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「戦後日本の作曲家Ⅳ」曲目解説から マチネ・ポエティク関連

2024年1月19日に開催したコンサート「ピアノと声楽でたどる 戦後日本の作曲家Ⅳ」のプログラム・ノートとして執筆したものです。

中田喜直(1923~2000)
「マチネ・ポエティクによる四つの歌」
 中田の初期、27歳の時の作品。中田自身が「この中で『さくら横ちょう』が一番演奏されているが四曲を通して演奏すればなおよいと思う」と記しているように、重々しい「火の島」、スケルツォの「さくら横ちょう」、ゆるやかで抒情性豊かな「髪」、フィナーレにふさわしい勢いのある「真昼の乙女たち」と、作曲家の様々な美点を余すところなく発揮する構成となっています。

 「火の島」は、福永武彦の詩によるもので、「ただひとりの少女に」と副題が添えられています。副題とは裏腹に暗鬱なイメージにあふれた詩です。意訳すると、死が馬車に乗って揺れて行くような日々に旅して、古代の美に通じて陶酔していると、暗い森はやがて緑を輝かせ、私の人生も祝福されていくようだ。明け方の星は輝くが、そこからは去り、忘却ということをおそれもせず、何度目かの夏がやってきた。火の島の夕べには憧れていた幸せを囁く小鳥が日没後の空に群れをなしている。というような内容です。
 音楽も重い調子で始まりますが、フランス近代音楽に通じる大胆で不安定な和声が見られます。連ごとの調子の転換も大胆で、冒頭の暗い不安が拭い去られたかと思うとまた襲ってくるというふうに、安定しない感情に包まれますが、最後には少し希望が見えてくるように思われます。
 福永は小説家として大成し、小説『草の花』『忘却の河』『海市』などを残しました。滅びや喪失の感覚をベースに、愛と死という大きなテーマを展開するのが魅力です。加田伶太郎の筆名で推理小説も執筆しています。

 有名な「さくら横ちょう」は、加藤周一がかよっていた渋谷区立常磐松小学校辺りの通りをモチーフとしているそうです。(左段下写真は、その近くに設置された詩碑)
 桜の季節になると、失った恋を思い出す、もう会うことはないだろうし、たとえ久しぶりに会って他愛ない言葉を交わしたとしても、それでどうなるわけでもない。そう思って桜を見よう、さくら横丁で…
 加藤にとっては、インテリ家庭の出(父は開業医)だった自分と、大工や氷屋の子だった同級生たちとの2つの世界があること(=「価値の体系」の差異)を感じさせる時代だったということです。
 加藤は「後年私はいくさの最中に、何度か桜横町を想い出した。その頃私は日本語の詩に韻を用いる工夫に凝っていたので、16 世紀のフランスに流行したロンデルの韻を借りて、桜横町の歌をつくった」と回想しています。
 詩のなかで「恋」と語られているのは、異性への恋情と限定するよりも、あの頃という時代、その情景と人々そして加藤自身への追憶だったのかもしれません。(半田侑子「『羊の歌』を読む-「桜横町」」を参照)
 調子の変化はあまり感じられませんが、終盤で音を揺らすカデンツァがあるのが特徴的で、心の揺れがそのまま音にあらわれる、珍しい処理かと思われます。
 加藤は東京帝国大学医学部を卒業、文学・文化・美術・政治など幅広い分野で評論活動を行いました。自然科学から人文科学に及ぶ広い視野、豊富な知識と教養をそなえ、戦後日本を代表する知識人の一人といえます。

 「髪」は、同人で唯一の女性であった原條(はらじょう)あき子によるものです。天の使い、波の襞(ひだ)、緑の匂い、暮れてゆく窓辺、真珠、典雅の装い、愛撫、翳る海、マリヤの聖歌、旅へのいざない、魂の夜、言葉ない宴、伽羅(きゃら)の夢、巻き毛、忘却、生を編む望み、くしけずる、花々……と、髪をめぐる妄念のようなイメージが様々に提示され、美しい中にも少し恐ろしさを感じさせるような詩だと思います。次々に押し寄せる美しいイメージは、確とした像を結ぶというより、心の奥に折り重なっていくような詩篇です。
 語るように歌い始められますが一気に音が上がり、転調もあり、ダイナミックな展開に引き込まれます。音も拍子も不安定で、狂気と隣り合わせの不安と恐ろしさを詩の言葉から引き出したような、魅力的な付曲だと思います。
 原條は神戸に生まれ、県立第一高等女学校(現在の神戸高校)から日本女子大学に進み、アテネ・フランセで福永と知り合いました。福永のすすめによりマチネ・ポエティクに参加、1944年に福永と結婚しましたが、福永の結核が判明したこともあって離婚、再婚後も詩を書き続けました。2003年に逝去、翌年子息の作家・池澤夏樹が『やがて麗しい五月が訪れ――原條あき子全詩集』(書肆山田)を刊行しました。

 「真昼の乙女たち」は、のちに小説家・評論家として大成する中村眞一郎によるものです。想像の世界の中(遠い心の洞)で緑の髪の娘たちが眠っています。(明示されていませんが主体となる「私」は)時間が経過してしまうことを恐れていますが、天の声は日時計や砂時計で時間を進めようと命じています。寝息が聞こえる中、鳥は羽ばたき始め、窓を赤い巻き毛の女たち(冒頭の緑の髪の娘ではないようです)が押し開ける……。
 三連符、半音階を中心にしながら、詩に応じて曲調がころころと変化する面白い曲です。最後の二行のところで長調に転じて、明るいイメージで終わるのですが、詩の解釈としては長調でいいのかどうか分かれるのではないかと思われます。もちろん、詩と音楽は同調する必要はなく、むしろ悲しい内容に長調をつけることで悲しさが際立つということもあり、一概には言えませんが。
 中村はフランス文学の造詣を基に、日本の古典や近代文学も踏まえた幅広い創作・評論活動を続けました。日本近代文学館の館長としても、貴重な業績を残しました。



