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『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』 著者・伊藤彰彦ロングインタビュー(前編)

聞き書きの名手である映画史家・伊藤彰彦が2021年に発表した最後の角川春樹(毎日新聞出版)に続く「80年代日本映画史探訪第二弾」にして最新刊にあたるなぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか(講談社+α新書)。
主人公となるのは1962年に日活入社後、助監督を経て71年にロマン・ポルノのプロデューサーの道へ進んだのち、一般映画も手がけて数々の話題作を世に送り出した岡田裕(おかだ・ゆたか)。超大作からインディペンデント作品まで、そのプロデュース作品の幅と製作背景は混沌のひとことに尽きる。
岡田へのインタビューを縦糸に、映画づくりを共にしたスタッフたちの証言を横糸にして群像劇のスタイルで織り上げた本書は、あの時代たしかに存在した熱狂の源を現代の視座で捉え直す。ここには80年代日本文化史ドキュメンタリーの趣も読み取れるだろう。
また大阪シネ・ヌーヴォでは、本書の出版を記念した特集上映〈80年代映画祭──岡田裕とその時代を10月26日から11月15日に渡って開催し、13本の岡田裕プロデュース作を上映する。80年代映画の特色「冒険主義」や「多様性」を体感する絶好の機会だ。
さらに著者へのロングインタビューを通して、本書と80年代映画が放つ熱気と魅力を掘り下げたい。
(取材・文/吉野大地)
 

『復活の日』(80)
──1960年生まれの伊藤さんが、岡田裕プロデューサーのお名前や存在を意識したきっかけから伺えればと思います。

 1980年代前半、『月刊イメージフォーラム』(ダゲレオ出版)のある号に岡田さん、黒澤満さん、伊地智啓さんの3人──伊藤亮爾さんも加わっていたかもしれません──の〈80年代はプロデューサーの時代だ〉という鼎談が掲載されていて、そこで岡田さんの名前と、岡田さんたちが立ち上げたニュー・センチュリー・プロデューサーズ(以下、NCP)という会社の存在も知ったんだと記憶しています。
僕は「日本映画の黄金期」は1930年代、1950年代とともに、1984~1985年だと思っています。「日本の撮影所文化」は、1981年に日活が社員をすべて契約社員にした時にほぼ終わりますが、81年にNCP、82年にディレクターズ・カンパニーが設立され、今では考えられないほど多くのテレビや雑誌が注目します。そのあと、84年にメリエスが設立され、NCP=プロデューサーの会社、ディレカン=監督の会社、メリエス=脚本家の会社が「あらたな撮影所」を形づくり、そこからエッジの立った映画が続々とつくられるという期待感、高揚感が高まりました。これらのムーブメントも重なり、作品がもっとも充実していたのが84年~85年だと思います。

 ──十章から成る本書の第一章は〈『復活の日』──角川「国際超大作」のラインプロデューサー〉。岡田さんは公開時に日本最大の製作費の映画のライン(現場)プロデューサーに就きます。章の冒頭にある脚本をめぐるやり取りだけで驚きますが、聞き手の伊藤さんはどう捉えられたでしょうか。

 岡田さんはほんとうに映画をよく知っている、とくに脚本が読めるプロデューサーです。今回、シネ・ヌーヴォで出版記念特集を開催するにあたり、岡田さんにチラシ用の作品解説をお願いしました。解説はたいてい作品の長所を書くものなのに、岡田さんは『復活の日』を、「超大作にしてはラストが弱く、原作の持っている欠陥を映画が乗り超えられなかった」と書く。もう少しいいことを書き足してくださいとリクエストしても、「小松左京の原作小説のラストが弱い。それをそのまま踏襲した高田宏治、グレゴリー・ナップ、深作欣二の脚本チームのラストも弱い」ときっぱりおっしゃる(笑)。岡田さんには脚本の弱さが見えていたんでしょう。けれど、角川(春樹)さんはラストの脆弱さを、世界各地の映像をつなぎ合わせて力業でねじ伏せようとした。二人の間には葛藤があったと思います。岡田さんが具体的な改稿案まで出したかどうかはわかりませんが、「ラストをもう少し何とか出来ないか」と意見されるのは、総合プロデューサーの角川さんにとっては煙たいことです。ラインプロデューサーの岡田さんが最も透徹した目で脚本と映画を見渡していたのではないかと思います。

