あなたのいる夜を目指す
二年四組のクラスには「魔女」がいる。
「魔女」は迷える羊達に救いの手を差し伸べ、その手を取った者達を全ての苦悩から解き放つと言われている。だが、その副作用として「ヒト」でいられなくなるという噂だ。
ボクが所属する二年四組には空いた席が二つある。前から三番目窓際の席と、後ろから二番目廊下側の席だ。かつてそこにはクラスメイトの「誰か」が座っていた。だが、ボクたちはその席にどんな人が座っていたのかはっきりと思い出せない。ただ、一つだけ確かなことがある。この席に座っていた人達は皆、とある女生徒と接触していたということだ。彼女の名前は鈴星鞠子(すずほしまりこ)という。
眉上に切り揃えられた前髪の下には黒い睫毛に覆われた紫色のパンジーを彷彿させる大きな瞳。まるで闇を纏っているかのような長い黒髪。血管が薄く浮き出て見えるほどに病的な白い肌に、不気味なほどに目に焼き付く赤い唇。黒いセーラー服に赤いスカーフ姿が恐ろしいくらい似合う彼女は同い年とは思えないほどに落ち着いており、鳥肌が立つほどによく整った笑みをいつも浮かべている。そう、例えるなら彼女は「夜のような人」だった。
ボクは鈴星鞠子に憧れていた。「魔女」と呼ばれる彼女の中で心臓のように脈打つ秘められたモノにボクは触れてみたかったのだ。
鈴星鞠子が自分から誰かに話しかけることはない。普段は教卓前の席から三つ後ろ、教室の丁度真ん中にあたる席で楽しそうに微笑んでいる。そんな彼女が白い封筒の中に入っていた白い便箋を広げて何かを読んでいる。ボクはそこに何が書かれているかを知っている。何故ならそれはボクが作ったものだからだ。昨日の放課後、誰もいない教室でその手紙を彼女の机の中に忍ばせておいたのだ。
彼女が長い黒髪を揺らして席を立ち、ボクへと近付いていく。彼女が一歩一歩歩くごとに教室の空気が凍りついていくのを感じ、ボクは不思議と高揚感を覚えていた。彼女は言葉こそ発しなかったが、その顔に否定の文字は一文字足りともなかった。それで十分だった。
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学校が終わり、部活が終わり、帰る支度を整えた生徒達の波に逆らうようにボクらは屋上へと向かった。夜より濃い彼女の黒髪は階段を登るたびにまるで目の前に餌を置かれた蛇のように跳ねている。重い扉を開き、ボクらは鉄格子に手をかけて外の世界を見下ろす。だが、その光景が妙だ。この時間になれば建物の光の一つ二つ見えてもおかしくないはずなのに、見える光といえばボクたちの頭上を照らす満月だけ。まるでこの学校以外が黒い海に沈んでしまったような錯覚に襲われる。たじろぐボクに彼女は大きな声で笑った。その笑い方は人間離れした彼女のものとは思えないほどに人間らしく、腹を抱えながら体を反らして笑うその姿は実に下品であった。
「菅野(すがの)君にだけ特別に教えてあげるわ。私は鈴星鞠子じゃないの。私は君と同じ、鈴星鞠子に成りきっていただけの『ただの冴えない人間』の一人。本当の鈴星鞠子はもうこの世にはいないわ。だけど、鈴星鞠子は確かにいるの。私達を救う『魔女』として存在し続けるわ」
笑い疲れた彼女は一息つくと、彼女は実に満足そうな顔をしてボクに言った。
「菅野くん、『魔女』に憧れることは悪いことじゃないわ。だって『魔女』は全てを受け入れてくれるもの。私の願いを叶えられた。そうでしょ、『矢代美代子(やしろみよこ)』」
「矢代美代子」というのが彼女の本当の名前なのかと納得する前に彼女の体が破裂した。それと同時に世界が一変する。緑の月に赤い空。そして、ボクが屋上だと思っていた場所は緑色の血管と黄色の太い血管が浮き出た白い心臓に八本の手足が生えたバケモノの上だったのだ。小さく悲鳴をこぼし、尻餅をつきながら後退りをするボクの腰に生暖かいものがあたった。そこにはボクが憧れたあの赤い唇があり、その唇からボクの身体へと伸びていく黒く太い舌はボクの心を離してやまないあの黒い髪の毛そのものだった。
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この教室には「魔女」がいる。このクラスにいる人間が皆、鈴星鞠子という「魔女」の後継者であり、鈴星鞠子という「バケモノ」を此方へ呼ぶために必要な生贄なのだ。遅かれ早かれボクらは全員「鈴星鞠子」となるだろう。そして、この教室に「ヒト」がいなくなったとき、本物の「鈴星鞠子」が再誕することだろう。
その事実を、今はボクだけが知っている。今日からボクが「鈴星鞠子」だ。