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ドラゴン・タトゥーのシズらない男
デビッド・フィンチャーの映画に登場する食べ物って本当に作り物っぽい。極力食べ物をシーンに入れたくないんじゃないのかなと思うほどに。
彼のキャリアはMVからで、マドンナやNINなんかのMVを観てみるとすこぶるスタイリッシュで格好良い。すこぶるスタイリッシュとただのスタイリッシュンは大きな壁があってすこぶる付きには作り手側に一切の照れもハズし要素も用意しない。だからどんな出自の人にも清々しいほどにカッコよく思えて、揶揄するのは野暮と思えてしまう。完璧に計算された画作りと一切の妥協を許さないスタンスと、なによりかっこよさの基準がはっきりと全方位に向けている。なんというかフェラーリっぽさがある。
それがうまく機能したのはマドンナやトレント・レズナーみたいなスタンスのミュージシャンが彼に全権を与えていたからだろうし、歌詞やメロディという饒舌な要素(エクスキューズでもある)が既にあったからだとおもう。
その流れで乗り出した処女作のエイリアン3ではすべてが裏目に出てしまい本当に大変だったのだと思う。自由でイノベーティブなベンチャーから財閥系のメーカーにうっかり移籍してしまった悲劇に近い。
しばらく引きこもった末、半ギレで作った「セブン」は名作になった。その後は「ゲーム」「ファイトクラブ」などヒット作を放ち途中「パニックルーム」とかなぜ撮ったかわからない作品もはさみつつ現在につながっているわけだけど、ふと、共通した疑問がうかぶ。
フィンチャーの作品に登場する食べものは一様に全くシズらない。シズらないどころか不味そう、というか作り物っぽい。人間が何かを食べているところとか、料理のコントロールできないカオスな造形に対処できないのかよくわからないけれど、飲食を小道具や状況説明としてしか使っていないように思える。
例えば、長時間待ったことを表す煙草の吸殻、ストレスを示すやめていたタバコを一箱買って一本だけ吸ってあとは捨てる、ギークの部屋には食べかけのファストフード、のこのような陳腐で記号的な演出をわざとやる人なのだ。常套句とも言える表現なので普通は危険なのだけれどもなぜかしつこくやるし、それがギリギリかっこよく見える。
「ドラゴン・タトゥーの女」もかっこいい映画だ。フィンチャー的スタイリッシュをうまく表現できる条件が全部ある。
この作品はもともとスウェーデン人作家スティーグ・ラーソン作の小説「ミレニアム」3部作の第1作目を映画化したもので、小説は本国で大ヒットしてその後世界的にも大ヒットした。1作目だけで3000万部というと、「華麗なるギャツビー」や 「1984」等と同等の累計発行部数ですごい数字だ。最近は基本的にどこの国でも活字だけの出版物ははそんな大きな部数は出ない。いくつかの要素が絡み合わないとこんな数はいかない。その理由は謎解きミステリとしてできが良かったこと、スティーブ・ラーソンが小説家ではなく編集者だったため文学的な表現を一切しなくてとても読みやすい文章だったことにくわえ、ホームズとワトソンの関係を解体した、社会的地位があり熱意も知性もあるがポンコツな中年モテ男と社会不適合でギフテッドな若い女性のバディという現在は無数にあるパターンを発明したからでもある。
そのうえ、文学における抑制を一切学んでいないゆえそこから自由に小説を書いているから、なんというかガンズ&ローゼスとかメタリカとか日本でいうとX Japan的な中央値的な格好良さがある。
フィンチャーが映像化するにあたってベストな要素が満載なわけだけど、やっぱり登場するすべての食物が不味そうだ。
ダニエル・クレイグがルーニー・マーラーと打ち解けようとテイクアウトしてくるファストフードは猫の餌付けのためのキャットフードに見えるし、スウェーデンの富豪が振る舞う最高のステーキはゴムの塊にしか見えないし、カフェのカウンターに陳列されているスコーンは食品サンプルにしか見えない。
やっぱり制御できない有機物の最たるものである料理はフィンチャーにとって箱に入れてしまい込んでしまいたいものなのだろうか。
制御できない有機物の最たるものって、そういえばエイリアンもそうだよなぁ。失敗するはずだ。
セラーノ