 ──角川さんがアメリカ人脚本家の脚本をキャンセルし、2千万円を無駄にする逸話も語られます。

 普通のプロデューサーであれば、大枚をはたいた脚本なら使うだろうし、キャンセルするにしても「使わなかったから」と半額に値切るでしょう。けれど角川さんは捨てた脚本にポンと2千万円を払った。脚本という映画の設計図をいかに角川さんが大切に考えていたかが分かります。そして岡田さんも、いまだに「ラストが弱い」と悔やみ続けているように、映画の土台である脚本を重要視し、脚本家を尊重するプロデューサーです。

 ──本書は映画的構成・編集が成されていて、脚本の重要性がこの章以降の展開に伏線的に関わって来ます。第一章はこのあとも規格外の証言の連続ですね。そのなかで特に驚かれたものをひとつピックアップしていただけますか?

当時のチリのアウグスト・ピノチェトは3千人以上の民間人を虐殺して、世界各国が国交を絶とうとするほどの反民主的な独裁者でした。その政権に利益供与して海軍から潜水艦を借りる岡田さんの行動力と、「映画のためなら独裁者とでも手を組む」岡田さんの活動屋魂にいちばん驚きましたね。
本書には書いていませんが、『復活の日』をつくるために角川さんは潜水艦を借りてピノチェト政権に貢献した。そしてその後、「野生号Ⅱ」という船で、下田からチリまで航海するんです。それに感激したピノチェトは、日露戦争でロシアと戦うためにチリの戦艦(のちの「和泉」)を買った東郷平八郎以来100年ぶりに、チリ海軍のもっとも栄誉のある賞を角川さんに授与します。大量虐殺をおこなった軍事政権の大統領から勲章をもらってニコニコしていた角川さんはいかがなものかと思います(笑)。
片や、潜水艦を平気で借りて南極まで持って行く岡田さんは、いまならミャンマーの軍事政権から戦車を、習近平から潜水艦を借りてフィリピン沖に浮かべて映画を撮るようなものです。それに南極は非軍事的で中立的な地域だから、本来は潜水艦を浮かべてはいけない。コロナ禍の間に、『復活の日』の配信は海外からのアクセスも多く、再生回数が1千万を超えました。公開当時に海外で同様の反響が起きていれば、角川さんも岡田さんも国際的なバッシングを免れなかったはずです(笑)。

 ──海外セールスに失敗してよかった面もなくはないですね(笑)。続くグレン・フォードがテイクを重ねた逸話を読んでから観れば、より『復活の日』を楽しめるかと思います。ここでの伊藤さんの「日本人俳優とアメリカ人俳優のカットバックがうまくいっていない」という指摘は的確です。ただ、今となってはそれも見どころかもしれません。

 映画を観返し、かりに現代の気鋭の作家である濱口竜介や三宅唱が『復活の日』を撮ったら、日本人とアメリカ人の芝居のコンビネーションはどうなっただろうと思いました。80年代の日本の俳優は、当時のアメリカでは上手くないグレン・フォードのナチュラルな芝居にくらべると、ひたすら大仰で、日米の演技の質の違いに愕然とさせられます。この違和感は80年代の日本映画に外国人俳優たちが出演し、日本人が演出した時にも感じました。けれど、是枝裕和や黒沢清がフランスで撮った映画になると、その問題が解消されているんですね。

──各章のインタビューは、そこに登場する監督の作家論としても読めて、第一章では深作欣二監督の本質が垣間見えます。

 『復活の日』と同じ80年に公開された『影武者』(黒澤明)は、第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、「キネマ旬報」でも高い評価(第二位)を得、興行収入でも『復活の日』を上回ります。けれど、『復活の日』は『影武者』の十倍は面白いですよ。
それが当時は、反体制的なヤクザ映画などを撮ってきた深作欣二が、角川の大資本に迎合して、女性や子供向けの大作を撮ったという批判が評論家の間に根強くありました。しかし岡田さんが見抜いたとおり、遺作『バトル・ロワイヤルⅡ鎮魂歌』(03)に至るまでの深作のテーマ「国家対個人」が『復活の日』でも貫かれています。

 ──公開時『復活の日』は大ヒットしますが、製作費をリクープすることは出来ませんでした。それでも本書を読むと、この映画が角川映画の大きな転換点になったことがわかります。コロナ禍を予見したことに加え、80年代映画の破天荒と夢が詰まった作品ですね。

