として、いわゆるカルト団体に反対する信者の家族が、自分の子どもや配偶者が人格が変わったと思えるほどの言動の変化があった、と考えたことがスタートになっています。

そして、彼らを救い出す理由の一つとして、教団側が人格を変える心理学的なテクニックを弄しているという説明が強い説得力を持ち、信者である子どもたちや配偶者に対して「信教の自由」の原則を無視してでも介入できるという根拠になったということがあります。つまり信者は信教の自由で信じているのでなく、人格を入れ替えられて「マインドがコントロール」されているので、その状態から救い出すというのです。

さらに、その際に使われた脱会のためのアプローチとまた脱会した信者への説明、またその説明を受け入れた元信者によって、非常にリアルなものとしてマインドコントロールという用語は受け入れられてきました。

その後、マスコミなどでも頻繁に使われるようになったこの言葉は、かなり本来の意味を離れ、心理操作されていると主張する際の便利な(しかし定義ははっきりしない)言葉として使われている、これが広義の意味でのマインドコントロールと思います。

洗脳とは

もう一つ乱用されている用語に「洗脳」があります。極端な話、マインドコントロールとほぼ区別なく使用されているので、元来の意味はもはや失われているのではないかと思えるほどです。

これは、もともとは中国語の「洗脑/洗腦」が元になっているもので、どうも中国共産党では、そのような言葉を使うこともあったようです。

この中国語が、朝鮮戦争で捕虜になった米兵からアメリカに伝わり、中国共産党が使っていた洗脑/洗腦を直訳した「brainwashing」から、ジャーナリストのエドワード・ハンターが、共産主義の脅威として紹介したことが始まりです。

心理学者のロバート・J・リフトンは、朝鮮戦争で中国の捕虜となっていた米兵への調査を行い、そこで行われた手法を次のように説明しました。

  1. 環境のコントロール

  2. 密かな操作

  3. 告白儀式

  4. 純粋性の要求

  5. 「聖なる科学」

  6. 教義の優先

  7. 特殊用語の詰め込み

  8. 存在権の配分

ただし、その効果については懐疑的で、洗脳が強い影響を持つとは思っていなかったようです。

現代では、物理的な強制力を伴った心理操作を「洗脳」と呼ぶとされていますが、冒頭に書いたように、いわゆる心理操作全般を指す言葉として使われることも多く、ほぼマインドコントロールと同義として使われることも珍しくありません。

マインドコントロールを唱える人も知ってか、知らずか混同して使うことが多いように思います。しかし両者は出自も状況も違うもので、本来なら厳密に区別すべきものでしょう。

マインドコントロールの問題点

このマインドコントロールという言葉は、いくつか問題が指摘されています。

まず定義の段階で論理的な矛盾を抱えているという問題があります。マインドコントロールとは、「破壊的カルトの行なう心理的な操作であり、破壊的カルトに限定すべき」という定義がある一方、破壊的カルトの定義は「マインドコントロールを行う団体」とされています。これではお互いの用語がお互いの定義に依拠してしまいます。ある種の循環論法のような状況が起こるのです。

もう一つは、そのマインドコントロールを実施する者の行為・目的・動機はすべて推測だということです。よく見られる説明では、マインドコントロールを行う主体(教祖や教団幹部など)は、心理学のテクニックに習熟し、最初から騙していることがわかっていて、狙ってそれを使うという説明がなされることもありますが、その根拠は皆無です。もちろんそれを否定するわけではないですが、そうでない可能性も十分にあります。仮に偽りが多く含まれているとしても、教祖や幹部などいわゆるマインドコントロールをするとされる者たちも、自分たちも信じきって同じ行為をしている可能性があるのです。

さらに実証研究で見られる偏りも指摘されています。マインドコントロールがあるという根拠に、説得してやめさせた元信者を使うということが行われることがほとんどですが、そうなるとその人たちは最初から「マインドコントロールされていた」ということを受け入れているわけですから、少なくともマインドコントロールがあることを証明するサンプルとして意味がないでしょう。最初からマインドコントロールがあるという人を使うサンプルの偏りがあるので、実証的な根拠にならないのです。

