されど、空の青さを知る
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。井戸の中にいる蛙は井戸より広い世界があることを知らないことを嗜めるような言葉だ。私はこの言葉が好きだ。広い世界を知らなければ自分の未熟さを知ることは出来ない。現実を、社会を知らなければ自分が辛くなるばかりだ。
言いたいことも我慢して、受け入れたくない内容も二つ返事で受け入れて、頭の痛みは錠剤の数で誤魔化した。ちっぽけな自分が大きな世界で二本足で立つために毎日一生懸命だった。いつの間にかそれが普通になっていた。当たり前のことだと思っていた。
そんな私を見て、あの子は言ったのだ。
「なんでそんなに頑張っているの?」
あの子の言葉が癪だった。あの子は自分のやりたいことをやって、時には困ったように上目遣いで頼ってきたり、上手くいかないと汚い言葉を子供みたいに大声で口に出したりして。
でも、なんだか毎日が楽しそうだった。そんなあの子が憎たらしかった。
私は彼女に言ってやった。
「もういい大人なんだから自分のことは自分でなんとかするのは当たり前でしょ?自分のやりたいことばっかりしているあんたには分からないだろうけど、社会というものはそういうものなの。夢を叶えられるのは努力に努力を重ねた選ばれた人間だけよ。もっと自分のちっぽけさを知りなさい」
彼女は私の言葉に圧倒されて呆けていた。ほれ見ろ、言い返せやしない。あんたは自分に甘いだけなんだ。ざまあみろ。
「ーーーじゃあ、なんで泣いてるの?」
彼女の言葉に「あ」を漏らした。がらがらになった声、涙を止めるものは壊れてしまうし、鼻からは奥底に残っていた鼻水が外に出ようと熱を帯びていた。
言い返せないのはどうやら私のほうだった。
本当は分かっていたのだ。「頑張っても辛いだけだった」なんていう残酷すぎる結末。でも、認めたくなかった。そんなことをしてしまったら、私は。空っぽになった錠剤の瓶だけを詰めたゴミ袋の山。振り返ることさえ怖くなってしまっていた。
社会に必要とされたかった。でも、私は必要とされなかった。私の代わりはいくらでもいた。それでも、私は生きていくために、自分を殺して、社会に、尽くした。
彼女は言った。
「ねぇ、わたしのとこに来ない?今食べているものより美味しいものは食べさせられないかもしれないけど、君となら楽しく食べられると思うんだ。あ、そうだ。わたしの作ったものにたいして素直な意見もくれたらうれしいかな、なーんて。あとね、君が疲れたら百円で愚痴聞き役やってあげる。どう?なかなかいいと思わない?」
私の嫌いな何も分かっていないような平和呆けしたような笑みを浮かべながら。
「真面目な君とちゃらんぽらんなわたしだから、いっぱい喧嘩しちゃうと思うけどきっと上手くいくと思うんだ。社会とか世界とか、そんな難しいことは一回流しちゃおうよ。それでも気にするっていうんだったら、わたしが馬鹿やって忘れさせてあげるから。だからさ」
そっと私を抱き寄せて、私の背中をよしよしと撫でた。
「わたしのところにおいでよ」
彼女の言葉にたいして、「馬鹿を言うな」と叫ぼうとするたびに言葉にならずに鼻水と涙と嗚咽ばかりが込上がってくる。
「なんでそんなにばかなの」
かろうじて声になった言葉。彼女は困ったように笑った。
「なんでだろうね。なんでなんだろうね」
―嗚呼、本当にこの子というやつは。私はこの子が憎たらしい。
「あ、見てみて。空が青いね!綺麗だね!」
彼女が空を指さした。晴れた空が青いなんて知っていたはずなのに、こんなに青かっただなんて私は知っていただろうか。
「綺麗」
私の中の世界がどんどん小さくなっていく。そして、世界に立たされていたちっぽけな私はどんどん大きくなっていった。
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「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。井戸の中にいる蛙は井戸より広い世界があることを知らないことを嗜めるような言葉だ。私はこの言葉が好きだ。でも、私がもっと好きなのはこの言葉の続きである。
「ただいま」
間抜けな彼女の声がする。
「おかえりください」
「はいはい、全く相変わらずだねぇ」
彼女はやれやれと言いながら貯金箱を持っていくる。
「今日ちょっと嫌なことがあったんだ。奮発するから聞いてくれる?」
「千円からになります」
「なんてお高いのでしょう!まぁ払うけどね」
彼女が笑いながら私に千円札を手渡した。
「今日は空が青いね」
私が言うと彼女は不思議そうにこう言った。
「空が青いのはいつものことでしょ?」
私は彼女の馬鹿さ加減に時々負かされる。
「えぇ、全くもってその通り」
彼女は怪訝そうに首を傾げていたが、私の顔を見て楽しそうに笑った。
空の青さはあの頃と変わらない。綺麗なまんまだ。