 その通りです。角川映画の集大成の『復活の日』はアメリカでは商売になりませんでしたが、角川アニメーション第一作『幻魔大戦』(83/りん・たろう)は世界中に売れました。キャラクターを描いた大友克洋の人気とともに、「ハルマゲドン」というキーワードも世界に広まりました。『幻魔大戦』は『AKIRA』(86 /大友克洋)とともにジャパニメーションの先駆けですね。

(『復活の日』予告篇)

 『桃尻娘シリーズ』(78-80)
──続く第二章は〈『桃尻娘シリーズ──ロマン・ポルノのアイドル化〉。女性の性意識の変化など社会の空気の変化も伝える章の最初で、プロデューサーたちの会社=NCPの発足(81年)の経緯が語られます。これも現在の日本映画界では成り立たない、岡田さんだから出来たことではないでしょうか。

 NCP発足の背景には日活の衰退があります。70年代後半にロマン・ポルノがだんだん飽きられてきて、80年代初頭にAVが登場し、さらに経営が悪化し、会社が正社員の社会保険料を負担できなくなります。会社は本数に応じて1本ごとに契約するから企画部はいらない、プロデューサーのみでいいと謳いますが、要するに正社員としての雇用が負担になり、契約社員にしたいわけですね。岡田さんたち6人のプロデューサーが日活からリストラされ、やむなくつくった「非正規ユニオン」がNCPです。

 ──現在社会と同じ問題が起きていたんですね。

 そうです。「ニューセンチュリー・プロデューサーズ」は「新世紀のプロデューサーたち」と社名こそ気宇壮大ですが、非正規社員が氷河期を生き延びるために発足した会社でした。80年代初頭に日活の功罪が浮き彫りになります。
少なくとも81年まで、東宝や東映が正社員の募集を打ち切ってスタッフを契約社員にするなか、日活だけは正社員を雇用していました。ロマン・ポルノ作品を量産して、いろんな面で技術スタッフが育成され、研鑽を積める唯一の撮影所でした。これが日活の大きな功績です。
いっぽう、日活は81年で息が切れて、プロデューサー全員を一挙に外に出してしまう。追い出されたうちの6人が集まり、いちばん営業力がある岡田さんが社長になり、赤坂の四畳半ひと間の部屋を借りて、電話一本引いて事務所にしました。
「白子のり」というスポンサーが付いていたディレクターズ・カンパニーと異なり、資本のないNCPは日活の下請け会社として仕事を始めます。

──本書は日活のそうした裏面史も描いていると感じます。

 この本は日活の高木希世江さん(「ロマン・ポルノ・リブート」の企画者)の協力なくしてはできませんでした。高木さんが根岸吉太郎、金子修介、中原俊監督、山田耕大プロデューサーを紹介してくれ、ソフト化されていない岡田作品をDVDに焼いてくれた。60年代から80年代末までの岡田裕さんを語り部にした、光と影もふくめた日活映画史が書けたのは、高木さんや谷口公浩さんら日活の方々のおかげです。

 ──読むうちに80年代の様々な記憶が甦ります。『復活の日』公開時の自分は小学生6年生。テレビや新聞でよくCMを見かける角川大作のプロデューサーが同時代にロマン・ポルノも手がけているとはつゆ知らず、想像さえ出来ませんでした。

岡田さんはロマン・ポルノ以前の石原裕次郎や小林旭のアクション映画時代に日活に入社して、一般娯楽映画を経験しています。71年にロマン・ポルノがスタートしても、もともとピンク映画の脚本をアルバイトで書いていたからポルノに偏見がない。ロマン・ポルノが順調に続いていれば、ずっとプロデューサーをやっていたのでしょうが、陰りが見えて日活は外貨を稼がないといけなくなる。そこで社長の根本悌二は岡田さんに「角川映画に出稼ぎに行ってこい」と。
岡田さんの『復活の日』のギャラはにっかつに振り込まれていました。にっかつの思惑は、ラインプロデューサーである岡田さんの給料の上前をはねることと、「お前がプロデューサーをやって、にっかつ撮影所に仕事を持って来い。にっかつのスタッフを使ってくれ」ということでした。

──そのような事情があって、ひとりのプロデューサーが複数の会社の多様な映画をつくっていた、と。角川映画はメディアミックスの成果で子供にも情報が届いていましたが、当時はスタジオを持ち、専属スタッフがいるものだと思い込んでいました。