もちろん、教祖や幹部や現役信者を客観的に対象として研究する手段がないという事情のため致し方ない点もありますが、この点はマインドコントロールという考えの正当性に疑問を持たせる弱点にもなっています。

そして、それらマインドコントロールしているとされる団体側の反論にも一定の理を与える結果となっていますし、その論争がいわば「されている」「されていない」の水掛け論的なものにもなりやすいのです。ですので「マインドコントロールされていると誰が証明するのか」という、おなじみの議論になります。

さらに言うと、そもそもマインドコントロールされている状態が仮説的な憶測で構成されているので、マインドコントロールが解けるという状態も同じような説明に終始しがちです。

いわゆるカルトの影響から脱するときに、そのゴール設定が曖昧なものになりがちです。マインドコントロールが解けたと判断するのが、ごく一部の人が行う客観的な指標もない一人よがりな憶測でなされているのが現状と思います。

さらに広義の使用法の場合も問題があります。広義ゆえ、意味がさらに曖昧になるのです。ゆえに法的な問題で使えるのか、誰が判断するのか、その判断は正当か、個人の内心に立ち入ることにならないのか、多くの疑問が投げかけられています。

宗教2世問題に適切な用語か

仮にマインドコントロールという言葉がいわゆる1世信者の状態に対する適切な解釈として、それが宗教2世に直ちに使えるものなのでしょうか。

先にも説明しましたように、あくまで「破壊的カルトに帰依する前の状態から、熱烈な信者に変化する理由の説明」として使われていたのが前述のマインドコントロールです。

ところが、宗教2世の場合、そもそも帰依する前が存在しません。そのままストレートに用いることは、違和感を覚えます。

また、マインドコントロールという言葉が使われた背景もかなり異なります。マインドコントロールという用語は、先に紹介したとおり、カルト問題が表面化した際に、その信者家族からの信者になった子どもや配偶者の状態を説明するために使われたという経緯があります。これらの人々は宗教2世の存在は想定外であったのです。

現状、多くのカルトでは次世代の継承が必ずしもうまくいっているわけではありません。多くの宗教2世は結局彼らの信仰を捨て去ります。このことも、マインドコントロールという考えに疑問を抱かせるものになっています。

さらに付け加えると宗教2世支援という立場から、このマインドコントロールという概念はあまり役に立ちません。もちろんカルトから脱する時の説明としては一定の意味がないわけではありませんが、その後課題に対応する際には、逆に害にさえなっているのが現状です。例えば、宗教2世支援を実践する人が「マインドコントロールは一生解けないという人もいます」と話されるのを公共の電波で見ましたが、これではきちんとした支援は難しいでしょう。むしろ、無力感を植え付けたり、今後の改題対応への諦めや絶望させる危険すらあります。

先にも言ったように、マインドコントロールの定義がかなりあいまいで、しかもそれが宗教2世にあっているかもはっきりしない、だがその影響力を誇大に語ることによって、本来焦点を当てるべき課題を覆い隠す危険性もあるのです。

宗教2世問題を理解するのに必要な概念

筆者は、今までの支援の経験から、宗教2世の問題をとらえるための用語は、既存の用語でも十分と思っています。

というのは、宗教2世問題は結局のところ複合問題であり、分解すれば多くの社会問題の集積に過ぎないからです。カルトという存在によって、一見複雑な様相を呈していますが、きちんと一つひとつ整理してみるならば既存の用語でも十分に説明でき、特に「マインドコントロール(あるいは洗脳)」のような揺らぎが強く、副作用も大きい言葉を使う必要はないと考えます。

今まで「マインドコントロール」で説明されてきたことがらも「誤った教育」と「不適切な状況」という、何か身もふたもないような、ごく普通の言葉だけで十分に説明できるのではと思います。

