
30歳OLが満員電車に飛び乗ったらセミがいた
※こちらの文章にはセミが登場いたします。苦手な方はUターン願います。
運命の出会い
2023年8月の朝、私は大阪関西国際空港から難波に向かう南海電鉄の急行電車に飛び乗っていた。晴天の夏休みシーズン。
とはいえ、7時台の一番混雑する時間帯。どの車両もぎゅうぎゅうだった。私も(今日も混んでるな)と心構えをしてから車両に乗った。
しかしその日は普段と違った。いつもはぎゅうぎゅうの車両に、不自然なスペースがあったのだ。
変だなと思いそのスペースに向かって歩きかけ、ふと足を止めた。
電車の床に、セミが鎮座していたのだ。

一瞬の間にいろんな考えが脳内を駆け巡る。
なるほど、だから不自然なスペースが空いていたのか。周りの乗客の視線は全員その子に注がれている気がした。しかしこのまま発車してしまっていいのかしら。
いや良くないだろお互いに!
このままだと、電車は不自然なスペースを保ったまま混み合うことになる。最悪誰かがこの子を踏みそうになったり、それを避けようとこの子が飛び回ったりしたら…。
これらは、その子と目が合って1秒の間に考えたことだ。
次の瞬間、身体が動いていた。
迷わず片手でその子を掴む。こういう時は迷ってはいけない、この子が暴れるから。とたんに周囲から無言の動揺がドッと波動のように伝わってきた。
(この人、素手でセミを掴んでいる…!)
しかし気にしてはいられない。駅のホームからは「間もなく電車が発車します」というアナウンスとベルが聞こえてくる。このままではドアが閉まってしまう。
心を決めた私は、さっき自分が入ってきたばかりのドアに向き直った。そして手に掴んだセミを、紙飛行機を飛ばすがごとく、ドアの外に解き放った。
投げたとき、駆け込み乗車してきた人が(え?今の何?)と戸惑いながら飛び乗ってきたけど、セミは無事外へ出ていき、私の任務は無事完了した。
車内にいた人たちは、
(コイツやりやがった…)
という私に対する恐れと、セミがいなくなった安堵感に包まれていたことだろう。
振り向いたときにはもうあのスペースは消えて、ただの満員電車になっていた。電車はぎゅうぎゅうの平穏を取り戻したのだった。
そのあと数分間、私は誰にも讃えられないまま(絶対誰かは心の中で讃えてくれてるはずと思いながら)電車に揺られていた。
ふと、セミを投げたとき、鳴かなかったな…と思い出した。ということはあの子はメスである。
そのとき車両内に掲げられている注意書きが私の目に飛び込んできた。女性専用車両だった。
あのセミ、車両合ってた…!
私はしばらく、自分の発見に静かに感動していた。
世の中には知らなくていいことがある
無事出社した後、私は今朝のできごとを誰かに話したくてたまらなかった。
ルーティン業務をしているときも、ミスして上司に叱られているときも、早朝の達成感のことをずっと反芻していた。
そして待ちに待ったランチタイム。
私はいつものランチメンバーに今朝の話をし始めた。
ランチメンバーは4人。彼女らは虫か得意ではないけれど、今朝の話程度ならギリギリ聞いてくれそうな面々だった。
彼女らは私の上記の話を驚いたり、眉をひそめたりしながら聞いてくれた。
するとそのうちの一人が
「ねねちゃん、どうやってセミを移動させたの?」
と聞いてきた。
どうやって?
素手である。
しかし彼女の顔には
あのおぞましい生き物を、どうやって動かしたの?
と書いてあった。
「て、ティッシュを一枚さっと出して、包んだんだよ」
大嘘である。
でも、その時の私は嘘をつくしかなかった。わざわざ本当のことを話すメリットは、私には見つけられなかった。
そんなことを、セミの鳴き声が止んだころに思い出すのだった。
いいなと思ったら応援しよう!