角川映画は撮影所も映画館も持たない初めての映画会社でした。たしかに、当時の観客は、角川映画とロマン・ポルノは対極にある映画だと思ったでしょうね。
製作サイドの状況として、70年代から80年代にかけての日活撮影所は、Aステージでロマン・ポルノ、隣のBステージではホリプロの山口百恵の映画、その隣のCステージでは東映の高倉健の映画や、角川映画を撮っている稼働状況でした。撮影所で山口百恵と美保純と高倉健はすれ違っていたはずです。
アイドル映画や角川映画やロマン・ポルノや火曜サスペンスでスタジオをフル稼働させないと、にっかつは食べていけない状況だった。同様にリストラでにっかつの外に放り出されたNCPも、とにかく受注されたものはすべて引き受けた。撮影所で培った予算や脚本を読む技量、役者の所属する芸能プロダクションとのつながりが役立ち、6人のプロデューサーたちはありとあらゆる現場で活躍しました。
また、当時は日活の若手監督だった根岸岸太郎や池田敏春が角川映画の現場へ行き、キャメラマンの前田米造が『家族ゲーム』(83/森田芳光)と『お葬式』(84/伊丹十三)を撮っていた。これらの映画は全部にっかつ撮影所で撮られ、助手からスタジオ係までみんなにっかつのスタッフでした。そうした仕事をにっかつに持ってくるのがNCPの役割、岡田さんの仕事だったんです。

 ──色々な点が線になります。第二章では今回の特集で上映される『桃尻娘 ラブアタック』(79/小原宏裕)の主題歌を亜蘭知子さんが手がけたことへの言及が見られ、これもモダンな視点だと感じます。どのように着眼されたのでしょう。

2010年代に日本のシティ・ポップが海外で高く評価され、亜蘭知子のアルバム『浮遊空間』(83)の中の「Midnight Pretenders 」がカナダでカヴァーされたことは知っていましたが、亜蘭さんが夫の長門大幸さんと一緒に「ビーイング」(BOØWY、LOUDNESS、B‘z、ZARDなどをデビューさせた音楽制作会社)を創立したことを教えてくれたのは、『映画秘宝』編集長の寺岡裕治さんでした。彼はレコードショップに勤めていたから音楽に詳しい。
それに、『最後の角川春樹』(2021/毎日新聞出版)の時、松本隆のブレーンから角川映画の音楽プロデューサーになった石川光さんに取材し、シティ・ポップと映画の蜜月が80年代にあったことを知りました。『ねらわれた学園』(81/大林宣彦)の主題歌『守ってあげたい』は、松任谷由実が映画のために書き下ろした曲です。
そして『セーラー服と機関銃』(81/相米慎二)の主題歌は、来生たかおの『夢の途中』を改題して主演の薬師丸ひろ子に歌わせた。『スローなブギにしてくれ』(81/藤田敏八)で『摩天楼のヒロイン』(73/松本隆がプロデュースした南佳孝の1stアルバム)という傑作アルバムをつくった南と松本をふたたび組ませたのも、『蒲田行進曲』(82/深作欣二)で中村雅俊の『恋人も濡れる街角』を流したのも、みんな石川光さんです。
アーティストの楽曲をアイドルに歌わせ、70年代ポップスの成果を商業的に大きく実らせたのが角川映画です。『探偵物語』(83/根岸吉太郎)のサントラがその白眉だと思います。薬師丸ひろ子が歌った主題歌の作曲は大滝詠一、作詞は松本隆。音楽監督を加藤和彦がつとめ、秋川リサがマンボを歌うという豪華絢爛たるサウンドトラックは角川映画ならではです。

──それを踏まえて『桃尻娘』シリーズの音楽を亜蘭さん・長戸さんが手がける話題に広がるんですね。根岸監督が語る、ロマン・ポルノ作品に南佳孝さんや近田春夫&ハルヲフォンの音楽を使った逸話も日本ポップス史を考えるうえで欠かせません。

近田春夫&ハルヲフォン『いえなかったんだ』
(「暴行儀式」(80/根岸吉太郎)挿入歌

 ロマン・ポルノではカシオペア(フュージョン)やクリエイション(ハードロックバンド)の曲ががんがん流れ、角川映画ではビートルズ(『悪霊島』)やローリング・ストーンズ(『花のあすか組!』)も使われます。ロマン・ポルノや角川映画は音楽のクオリティを引き上げた。70年代から80年代のポップスの流れに、他の日本映画は追いつけていないと思います。

