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日記:生きる希望はフィクションやエリートどもではなくマジで戦っているもの達からしか得られない
ちょっと前に神保町のブックカフェでトークイベントを聞いてきた。先天性ミオパチーという生まれつき全身の筋肉に病気のある子をモデルにした絵本の記念イベントだ。
自己主張が強いビジネス顔をした作家のババアと社会福祉士のジジイの話はマジでどうでもよかったんだけど、絵本のモデルになった子の話が興味深かった。ぜんぜんベッドや椅子から動けなくて磔みたいになってるのに、ボードゲームとかは友達とできるらしく、また親の援助を受けたくなくて自分の意思で福祉施設に飛び込んだりして、今はウェブ系の仕事までしているそうだ。それで将来は一人暮らしを夢見てお金を貯めていて、ボードゲームカフェも作れたらいいなと語っていた。
一人暮らしがしたいってのは親近感が湧く。でも不自由さのなかでの真剣な願いだし、その目標を叶える為に必死に見えた。ああこの人は叶えるんだろうなとヒューリスティックにわかった。
そのマジな姿をみてると、ああ俺はほんとうに何をやってるんだろうなと思う 喜屋武京介の冷笑や悪口のあだ名に喜んで、人生の無意味さを達観したと嘘吹き無為な時間をごまかしアニメのつまらなさを嘆きながら高尚なものとして扱って怠惰を正当化しようとする。バカ踊りだ。「誰か殺してください」という祈りも不条理の大岩に潰されひしゃげた自分は可哀そうなので誰か丁重に扱ってくださいと臭気を放っているだけにすぎない。
あの磔の、人工呼吸器無しでは生きれない男が光源として俺を照らすのだ。自分が秘めていた本当にありたかった姿の影がくっきりと見えた。
こう書いたものの、がんばる欠損者を聖人みたいに扱ってありがたがるのは正直嫌だ。24時間テレビでガイジのガキがパーフェクトヒューマンを踊らされてハイ感動という見え透いた、意図された表現には気持ち悪さを感じるし、なにより不愉快だ。体験や人間をパッケージ化して切り売りし、人を道具のように演出の舞台装置として扱うのは恨めしい。俺たちは誰かに支配されるモノじゃないと言いたいから。
生まれた時からすべてが無く、またある日突然奪われた者達。障害という身体的な生存に関する欠損を不条理に引き受けた者達。こいつらがただ己の人生を呪わず、ただ自分なりの夢や目標を見つけあがいてるだけでいい。別に富士山に無理して登る必要もないし、変なダンスは踊らなくていい。
俺はパラリンピックを見るのが好きだ。水泳、ボッチャ、ゴールボールとかは放映されてたら好んで見ていた。その代わりにだけど、普通のオリンピックの柔道や卓球って何が面白いのかまったくわからない。生まれた時から両親のコピーとしてスポーツエリート教育を受け最強の兵器に育った最強キャラ同士の決戦対決って何が面白いんだ。スポーツマシーンとして育てらたわけでもない奴らが己と向き合いながら戦い、その中で頂点を決めようとするパラリンピックは熱すぎるだろ。
エリートの成功者が褒めそやされるけど、そんな奴らの言うことなんて聞く必要ってある?ホリエモンと全身だるまの水泳選手の講演のどちらに行こうか悩んだら、迷わず後者でいい。
大成功するためのマインドとかいらねぇから、ただ明日を戦い抜く戦士としてのみなぎる力がもらえるのがよい。
俺たちはマジでこの不条理との戦争に失意に飲まれず戦い続ける必要がある。戦争には攻撃と防御があるが、どちらも銃を撃つことには変わりない。生き続けるにはいますぐ攻撃する意思表示をしなければならない。そのための呪文を教える。それが「ANGRIFF」である。これを叫び、救済されるとよい。