コーヒーの水面から口縁までの幅
お分かりいただけただろうか。
僕はこの幅に対して、人よりも強い拘りを持っている。
ちなみに上の写真の幅は僕にとっては、「ノー」だ。
もう少しコーヒーを注いだ方がいい。
僕の求める幅、つまり「絶対領域」はこうだ。
この違い、わかるだろうか。
テーブルを少し揺らしてしまうと即座にカップからコーヒーがこぼれてしまうような量。
だが、器の助けを借りることで液体はその形をかろうじて保つことができている。
そんな幅だ。
見ていてなんだか気持ちがいい。
ただそれだけだ。
ただそれだけのことなのだが。
馬鹿な話だが、こんなことに拘りを持っていると気付いたのは、昔のバイト先でコーヒーをカップに注いでいた時だ。
規定量などはなかった。
店長の「良い感じに淹れといて」という指示のもと、一番美味しそうに見える量を研究した。
試行錯誤の末に発見した幅が先ほどのものだ。
これより広い幅だとなんだか間抜けな印象すら感じてしまうほどに、無駄に感覚が研ぎ澄まされてしまっている。
(これも間抜け。コーヒーをもっと注いでほしい。)
とはいえ、理想の幅は各人によって異なることは確かだ(そもそもこんな事に一喜一憂している人は日本にいるのだろうか)。
だから、僕は声を大にして人々に主張することはできない。
僕が間抜けだと思う量のコーヒーが、誰かにとってのベストオブワンだったりするし、その逆も然り。
だから、こういう時は自分の価値観こそ真であっていい。
突拍子も無い発言を繰り返し評論家を青ざめさせたトランプがメディアの予想を裏切り、アメリカの民衆の支持を得て大統領に当選したりするこの星の、この宇宙の理なんて誰が分かるものか。
自分の見ている赤は他人にとっての青かもしれない。
だから人間は各々の裁量で世界を把握している。
せざるを得ない部分がそこにはある。
だから、自分の価値観を殺す必要はないのだ。
側から見たら井の中の蛙のような暮らしで満足する人がいたり、地元で人生を完結させたくないと上京する人がいたり、国境を越えて地球全体を旅する人すらいる。
自分より大きいスケールで生きている人は山のようにいる。
でも、大きさが勝負なんじゃないし、そもそも勝負なんかしてない。
他人は強そうに見えるが、生きることを通して培ってきた自分のやり方を突き通すことこそが自身の強さ、すなわち強烈なアイデンティティを育むのではないか。
だから、自分の「好き」をねじ曲げないことを推奨する。
それはかけがえのない個性になるし、人生の折にふれてワクワクさせてくれたり、励ましてくれたり、憧れさせてくれたり、など、心を動かしてくれる。
「ぼくにはヘンな癖があるけど、捨てるなんて事はしなかった。だってそれがぼくの個性なんだから。」
ボブディランもこう言ったくらいだ。
個性をねじ曲げて、他人との均一化を図ることが一体感を生むのだとは思わない。
個性を持ったもの同士がインスパイアを与えあったり、新しいアイデアの種を見つけたりする方が、世界に彩りを添えるのに一役買うだろう。
というか、そっちの方が楽しそうではないか。
僕はそういうふうに考えている。
ただし、「コーヒーの水面から口縁までの幅フェチ」なんてものはどんな世界に行っても相手にされないことは請け合いだ