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刺さらないコトバについて考えてみる。

ステイホーム週間も半分が過ぎた。
コロナに関する情報もだいぶお腹いっぱいいなってきた。

一方で、いくつかの国ではコロナ対策がうまくいっている、あるいは、少なくとも国民から支持されているらしい。
その理由として、「リーダーのコミュニケーション力」というのが取り上げられている。
これはつまり、日本ではリーダーとのコミュニケーションが成立していないということなのだろうけど、多くのヒトがそう感じる理由はなにかを、自分の覚えた違和感から考えてみる。

何に対して感謝されているのだろう?

いろんなところで、行動自粛をしていることについて「協力に感謝します」とか「ありがとうございます」という言い回しが多用されているのだけど、これがどうもピンと来ない。

一体なにに対して感謝されているのだろう?

そんなことをぼんやり考えていたら、
最近読んだいくつか本で得た概念がふと思い浮かんだ。
そして、「なるほど、そういうことか」と思ったので、
ちょっと絵を描いてみた。

おそらく、いまの状態は左下のような状態ではないだろうか。
なにやら「あるべき社会」というものがあって、その枠組みに漏れないように、統治する側が統治される側に要求している。
そこで優先されるのは、個別の事情ではなくて、「あるべき世の中」のルールになる。
だから、いま発せされているコトバには、「(あるべき世の中に収まるためのルールに従ってくれて)感謝します」ということが含意されているような気がする。

「外」なのか「内」なのか

これ自体は別に間違っていないんだけど、おそらくいまの社会にはフィットしていないのではないかと。
右下の図は、1つの社会集団の中に、様々なアクターがいて、それぞれのコミュニケーションから、その集団にとっての最良な共同体が築かれていく、というイメージ。

学術的いうと、社会構成主義的な考え方と思う(専門家ではないので、厳密な定義はできないが、、)。
自分も社会の内側にいて、自分の影響力を感じれるから双方向のコミュニケーションが成立していくのだろう。

たぶん、いまトラブルシューティングがうまくいっているのは、
こういうコミュニケーションがうまく成り立っている共同体なんじゃないか。そして、これが成立する規模感はやはり限界がありそう。。

ニュージーランドとかデンマークとか、あるいは、日本の中のある自治体とか、ある程度のコンパクトでかつ、定常的にうまくコミュニケーションが取れている、という集団がこのような状況下で強さを発揮しているように思った。

なんだかむずかしい話になってしまったけど、
これって実は一個人としてもだし、自分の頭のなかでも同じように考えられるのでは?と思ってたのでした。

少しは前回の投稿(宿題)への答えになっているだろうか。

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