「自分」とは何を指すのか
インテリアデザインマスターというnetflixの番組を見ました。
食事中にいつも何かしらの番組をつけているので、ちょろっと見て作業入ろうかなーくらいの気持ちだったんですけどね。
やばい、色々グッときた。
インテリアデザイナーを目指す10人が2チーム5人ずつに分かれて課題に挑む。
第一回の課題はモデルハウスのインテリアデザイン。
壁紙や壁の色、家具の配置であったりとか、アートをかざったりなにもかも自由にできる中で、「モデルハウス」という要件をどう満たしていくか。
家具とかインテリアデザインが好きではあるけど、僕はど素人です。
ど素人の僕から見ても片方のチームは明らかに「自分好み」であった。
そして脱落するチームを決めるシーンへ。
やはり脱落したのは「自分好み」なチームの方でした。
脱落チームからは1名だけ脱落するので、その後3人が呼び出され、脱落者を決めることに。
審査員にどういった理由でその3人が呼び出されたのかを1人ずつ説明され、最終的に脱落者が発表される。
脱落者は言う。
「自分が住むのを想像して作った、イケてると思った」
まあそうでしょうね、だからそういうデザインなんでしょう。
ただし、ここで言う「自分」はデザイナー本人であってはいけない。
ここで言う「自分」の正解は明らかに「モデルハウスを購入検討している見学者」のことである。
これは物を作ってそれを仕事にしている人のほとんどが一番最初にぶちあたる壁でもある。
そして「アート」と「デザイン」の壁でもある。
「アート」は彼が良いと思っている物に多くの人が共感したものを言い、「デザイン」は要件にあった共感を作ることにある(多くの人が共感するものを作ること、と書きそうになりましたが、ターゲッティングしてそこに落とし込む行為のことなのでそうではない)。
僕は今広告業界で映像編集をするエディターという仕事をしていますが、エディットの能力にはこれがとても重要になってくる。
「訴求」に合わせた編集ができるか否か。
そうやって、ここでいうデザインの仕事をやっていると、だんだん自分が良いと思っているものを失いそうになったりする。
(だから僕はそれを解放する場所をなるべくどこかに作ろうとしていて、自分で映像を創ったりしているわけなのですけれども。)
でもですね、実は自分がいいと思っているものの方向性というのは結構変えられないものなんです。
訴求に合わせつつも結局どこかにその人らしさみたいなものが出てきちゃうんですよね。
ちなみに、出てこない人もいます。
出てこない人は「誰かが言ってる何か」しか創れない人なので、凡庸なものしか創れなくてあまり需要がありません。
審査員が「わかる、けどダメだ」みたいなことを呟くシーンがあるんですけど、それめっちゃわかる。
でも僕が育てるならそういう「わかる、けどダメだ」を持ってるやつを育てます。
出てこないやつはずっと出てこないので。
結局どっちだよ!って感じなんですが、極論ブチ抜けてアート性が強くて、めちゃくちゃ誰もが欲しいと言うような天才みたいな人はデザインする必要が無くて(動線だけ誰かがデザインすれば)、基本的には訴求ポイントをしっかり狙いこんでデザインしようね、仕事だからね、ってことです。
と言ったところで、「モデルハウス」という要件はめちゃくちゃいい要件でした。
「ぶち抜けたアート性」なんか誰も求めないよ(求める人はそもそも「モデルハウス(建売)」には来ない)、その中でちゃんと「自分(モデルハウスを購入検討している見学者)」のことを認識、理解できた上でなおかつデザインの能力があるかを審査するというすばらしい第一話でした。
当分ちょこちょここれ見ようかなw