啓蟄
異変に気付いたのは昨日からだ。前兆はあったのかもしれない。だが、知らぬふりをしていたのだ。変哲のあることを変哲のないものだと思い込ませていた。それを僕は今更ながら後悔する。
僕の体から溢れ出す無数の生物。鈍色をしたソレは、膨れた蛭の体に、アリのような括れを持ち、その体にはムカデのようにびっしりと足を貼り付けたような姿をしていた。その生物は様々な大きさをしており小さなものは小指くらい、大きなものは2.5リットルのペットボトルくらいであった。
その生物が湧いてくる際には大きさ関係なく、全く痛みはなかった。ただ、乾燥気味の肌につうと這っている姿を見ると、全身の毛がよだち激しい痒みが伴った。
「誰しもが心に『ムシ』を宿しており、その『ムシ』は希に人の中から出てくることがある」
胡散臭そうな教授が講義中に言った言葉を思い出す。あの教授の言うことを鵜呑みにするのならば、今起きている状況はこう言うべきだろうか。
僕の中で眠っていたムシが目覚めだしたのだ。
僕の体からムシが湧き続ける。春休みは終わったというのに大学に行くことが出来ない。大学どころか外に行くことさえ叶わない。今の僕はちょっとしたバケモノだ。
ベットの上、全裸に毛布を被って体育座りをし、床に落ちた虫の数を数え出した。数を重ねるごとに恐怖も不安も通り越し、退屈さえも通り過ぎてもう何もかもがどうでもいいと思い始めた時、夢を見たのだ。
昨年の冬、僕が別れを告げた彼女が今の僕に会いにくる夢。辺りは白い梅に囲まれており、頭上には小さな花が咲いていた。とても綺麗なところだった。
彼女の息を呑むような悲鳴と、手の中の苺を握り潰したような惨劇の僕。凍りつく僕らと裏腹に湧き出てくるムシ達は太陽の光に体をくねらせる。反り返ったムシは皮膚が剥がれるように音を立てて乾いた土の上に落ちた。地に落ちたムシは大きく跳ねると、水を失った魚のように大人しくなった。鈍色のムシの肌を僕達はその二つの目にしっかりと焼き付けられていく。
彼女が目を覆い、目の前の現象を今の僕ごと否定した。白梅の花片が彼女の頭と足元に散りばめられた。誰も悪くないのに、惨めな気持ちになった。
春は始まり、全ての命が零から壱へと歩みだす。その一歩にどれほどの想いが凝縮されていることか。春という言葉に似合わぬ醜い姿を晒して、僕はどんな夢を抱けばいいのだろう。
君が駆け去った道には残り雪のように花片が散っている。それでもなお美しい道に、僕はぼとりとムシを落とした。ムシは少しもがき、やがて動かなくなった。だがしかし、僕の春はまだ終わらない。
そう、終わらないのだ。