「誤った教育」とは何か

「誤った教育」と聞くと「ごくごく普通の言葉ではないか、勝手に言っているだけでは」と思われるかもしれません。しかし、これは別に私のオリジナルなものではありません。マインドコントロールという用語について、ある心理学者は「それは結局『教育』の言いかえに過ぎない」と述べていますが、このような考えは当初からあるもので、特に珍しいものではありません。もう少し具体的に見てきましょう。

教育とは何か

教育とは、教育学では「意図的(計画的)な社会化」とされます。我々人間がヒトから人間になるためにはこの社会化が必要・・・と、人文社会科学の中で最初に教えられることですが、この社会化に必要なのが「教育」になるわけです。それは家庭教育もそうでしょうし、学校教育、職業教育、生涯教育など、さまざまな場面で「社会化」するために行われています。

当然、いわゆるカルト団体も教育を行いますし、彼ら自身も彼らの信者に行なっていることを「心理操作」ではなく「教育」と呼びます。ただし、その教育のいくつかは社会と対立するものであり、あるいは信者、特にこれから社会化していく子どもたちの社会化を大きく阻害するものとなっています。

なぜそうなるかも、教育の概念で十分説明できます。彼らの描く社会、あるいは信者に対して自分たち(あるいは自分たちの神など)が作り出し、信者が順応すべき社会そのものが一般社会と異なるのです。彼らの中にある一般社会から切り離された社会への意図的な社会化(教育)。これが多くの問題を招くと考えられます。

さらに一般社会に対するゆがんだ評価。あるいは否定も彼らの歪んだ教育に拍車をかけます。多くのカルト団体は、一般社会を否定的もしくは敵対的にみます。自分たち神の側とサタンの側の社会など、対立する相手として捉えることも少なくありません。そのため信者と社会との間に壁を作ったり、隔離することもよくなされています。構造的に軋轢が生まれるようになっているのです。

また自分たちの行為が社会の常識を超えた超法規的なものとされると、反社会的行為を正当化することもよくあることです。ある場合は詐欺的な不正、虐待、搾取、虚偽と隠蔽、さらに極端になると傷害から殺人に至るまで正当化することすらあります。これら行為をさせることも「教育」としてなされることもあります。

「誤った教育」を使う利点

その教育の隠された目的はいろいろでしょう。もしかしたら教祖の金銭・権力・性的欲求を満たすことが目的なのかもしれません。多くのカルト教祖がそのような事柄を追求していたのは研究によって明らかになっています。ただし、それだけではないかもしれません。教祖や幹部の行動の動機や意図に関する十分な知見はいまだに得られていません。

「誤った教育」という言葉は、彼らの行為の動機や意図そのものについては直接言及しません。むしろ「教育」しているという同じ土俵に立ちます。その教育が「唯一正しい(と彼らは主張する)」ものか「(問題のある)誤った」ものかという、結果から明らかな評価に落とし込めるものにしています。また心理的なコントロールしているのかどうかも、不問にして扱います。こうすることによって、マインドコントロールで問題になる「本当に人格を入れ替えるような心理的コントロールを行なっているか」と言う不毛な議論に立ち入りません。

さらに、この教育という概念を使う方が、マインドコントロールという概念を使うよりも実態に沿っており、より宗教2世の状況を理解するのに役立ちます。宗教2世は(内心を)マインドコントロールされて問題を抱えるというより、誤った教育(を受けること)によって問題を抱えやすくなるという方が彼らの状況の説明として的を得ています。

さらに支援という視点で見ると、対応策がかなり見えてきます。一生解けるかわかりもしない内心に仕掛けられたものという前提のマインドコントロールを、なんとか解こうとするというような、あいまいな目標ではなく、今までとは異なる社会化に向けた教育の機会を共に考えるなど、ハードルを大きく下げられ、また本人の将来の可能性や希望も大きく広げることができます。

「不適切な状況」とは何か

もう一つ考えなければならないのが「状況」です。教育が意図的なものであるのに対し、「状況」は意図していないものも含みます。そしてこれら状況は我々の行動に大きな影響を及ぼします。宗教2世支援でわかってきているのは、教育のような意図的な影響と同じ程度、非意図的なものも含む状況の影響も大きく関係していることがわかってきています。