 ──70年代末からロマン・ポルノの音楽が、特に2010年代以降に再評価される広義のポップスに移り変わっていったのは興味深いです。それからこの章で初めて80年代の時代性を示す「軽い」というキーワードが出てきます。当時の伊藤さんはそれを実感されていたでしょうか。 

70年代半ばは、酒場に行くと一世代上の全共闘世代の人たちから「お前らはそれでいいのか、社会をどう考えているんだ」と理屈っぽい話を吹っかけられ、川崎や横浜の映画館には港湾労働者の人たちの殺気がありました。けれど、70年代が終わりに近づくと、全共闘世代に人たちは家庭を持ち、港のコンテナ化で港湾労働者が映画館からいなくなり、代わりにファッショナブルな黒い服を着た人たちが田舎から都会にやって来た。80年代にかけて角川映画が登場し、ニュー・アカデミズムブームが起こり、パルコや西武が象徴するセゾン文化が台頭してきて、雑誌文化とミニシアターの黄金時代が始まります。
80年代前半に街がしだいに綺麗になっていき、CM制作会社でアルバイトしていた僕の手取りも少しずつ上がっていきました。85年を過ぎると東京は24時間都市になり、残業が増え──今では考えられないことですが──アルバイトしながら好きなことをやって食べて行ける時代がやって来ます。
映画・映像業界でも、コマーシャルと映画を掛け持ちして、助監督をやって食べていける。そのあいだに企画を考えて、監督になれる人はなるんだろうな、という気分がありましたね。ロス・ジェネ世代とまったく異なり、背広を着なくても生きてゆけて、生活は生活と考え、適当に働きながら好きなことを追求できた。その点が現在とは大きく違っていました。80年代には独特の「浮遊感」と「虚無」がありましたね。

 『ヨコハマBJブルース』(81)
──その「浮遊感」、当時の気分に言い換えれば「空気」「ニュアンス」は映画にも様々な形で反映されていきます。第三章〈『ヨコハマBJブルース』──松田優作の「素」の世界観〉では、こんなふうに工藤栄一監督が『ヨコハマBJブルース』をつくっていたのかと思わされます。

 音楽にたとえると、セッションのように余白が多い映画作りも、まだ映画界に余裕があった80年代ならではないでしょうか。日本映画はロマン・ポルノ以降、より自由になった気がします。ロマン・ポルノは、東映や松竹の1時間半の映画のような起承転結がなくてもいい。序破急とか、いろんな構成があり得ていい。どこで終わっても構わない、あるいは終わりだけ決めておいて、中間は現場でどのように作り上げてもいい。70分の映画はそのように作られて、それまでにない形の映画がそこで出来たと思います。

 ──ロマン・ポルノは70分で語る映画でした。

東映ニューポルノの深尾道典監督・脚本作『女医の愛欲日記』(73)などは50分台です。50分だとテレビドラマ1時間分でけっこう窮屈。あと20分長いロマン・ポルノにはより自由があったと思います。

──『ヨコハマBJブルース』の脚本を手がけた丸山昇一さんの証言では、松田さんが持ってきた着想源が『クルージング』(80/ウィリアム・フリードキン)の物語ではなく「音楽」だけだったと。

優作さんは映画のサウンドトラックだけを聴かせ、小説の一行、漫画の一コマだけを見せて、「丸山、これで書いてくれ」と註文したそうです。松田優作が出ていれば客が満足する。大ヒットにならずとも優作さえ出ていれば一定の人が来るはずだという、映画の背後に観客がしっかり存在し、興行成績が保障されているがゆえの自由さがあったと思います。とくに東映セントラルフィルムは東映の傍流だから、自由で実験的な現場で作っていく余白を残した映画製作が出来ました。
3本のうち1本はヘンな映画があってもいい、そのうちの1本が当たればいいという、プログラムピクチャーの時代──80年代はその最終期でした──の大らかさや、工藤栄一や神代辰巳たちが携わったテレビドラマ『傷だらけの天使』(74-75/日本テレビ)からの影響も感じられます。

(『クルージング』予告篇)

