脳が沸騰するほど涙を流して、腹が千切れるほど笑って、オーバーヒートするほど考えた。追いかけた9年分の想いは全て涙で流せたと思う。この想いを何かに書き留めたい!そう思いnoteにて。アーカイブ期間はあれど、自分は観るのは一度だけで収めようと思います。一回目の衝動を大事にしたいんです。一回目の記憶を大切にしたいんです。在り来りな理由で笑っちゃいますが、その衝動と記憶をバーッと書き連ねたので、誤字脱字あると思います。拙い文章ですが、思いの丈を綴ったので是非。
妬み嫉み、人見知り、社交性社会性、恋愛、性格、孤独。様々な要素が客観的に見ても全てが"たりてない"ような自分が『たりないふたり』という漫才ユニットに出会って早9年。今思えば必然の邂逅だったと思う。『遂に見つけた!』という、(生意気だが)仲間に出会えた感覚は未だに残っている。多分、心の救いの要素が強かったためというのもある。
当時の放送を覚えてるかと言われたら、最近Huluで見直した分の記憶に書き換えられているから覚えてないと答える。もう9年も前だし、もう9年も進んでいる。進んでしまっている。それなのに自分はまだ"たりてない"と生きてて実感することはある。当時、放送を観ていて『そうそう!そうなんだよなぁ〜!』と勝手に誰かのことを頭に思い浮かべながら若林さんと山里さんが放つ言葉の一つ一つに共感して盛り上がっていた自分。そんな自分をデロリアンに乗って記憶の中にお邪魔して覗き見してみたら、多分自分自身に引いてしまうかもしれない。そんなに"たりてない"のかと驚き、ショックも受けるだろう。
だがそれは同時に、少しずつではあるが、"たりない"からの脱却、卒業できつつあるのではないか?と思うことがある。いや、"たりない"からの脱却、卒業というには傲慢すぎる。逸脱ということにしよう。過去に、たりてないがために心に溜め込んでいた黒いナニカが、今になって"気づかない"うちに漂白されている。自然治癒のようなものなのだろうか。太陽が昇らない暗闇を愛していたはずの自分が、いつの間にか陽の光を直下に浴びている。太陽が動いて日向になったのか。時間の経過による効果もあると思うが、一番は"経験"によるものが大きいと思う。あの時、あの瞬間自分はどう対処していたかで大抵の事は乗り越えられる。経験値が少なかった過去の自分は、危険球の避け方も知らず、まともに身体に食らっていた。『背中を向けて頭を隠す』という事を知らなかったがために、心の中で乱闘が起こる。それが"たりなさ"を生む。ただ、そういう仕組みで生まれることは理解していた。
学生の頃が"たりない"の絶頂期だったと思う。なぜなら、周りがたくさんの素晴らしい素材で溢れているからだ。これをエネルギーに変換できていたら自分は無敵になれていたかもしれない。それぐらい"たりない"の敵で溢れていた。しかしその敵達と戦う訳では無いし、たとて戦うとしても負け戦になることも分かっている。
教室の隅で1軍と呼ばれるイケイケな男女集団の悪口を言っていたあの頃、道ですれ違う赤の他人にムカついていたあの頃、"たりてる"奴らは死んでしまえと思っていたあの頃、全ての記憶が愛おしく哀しく、心が"たりてない"時期だったと思う。何かに悪態ついてはスッキリして、またイラついて。それに共感するような友と呼べる人はいず、一人で抱え込むしか無かった。抱え込んでいたのか、吐き出してないのか。吐き出したとて、声に出したとて、消化されない言霊が自分の頭の上を彷徨うだけで、何分が経てばまた身に降り掛かってくる。
そんな人生をどこか楽しんでいた自分もいた。消化されない言霊を、心で爆発させる行為が快感だった。何回もクラスメイトを心の中で殴った。何回も赤の他人を心の中で殴った。教師だって、親だってそうした。"たりてる"人間は消えればいいと。自分の言霊が消化されればそれで良かった。今思えば、ただのルサンチマンの自慰行為でしかない。それは自覚していた。
自分は短気だ。堂々と自負する。ものすごく短気だ。極めつけに生まれつきの天邪鬼だ。短気×天邪鬼=たりない という方程式が成り立つかと言われれば、成り立つと思う。特に天邪鬼の要素は大きい。『他人と違う意見言ってる俺、カッコイイ...!』という陳腐なレベルではない。生まれつきなので無意識だ。初期衝動で天邪鬼が出てしまう。なので、自分が言った意見や言葉、自分が正しいと思ってる物事や行動、それらに反してくる人間が目の前に現れると山里さんのようにクローズしたくなる。というかする。その反してきた人間のことが心に引っ掛かったまま家路に着くことが多い。なので、消化されない言霊を爆発させる場所は家が多い。家はどんな自分も受け入れてくれるので好きだ。そして、その行為はほんの何分かの事で、傍から見ればそれは虚無で、無駄な時間が経過してるだけの事だとは思う。しかしその一瞬の快感が人生を楽にしていた。
"たりない"からの逸脱が成功したという思い込み。学生時代の愛おしくて哀しい"たりない"記憶。そんな自分を天邪鬼が"特別"な人間に変換し、快感を生み、人生を楽にする。
