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厚木凡人、身体の根源あるいはミニマルな豊穣

 東京国際舞台芸術フェスティバル'97のDance Selection'97。「裂記号」以来十数年ぶりに厚木凡人の身体の動きと、彼が創り出すステージを体験して、ぼくは彼の作品を見ることからダンスを見始めたことを、たまらなく幸福なことだったのだと改めて実感した。

 一言でいって、根源的だということ。厚木自身のソロ「10 Motions」は、深く重い堆積に立った人体ポーズ集のような、ミニマルゆえの豊かさを持つ作品だった。立って足の裏にかける重心の位置をわずかに変えてみることや肘から先を動かすことだけで、身体がどのように変化するかが美しく厳しく照らし出される。それが普段のダンス体験と異なるのは、そこから何か感情が呼び起こされるのではなく、空間の緊張を体感することだ。根源から発し、根源をめざしている。

 にもかかわらず、彼のステージは、実在のつっかえ棒を外すような奇妙なユーモア感覚に溢れている。厚木の真面目くさった椅子とのデュエット、スターダンサーズバレエ団の遠藤康行と厚木三杏による「Duo」でのパネルを使った優雅で滑稽なシーソー、7人のダンサーによる「窮屈な視野」のポリバケツのキャッチボールなど、それは主に小道具を使ったときに現れたように思うが、あるいは異物=他者とのコミュニケーションにおける何ともいえない居心地の悪さを仄めかしているのかもしれない。

 あるいはそのユーモアは、身体の、表現の滑稽さについての厚木独特の含羞の表現なのかもしれない。「Duo」のラストで、二人がバッハをバックにパネルを足で押し合うという部分がある。愛の交歓の表現として、実に美しく、しかもとんでもなく滑稽だ。そして溶暗の後、美しい愛のドラマのエッセンスを一瞬に体験したような心地好い疲労が残っているのに気づく。削ぎ落とされた果ての豊穣に、身は包まれている。

(1997年9月20日、東京芸術劇場小ホール1)(「JAMCi」'97年12月号掲載)
厚木凡人さんは、2023年4月19日にお亡くなりになられました。あなたの存在を、わすれません。
https://digital.asahi.com/articles/ASR4T5ST8R4TUCVL018.html

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