状況が人に与える影響

最近行われた、宗教2世のWEBを使った横断的調査では、この状況を「風土」としていました。「風土」いう言葉もよく企業内改革などで使われる言葉ですが、少し迂遠で間接的な表現かもしれません。ここでは「状況」という言葉にしたいと思います。

社会心理学の研究では、ある状況下では、人はその状況を意図した者の意図を超えて、過剰に適応したり、あるいは意図しなかった行動まで起こすことがありうるということです。ミルグラムのミルグラム(アイヒマン)実験、ジンバルドのスタンフォード監獄実験とそれを検証するライヒャーらのBBC監獄実験などが有名です。

マインドコントロールになるとすべて「意図している」ことが前提になり、そのあたりの視点がすっぽりと抜け落ちます。しかし実際のカルト団体の指導者や信者の行動は、彼らの教義や意図とは異なったものも多く存在し、それが宗教2世問題に大きく影響を及ぼすことは多々あります。

ですので、宗教2世の心(あるいは人格)が、どのように意図的に操られてきたかを考えるより、その置かれた状況・・・その状況は意図されたものか意図されていなかったものかにかかわらず、きちんと把握することの方がより重要ですし、客観的な評価や対応がしやすくなります。

「誤った教育」「不適切な状況」は是正できるか

「誤った教育」であろうと「不適切な状況」であろうと、それらの影響力は大きいとはいえ限定的であり、適切な知識や対応、また環境変化によって、それらが無かった状態に戻すところまではできないとしても、大きく改善することは可能です。

少なからず、今まで支援してきた多くの宗教2世の10年後、15年後、20年後の人生などを見させていただきましたが、それら課題と正面から取組み整理しながら、自己の人生を前向きの方向に変えていくことはできるのです。

例えば、15年経っても抜け出せないという方とお話しすることもありましたが、多くの場合、信者時代のインプットした状態からそこに蓋をしたまま一般社会の中で生活されていることが多く、これをもってしてマインドコントロールが残ったというふうに捉えるのは、いささか曲解のような気がします。その証拠に、そのような方でもある程度支援しながら、問題に向き合えるような形で一緒に考える機会を持たせていただくと、その後カルト団体の影響から脱し、ご自身の考え方も含めた感情の問題なども大きく改善することが少なからずあるからです。

「教育」にせよ「状況」にせよ、その影響力は、それに対応する情報や環境、さらに時間によって大きく改善していくのを我々は支援の現場で見ています。

これは別に不思議なことではありません。歴史でも見られることです。例えば日本においては軍国主義的な教育とそれを第一にする状況がありましたが、戦後はそれを否定する平和教育と平和主義的な状況が生まれ、軍国主義で育った子供たちも、平和主義的な環境に順応していったのです。

支援に真に必要なもの

我々が主に見るのは、宗教二世の将来がよりよくなるために必要なものは何かということです。もし、マインドコントロールという概念がそのために必要なものであれば、それは推奨されるべきものかもしれません。

しかし、その定義のあいまいさや各人によって違う解釈、評価の難しさ、宗教2世の状況にマッチしたものではない、さらに回復や支援のハードルをさらに上げるなど、今のところ大きなメリットを見いだせていません。

やはり宗教2世の支援において真に必要なものは、個人に対してのきちんとした理解であり「マインドコントロール」のような、不安定な定義で宗教2世の問題がわかったつもりになることは、より深いレベルでの理解の障害にもなるでしょう。

そして理解するためには、それぞれの言葉の厳密さと正確性や適切さはもとめられます。少なくとも宗教2世問題を個人レベルで扱うには、そういったきめ細やかな理解が必要になるからです。ここに、猫も杓子も説明できる用語で解釈したり説明することは非常に乱暴だと私は思います。

もちろん今後「マインドコントロール」の理解が進み、宗教2世問題でも使えるようなしっかりした内容になりうるのかもしれません。現状では、この言葉を宗教2世問題に適用することは非常に難しいでしょう。



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