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シカゴパンチ

 つい先日、シカゴP.D.シーズン6が配信となった。Amazon Primeでは配信対象になっていないが、もうこのためだけにHuluに加入した。僕にとってシカゴP.D.にはそれだけの価値がある。
 シーズン5でハンク・ボイドの腹心であり親友のアルヴィン・オリンスキーが死亡した。主人公が無茶をするたび補佐をしていた万能ナイフみたいなおじさんだったので退場はないと思っていた。ぶっちゃけドラマが終わるまでレギュラーメンバーだと思っていたけれど違ったらしい。悲しい。治安の悪い地域の人はすぐに死ぬ。
 こんな状態でシーズン6どうなんや?と無になりながら約一年間過ごしていたら、案の定、シーズン6は序盤から大波の連続だった。オリンスキーを殺した犯人を射殺したことが問題になっていたけど、主人公は政治力を余すことなく発揮し、溢れんばかりのインテリジェンスで問題を粉砕した。パワーオブソリューションである。
 そんな感じに主人公があまりにもパンチとインテリジェンスを発揮しすぎるのと、同僚が拷問による自白をさせたことで、シーズン5(もしくはシーズン4)でようやくシカゴの取調室にも最新鋭設備であるカメラが設置された。
 だがシーズン6になってからカメラ導入エピソードはなんてものは、存在しなかったんじゃねーの……?と不安に思うぐらいバンバン机を叩いたり、誘導尋問をしたり、偽の供述をさせたりする光景が目立つようになった。
 俺たちのシカゴはカメラ程度で取り調べが大きく変わることはねえんだ……。それは例えるならば、直接的な暴力が無くなっても、パワハラが絶えない営業部門のように(でもたまにパンチやチョークスリーパーで自白させます)
 主人公たちは相変わらずミランダ警告は言わないし、取調に弁護士を同席させない。俺たちのシカゴには法律という高等概念は存在しねえ……。
 爆発物があんまりない西部警察みたいなシカゴP.D.だけど、脚本の質はとても良いので、めちゃくちゃな物語なのにエモさを感じる。この二年ぐらい忍者と極道をかなり読んで体感したけど、人間の感情というものは物語の丁寧な描写と感情の積み重ねがあれば、感性の幅こそあるもののスロットの確変が入るようにジャラジャラと出玉をたくさん出す。僕にはその理屈がよくわからないけれど、エモとは丁寧なシーンの積み重ねの結果なのだろう。
 シカゴP.D.も忍極と似たような物語の構造なので(僕がそう思っているだけかもしれんが)、主人公の犯罪に手を貸したせいで刺殺されたオリンスキーも悪いことをやっているが、忍極の極道みたいにいい人エピソードをプッシュしたり、過去の思い出を強火で振り返ることが入ると感動がある。
 とにかく脚本が素晴らしいので、主人公のパワーで無罪になったのは良かったなあと思うし、肩の痛みを消すために薬物ジャンキーになったアントニオ・ドーソンが、娘を誘拐した犯人をボコボコにしたあとタックルで殺してしまうも、特捜班の仲間がかばって仲間を守る的なところは見どころで超エモい。
 一年ぶりに同人誌の原稿を書いていることもあって、エモさなんぞや?という根本的な問いかけをよくする。エモさという言葉には幅があって、個人によって解釈にも幅があって、感じ方もかなり異なると思うけれど、僕は儚さを覚えるような無常さ、いずれ消えてなくなる日常の残り香みたいなものがエモさなのかなと思っています。ぜんぜん違うかもしれないけど。
 なんにせよシカゴはパンチで問題解決するからストレスが無くていい。最高。絶対あの世界の警察に逮捕されたくねーな。

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