でもそれは全て間違っていて、"たりてる"方が良いに決まってると9年越しに後悔する。"たりてる"と生きやすい、"たりてない"と生きづらい。残念だが社会はそういう風に出来ている。社会に出て、大人になる。これから、"たりない"自分は風に身を任せて"生きやすい"人生を望むかもしれない。また後悔をするかもしれない。自分が自分に引いてしまうかもしれない。
だけど最後に残った心だけは、"たりない"ぐらいが丁度良いのかもしれないよ!と面と向かって叫んでくれる。だからそれに縋る。だから後悔する。している。
でも、今回の『明日のたりないふたり』を観て、若林vs山里、山里&若林の魂と魂のぶつかり合いで散った火花に触れられて、非常にアツかった。両者、脳で交錯する様々な考えを超越して言語化する。その凄まじい応酬が目にも止まらぬ速さで飛び交っている様を見て、良い意味で疲れた。心身共に。また、その言の葉の重さをオンライン上でありながら実感した。いい歳して何やってんだ(笑)と赤の他人に嘲笑われるかもしれない恐怖、不安などは北沢タウンホールの舞台上には一切無く、センターマイクを"中心"に駆け巡った時間は儚く、尊く、一瞬一瞬の二人の激闘に涙腺をゆるめた。この怒涛の物語が空想上のお話ではなく、現実にリアルタイムで北沢タウンホールという場所で進んでいると思うと、頭を拗らせそうになる。"たりないふたり"の背中合わせな不器用な性格と、"たりないふたり"の顔合わせな器用な漫才スキル。その二律背反な情景描写を2時間まじまじと観せられたら、そりゃあ疲れる(さっきも言ったが良い意味で)。
正直、自分も"たりてない"視聴者として見ていて、嫌気がさしたこともある。過去に自分が嫌っていた芸能人という不思議な扱いをされている人間らが『たりない!』と叫んでいるのは、もういいだろと思った瞬間もあった。どうにでも出来る立場だろうと。でも、それもやはり間違っていた。どこか、自分の人生のハードルにふたりを合わせようとしていた。ふたりはふたりの人生のハードル設定がある。"仲間意識"が過ぎていた。
ふたりの言葉は正直だった。ありのままで何も魔法がかかってない言葉だった。どこか脆く儚く、美しさすら感じる言葉の羅列。
今日、自分はこれを観ている。そして生きている。
昨日、自分はこれを観ていた。そして生きている。
1年前、自分はこれを観ていた。そして生きている。
節目節目で思い返すだろうと確信した。自分だけが一生抱える痛みだと思っていた"たりない"という心が、こんなに温かく抱きしめられて、明るい明日を迎えさせてくれるなんて9年前の自分に言ったって信じないだろう。
最後というか最期、素敵なエンディング(ネタバレ回避)を見届け、ライブが終了。そして観終わった後、画面を一時間ほど閉じれず、真っ白な空間に取り残された自分は『後悔してきて良かった〜!!』と心の底から自分に対して拍手できた。愛おしくも哀しいあの頃の記憶に縋り付く今までの"たりてない"自分と、予想できない未来を生きるこれからの"たりてない"自分に。
また誰かを心の中で傷つけてしまうかもしれない、赤の他人にムカついてしまうかもしれない、"たりてる"人に殺意を覚えてしまうかもしれない。それでも、あの日見た『たりないふたり』という記憶が、確実に脳に、心に、人生に刻まれた記憶が、いつでも"たりない"自分を『たりなくてよかった〜!』と後悔させてくれる。
『たりないふたり』はもういない。立つ鳥跡を濁さずに飛び立って行った。これから、自分の足で、自分の翼で、自分の感覚で高く上へ飛び、さらに前へ踏み出して進んでいかなければならないのかと思うと正直恐怖、不安がどっしりと降り掛かってくる。でも、今日、自分は"たりないふたり"に手を借りながら自分に拍手できた。たりない人生を拍手できた。まだまだ後悔していくだろう人生に拍手できた。荒波という荒波を自らでオールを漕がないといけないが、きっと乗り越えられるだろう。後悔してきた人生に拍手できたんだ。まだまだ頑張れる。頑張らないといけない。『たりないふたり』が残した綺麗な跡に自分たちの足でしっかりと立ちながら、このライブを見た5万5300人のたりない奴らと共にグッと拳を握り締めながら、飛んで行った鳥達を見ている。自分達も羽ばたく準備は出来た。あとは飛ぶだけ。
また、"たりてない"人生を楽しんでしまった。
まだまだ自分には後悔が"たりない"らしい。
『たりない人生を後悔せヨ』終
あとがき
そもそも、こういう思いの丈を綴る文章を書くこと自体、自分が嫌っていた人種だったんです。『戯言綺麗事を並べて薄っぺらい内容をタラタラと書き連ねる人間』を嫌っていたのですが、それはまさに自分のことで。自分が怖くて出来なかったことを自分じゃない人間に投影して嘲笑っていたバカヤロウでした。そんな皮肉めいていて、臆病で、バカヤロウな自分が恥じることを恐れず思いの丈を吐き出せるようになったのは紛れもない『たりないふたり』に出会ったから。これは自分の人生においてのターニングポイントのような気がします。人生の何かが変わったような音は未だ聞こえてはこないけど、まだまだ諦めずに耳を澄まして生きていこうと思います。ありがとうございました。