 ──第二章と第五章に、松田優作さんと『傷だらけの天使』主演の萩原健一さんが隣り合わせで撮影していた逸話があります。

第五章では、松田優作主演の『家族ゲーム』と萩原健一主演の『もどり川』(83/神代辰巳)が日活撮影所の隣のステージで撮影されていたことを岡田さんが語っています。『家族ゲーム』は「ニューヨーク・タイムズ」やカンヌ国際映画祭などで国際的に評価されて、森田監督が世界に羽ばたくきっかけになりました。
一方の『もどり川』は、ショーケン(萩原)の大麻事件で公開打ち切りになり、製作・総指揮をつとめた梶原一騎の三協映画が大打撃を被る。カンヌでも『楢山節考』(83/今村昌平)、『戦場のメリークリスマス』(83/大島渚)とともに上映されたものの、正当な評価をされなかった。隣で撮影していた『家族ゲーム』の側から『もどり川』を見た岡田さんの回想には、その明暗、両作の行く末めいたものが朧に浮かび上がっています。

( 『ヨコハマBJブルース』予告編)

『ダブルベッド』(83)
──第四章は〈『ダブルベッド』──大物歌手と女優が続々と脱ぐ「エロス大作」〉。ロマン・ポルノの新企画「エロス大作」というフレーズはいつからか目にするようになりました。その起点までたどり直す山田耕大さんへのインタビューも滅法おもしろいですね。

「エロス大作」というフレーズがいつから使われたのか。山田さんのお話で初めて判明しました。
僕が「エロス大作」として記憶しているのは、レイモン・ラディゲ原作の『肉体の悪魔』(77/西村昭五郎)。野平ゆき主演で、白坂依志夫が脚本を書いた作品ですね。それから藤田敏八監督の『危険な関係』(78)。原作はピエル・コデルロス・ド・ラクロの小説で、1958年版はジェラール・フィリップとジャンヌ・モローの共演で映画化されて、藤田版はモローの役を宇津宮雅代が演じています。この辺りからロマン・ポルノが文学づいてきて、本を読むよりロマン・ポルノを観るほうがいいみたいな感覚がありましたね。ラディゲを読む代わりにポルノを観ようと(笑)。

 ──そのほうが早いと(笑)。

 書を捨てて「エロス大作」を観よう(笑)。日活のエロス大作の起源は、今村昌平監督の成人映画『にっぽん昆虫記』(63)でしょうね。この映画は63年の興行収入ランキングで1位になり、『キネマ旬報』63年度ベスト・テンでも第1位、左幸子がベルリン国際映画祭で主演女優賞を獲得するなど、興行と批評ともに成功した映画でした。『にっぽん昆虫記』に続く「文芸エロス作品」が、64年の中平康監督の成人映画『猟人日記』、『砂の上の植物群』、『おんなの渦と淵と流れ』です。『砂の上の植物群』と『おんなの渦と淵と流れ』の稲野和子は脱がなくてもエロティックに見せることに長けた女優で、中平康とのコンビが抜群に良かった。

──この中平監督の3作は、岡田さんが助監督に就いておられました。やはり本書は日活映画史に新しい補助線を引く側面を持っています。そのコンセプトは当初からありましたか?

 いままで日活作品では今村昌平―浦山桐郎といった土着派の作家のみ評価が高く、中平康―藏原惟繕といったモダニストの作家は軽佻浮薄と軽んじられていました。けれど、僕は『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』で、岡田さんが就いた中平、藏原に藤田敏八と根岸吉太郎を加えた「日活モダニスト」の作家たちの再評価を促したいと思いました。
そこで、岡田さんに藏原監督の思い出をたっぷり伺い、根岸吉太郎監督、藤田監督の脚本を書いた荒井晴彦さんにインタビューしました。「日活モダニズム」のオーラルヒストリーを作っておこうというのが本書の目的の一つです。
滝田洋二郎監督も一般映画の監督になられてからは、80年代の作品に関するインタビューが少ない。本書の第七章になる『コミック雑誌なんかいらない!』(86)のことを伺うのは貴重な機会でした。

 ──第一章『復活の日』のお話で、カットバックの話題に触れました。『ダブルベッド』(83/藤田敏八)の話題へと進むと、岡田さん、荒井さん(脚本)、山田さん(企画)の証言が連なります。このインタビューは、おひとりずつ取材されたものをカットバック的に構成されたのでしょうか。

