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近松に直結するカタルシスとしての宝塚

 10月20日、宝塚歌劇花組公演「冬の嵐、ペテルブルグに死す」を見る。脚本・演出=太田哲則、主演=安寿ミラ、森奈みはる。

 プーシキンの「スペードの女王」を下敷きに、大望を抱きながら持て余し、周囲を傷つけ、ついには自ら崩壊していくデスペレートな青年を描いた、「清く、正しく、美しく」という宝塚歌劇のイメージを打ち破るような悲劇(惨劇)である。前回「ブラック・ジャック」でアウトローの医師を好演した安寿が、さらに影を深めて宝塚におけるヒーロー像を広げた意欲作である。

 悲劇の質は異なるが、友人の善意の無視または誤解、没落を自らの手で招き寄せるという点で似通っている近松門左衛門の文楽「冥途の飛脚」('91年8月、国立文楽劇場。吉田玉男、吉田簑助。道行きまでの部分上演)では、梅川・忠兵衛の道行の「冥途の道を此のやうに手を引かふぞや……」といった美しい詞章によって忠兵衛のやや身勝手な悲劇を昇華させることができた。しかし同じ作者の「女殺油地獄」(原宿文楽。九一年七月、近鉄アート館。簑助、桐竹紋寿)では、見る者は虚無的な強盗殺人を消化することができず、不条理な悪を抱えたまま家路につく。あえて救済を求めるなら、油店での立回りの見事さをはじめとする個々の芸にしかありえない。

 「冬の嵐」に戻ろう。この劇で恋の軸は淡い。安寿のヘルマン(落魄した詩人だったが、後に近衛少尉)とリーザ(森奈。ヘルマンの友人の婚約者)は、何度か手紙を交わし、一度カフェで密会し、次に(最後に)会うのはヘルマンがリーザの養母の伯爵夫人(美月亜優。好演)から「絶対に勝つ」というカードの秘密を聞き出そうとして脅し、夫人がショックで死んでしまった後だ。そもそも友人の婚約者という道ならぬ恋であった上に、思い違いや行き違い、ヘルマンの自暴自棄で内攻する性格もあって、リーザは運河に身を投げ、ヘルマンは拳銃の暴発で死んでしまう。彼は薄らぐ意識の中でリーザの幻を見、「君と一緒に幸せを掴もうと思っていたんだ。すぐに行くよ。君のそばへ」と言って事切れる。そしてここからが宝塚の真骨頂と言ってよかろう、二人が純白の衣装に身を包んで踊る、美しいエピローグが始まるのだ。ここで見る者は、二人のこの世ならぬ美しさを見て、死によってしか結ばれることのなかった二人を、やや戸惑いながらも祝福することができる。これは近松劇の道行に相当するが、近松ではあの世での結ばれは直接には描かれず、見る者の想像に委ねているのと対照的だ。

 実に安寿は宝塚には珍しい、闇を演じられるスターで、四月での退団は惜しんでも惜しみきれない。彼女なしにこのような惨劇が上演されることもなかっただろう。僕たちがこの劇に戸惑いながら、なお彼女らスターのレベルの高い演技に感動し、よかったねと囁きながら「花のみち」を帰るからには、宝塚で演じられる悲劇は、本当の意味でのカタルシスを実現していると言えるのではないだろうか。 (「現代詩手帖」1995年2月号)

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