マチネ・ポエティクについて
上念省三
(「現代詩を読む会」での原稿を改稿したものです)
 Matinée Poetiqueとは、日本語による定型押韻詩を試みるために、加藤周一、中村真一郎、福永武彦、原條あき子らが1942年に始めた文学運動です。本日お越しの方は、中田喜直の歌曲で耳にしたことがおありでしょう。戦時下に出版した場合の弾圧の危険を避けるために、朗読会の形で始まったごくささやかなグループで、日本語による詩の美的な形式について、日本の古典、フランス文学の知見から考究し、実践を図ったものです。

・日本の抒情詩の歩みをどう捉えたか
 1948年に刊行された『マチネ・ポエティク詩集』の序文にあたる「詩の革命」では、日本の抒情詩の歩みについて、
・短歌(和歌)形式の誕生
・俳句形式の誕生
・近代における象徴派(蒲原有明(かんばらありあけ)などによる)の成立
が大きな転機だったとしています。
 最後の日本近代象徴詩の成立が、彼らにとっての理想の源だったということになります。しかし近代詩の流れは、北原白秋によって保守的で江戸末期的な閉ざされた世界での小唄のようなものとなってしまった、その小規模な完成は、萩原朔太郎の口語詩によって打ち砕かれるが、同時に形式美は犠牲にされ、詩は解体へと向かうことになった、と嘆くのです。中原中也や立原道造がかろうじて古典的形式の回復(ソネット形式など)を試みようとしていたかに見えたが、戦争が押し寄せてしまった、と直近までの近代日本の詩の歴史の見方を提示します。さらに明治以降の西欧の詩の移入についてもふれ、詳しくは省略しますが、「我々は、マラルメから始めなければならない」として、象徴主義的精神の重要性を強調するのです。
 その上で、厳密な定型詩の確立が必要である、それが日本抒情詩の第四の革命であり、我々がそれを行うのだと、高らかに宣言します。瀕死の日本語からさらに多くの美の可能性を引き出し、詩の言語の不安定さや任意性を排除する、と。

・形式と内発的抒情
 この時代にフランス文学に傾倒していた彼らにとって、当時のフランス現代詩の魅力は身近の文献の中にありながら、戦時にあってはるか遠くの手の届かないものだったのではないでしょうか(1940年のパリ陥落以後フランス(ヴィシー政権)は形式上は敵国ではなくなったとはいえ)。学究肌の理論家が多かったマチネ・ポエティクの同人たちにとって、内部から出てくる言葉は、彼らの研究と憧憬の対象であったフランスを通して出てくるものであり、たとえば後に彼らを痛烈に批判することになる天性の詩人だった三好達治のようには、天与の内的韻律、無批判に湧き出てくる美しさというものは、見出せていなかったのではないかと思います。
 三好の批判は、主に日本語は母音の種類が少なく、脚韻が効果を生むのは難しいということが主だったのですが、三好のような詩人にとって、詩のリズム、韻律、音楽性……つまり言語美というものは、外的な枠組みによって規定されるものではなく、自らの内側から滲出してくる自明で所与のものでしたから、それらを形式によって付与しなければならないということについては、苛立ちを通り越して冷笑があったのではないでしょうか。

・戦後における評価
 マチネ・ポエティクが詩作品としては高く評価されなかった原因は、象徴的な表現手法が難解であったことがまず挙げられるでしょうが、難解な詩なんて、他にもたくさんあります。難解さの理由が定型押韻という形式、言語実験という名の言葉遊びと、非難されやすかったこともあるでしょう。また、戦時中は戦争協力をせず反体制的な姿勢として政治と距離を置いた立ち位置が、戦後逆に批判的に見られたということもあったでしょう。自由を謳歌する戦後に定型は古臭く反動的と見られたということもあるでしょう。結果的に、同人のなかで詩作を続けたのは、小説と並行させた中村眞一郎を除けば、当時福永武彦の夫人であった原條あき子だけだったようです。
 福永と原條の間に生まれた池澤夏樹が詩人を経て小説家となり、文学全集編纂においてマチネ・ポエティクを複数掲載したことは、現代文学史において貴重な観点だと言えるでしょう。
 現代詩において形式や音韻の問題が採り上げられると、必ずと言っていいほどマチネ・ポエティクの試みが想起されています。同詩集が二度も再版されていることも併せ、このささやかな文学運動の存在は、銘記されるべき事柄だといえるでしょう。

・声楽曲として
 中田喜直は「当時新しい詩を探していた私は、この定型詩に興味を持ち四つの歌曲を作った」と歌曲集の解説に記しています。柴田南雄が提唱して1946年に結成した音楽家グループ「新声会」の第10回作品発表会(1950年5月)で発表されたものと思われます。
 その発表会に「クープランの主題による15の変奏曲」を発表していた別宮貞雄(1922~2012)も、翌1951年に加藤周一「雨と風」「さくら横ちょう」を「2つのロンデル」(rondelは詩の押韻の形式の一)と題して作曲しています。
 必ずしもわかりやすい作品ばかりが選ばれているとは言い難く、やはり作曲家が言葉の音楽性やイメージの重なり、韻律の響きを重視して付曲したのだと思われます。
 中田、別宮ともに、全曲が演奏されることは多くないようですが、本日は中田の4曲をお送りします。
 加えて、増田建太さんによる新たな創作をお聴きいただくことで、時代を超えた新たな広がりが生まれることを期待しています。

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