 個別に取材したものを山田さん、荒井さん、岡田さんが同席しているかのように書いて、ゲラを全部チェックしてもらい、「この繋がりはおかしい」「ここは入れ替えた方がいい」と意見をいただきました。3人が集まって鼎談で話しているとしてもおかしくないよう編集したものに、さらに手を入れていただく形で構成しています。

 ──紙の上のカットバックがうまくいっていると感じました。

 でも、受け答えがちゃんとしたリアクションになっていなくて、少しズレているところが面白いと思います。たとえば岡田さんの話を受けて荒井さんが話しているわけでなく、逆に山田さん、岡田さんも荒井さんの話を聞かずに勝手に話しています。そこで生まれるズレが面白いんじゃないか、と。

──根岸監督の証言も加わり、立体的な作品・作家論になっています。この章は「エロス大作」以降のにっかつの路線変更と88年のロマン・ポルノ終焉を、同時代の社会事象と絡めて閉じることで時代の空気を捉えています。藤田監督といえば、今回の特集に『妹』(74)も入っています。「80年代映画祭なのになぜ70年代前半の作品?」と思われる方がいるかもしれません。セレクトに関して教えてください。

 最初は第八章で取り上げた『海へ See You』(88/蔵原惟繕)を上映して、岡田さんに蔵原監督についてトークしてもらおうと考えました。でも、東宝に貸し出しできる完全なプリントがないんですよ(字幕が入っている箇所が欠落)。
となれば、国立映画アーカイヴから借りるしかないけれど、上映日数などの制約があって、残念だけどあきらめざるを得ませんでした。
そこで先ほどお話しした、日活モダニズムの系譜の中で重要な岡田さんのプロデュース作品は何かと考えて、『赤ちょうちん』と『妹』(ともに藤田敏八)を候補にしました。内田栄一脚本で、伊丹十三も出演している『妹』の方が良いかなと思って岡田さんに提案すると、「いいね」と即決され、サイトとチラシ用の文章を書いていただきました。「秋吉久美子演じる主人公があたかも幽霊のように描かれた脚本だ」という、岡田さんが『妹』を大好きだということがありありと分かる良い文章でした。だから上映してお話を伺おうと。

かぐや姫『妹』
(『妹』主題歌)

 ──『妹』もいま観ると様々な発見のある作品かと思います。なかなか不思議な映画で……

内田栄一の脚本が素晴らしいですよね。内田さんは『竜二』(83/川島透)の主演・脚本の金子正次と同じ劇団「東京ザットマン」出身。金子や伊藤猛を世に送り出した功績以外にも、『スローなブギにしてくれ』(81/藤田敏八)、『水のないプール』(82/若松孝二)、『永遠の1/2』(87/根岸吉太郎)といった優れた脚本を書いています。とともに、魅力的な未映画化作品『熊楠 KUMAGUSU』(山本政志)や『盆踊り』(金子正次原作/高橋伴明)や『つっぱりトミーの死』(長谷川和彦)の脚本も内田さんが手がけていて、まだ真価が見定められていない脚本家です。ですから、『妹』を上映してぜひとも岡田さんにお話を聞きたいと思いました。

 ──主題歌はかぐや姫の同名曲。この特集は、音楽の変転を含めた80年代映画を形づくる文脈も読めるプログラムです。

 最終的に決めたのはシネ・ヌーヴォの山﨑紀子支配人です。特集には山崎さんのプログラマーの力量が遺憾なく発揮されていますね。物騒なデザイン──ビートたけしが日本刀を振り上げているメインビジュアル──が最高ですね(笑)。
(ロングインタビュー後編に続く)

『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』
講談社+α新書 224ページ
2024年4月19日発売
定価:1,210円(本体1,100円)
シネ・ヌーヴォ
〈80年代映画祭──岡田裕とその時代〉
シネ・ヌーヴォ
〈80年代映画祭──岡田裕とその時代〉チラシ                    

シネ・ヌーヴォ

〈80年代映画祭〉トークイベント
10月26日(土)15:00の回『妹』上映後 
岡田裕/ 伊藤彰彦

10月27日(日))14:25の回『すかんぴんウォーク』上映後
岡田裕 /伊藤彰彦

11月3日(日・祝)14:45の回『櫻の園』上映後
梶原阿貴 (『櫻の園』出演、脚本家)/中島ひろ子(出演)/ 伊藤彰彦