『ダンスの時間』サマーフェスティバル2008(26)きたまり「娘道成寺」
きたまりの「娘道成寺」は、アトリエ劇研で木ノ下歌舞伎の一プログラムだった初演を観て、力強さに感心した作品。天井から紅白の太い縄を吊るし、暗転の間によじ登ったきたを舞台監督がブランコを押すように揺らして、始まる。大きく揺れるきたは、時に壁に激突したりしながら(というのはアクシデントだろうが)、地上と空の間からスタートする。
安珍・清姫の伝説や、歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」を知らなければわからない作品ではないし、知っていてさかしらに原本との違いを言い立てるよりは、知らないほうがいいぐらいだろう。もし全く知らなければ、天から降臨した女が地上での暮らしでつらい目にあったりしながらも懸命に生きて、最後はまた天上に戻る、という物語にも読み取れる。ぼくはそれでも悪くないと思う。
そんな解釈では物足りないと思う人は、清姫に見られたような狂気や変妖をこの作品の中に見ようとするだろう。確かに、先ほど「つらい目」と書いたように、サックス奏者(亀田真司)に踏みつけにされていったん引っ込んだ彼女が衣裳を替えて出てくるのは、単なるお色直しではなく、変化(へんげ)であると考えなければいけないところ。しかし、衣裳以外の変化を見て取ることは、率直に言って難しい。もちろん、全体を通じての衝迫力には鋭くすさまじいものはあるし、縄の扱い、限られた小さなスペースでの人形のような動き、サックス奏者による折檻のような場面、など見どころはたくさんあって、それぞれ作品の時間の流れや構成からいって大きな転換であるから、めまぐるしく飽きることなく見続けることができるのだが、動きの質や触感には、目立った転換は見られなかったように思える。
もちろん、一人のダンサーが短い時間を踊るのだから、物語を帯びて美麗な姫が醜悪な夜叉に変わるといった役柄や外面の変化でもない限り、そうやすやすと根本的な変化など起きないかも知れないが、忘我や憑依やトランスということもそうなのだろう、時々目の前のものが他の何ものかになってしまうようなことが起きるのだ、舞台では。もちろん、毎回起きるわけではないかもしれないが、いつかそのようなことが起きた時には、冒頭の縄に揺れている女と、ラストで縄をよじ登る女は、全く別の相貌となり、この作品が本当に娘道成寺のような、伝説と呼ばれるような恐ろしい名作になるのではないか。幸い、きたはこの作品を何度も再演するようだから、できればその瞬間をこの目で見たいと、しみじみと思った。
つまりは、それだけの入れ物を作り上げてしまったということだ。古典の力をそれだけ引き寄せたということでもあるのだが、それはその中で存分に奔放に遊び回ってもびくともしない構成を獲得しているということだ。