舞台遠見5 2017年回顧
時節柄、昨年のすばらしかった舞台作品等のうち、本欄でふれられなかった、記憶すべきものをリストアップしておきましょう。もしこの人たちやカンパニーの名前を見かけたら、その公演はご覧になったほうがよいと、自信をもっておすすめできるものです。
京都の若手ダンサー倉田翠の構成・振付によるakakilike「シスター・コンプレックス・シンドローム」(3月、京都・元立誠小学校 講堂)。倉田が20歳だった2008年に大学で上演した作品の再演ですが、いわゆる再演ではなく再構築を目指してほとんどのメンバーを入れ替えたということです。女性ダンサーだけで展開する美しい残酷さと緊張感、脈絡はないが切羽詰まった末であろう暴力。言葉を使わないだけに、そこで行われている何か大変なことについて、詳細のわからない不安が湧き、それを想像力で補おうとするともっと悲惨なことを思い描いてしまう……身体というものが目の前にあることで展開される残酷さを突き付けられる、厳しく冷たい世界が展開していました。
京都を中心に2006年から活動している木ノ下歌舞伎は、主宰の木ノ下裕一が歌舞伎を現代化することによって、それが本来持っている物語としての魅力、江戸時代の言葉と登場人物の持つ現代性を明らかにしてきたユニークなカンパニーです。鶴屋南北原作の「東海道四谷怪談 通し上演」(5月、京都芸術劇場 春秋座)は、上演時間6時間の大作。演出に杉原邦生を迎え、外連味(けれんみ)ではなく、緊密な会話劇としての魅力を遺憾なく発揮させました。お岩と伊右衛門の人間関係を軸に、怪奇譚として見せなかったことが効果的でした。島次郎の舞台美術も美しくまた象徴的で、歌舞伎の伝統とは異なる新しい様式性を実現したといえるでしょう。
高野裕子というダンサー、振付家はダンスというものが身体の動きの技術を見せて観る人を圧倒することよりも、その空間に身体をポンと置くことによって、それを観る人たちが共通の何ごとかを体験することを大切にしているのではないかと思います。「息をまめる」(11月、西宮市甲東ホール)は、ダンサー、俳優、アコーディオン奏者が入り混じった不思議な公演でした。言葉、動き、音があったことはもちろんですが、ホール自体が普段とはちょっと違う使われ方をしていたり、言葉が本来の意味を伝える働きから逸脱していたり、動きやコミュニケーションのタイミングがスルリと外されたりして、そのせいで少し可笑しくなります。自分が可笑しく思っていることに気づき、またフフッと笑いがこぼれます。そんなような時間でした。結果として、高野が大切にしているものを共有できたような気持ちで帰ることになるのが、不思議です。
ここまでの3作は、20代から30代の若手の作品でした。大ざっぱに言って、私の子供の世代にあたります。ダンスも演劇も、創作者が非常に充実しているように思える世代です。
サイトウマコトという振付家、ダンサーは、私と同世代にあたります。「廃の市」(ほろびのまち)という作品を11月に伊丹のアイホールで上演しました。福永武彦の小説『廃市』をベースにして、登場人物それぞれの現在と過去をドラマティックに、遠景近景織り交ぜながら、丁寧に美しく描いたものです。舞台全体に畳を敷き詰め、ダンサーの多くは変形した着物を纏い、日本的な香気を醸し出しますが、動きはバレエをベースとした激しいものです。振付は対称性を基調にしながらも破調の多い動きで、畳を擦るサッという音が耳に刺激的でした。男女の三角関係を北原ミレイの「石狩挽歌」等の演歌を用いながら、濃密にあるいは象徴的に描くのが、切ない哀感を増幅していきます。
一方で、過去を持ったダンサーの物狂いのような動きが印象に残ります。彼にはもう過去しかないような悲しみです。このような人物造形が明確になされることは、ダンス作品ではそう多くはありません。その意味では、演劇的なダンス作品だともいえるでしょう。しかし、与えられた物語性がダンサーの動きに情感を加え、感情を移入しながら観ることができるというのは、サイトウ作品に独特な魅力です。
昨年は一年間で約150本の演劇、ダンス、ミュージカル作品を観ることができました。現在この場所に居ながらにして、古今東西さまざまな場所や時間に連れて行ってくれる舞台芸術という存在を、本当にありがたく思っています。
「沖ゆくらくだ」No.5所収
写真はサイトウマコト「廃の市」撮影:Leo Labo 井上大志 咲塚せりず