還暦おやじのスタディアブロードWith ウクレレ64
♪思えば遠くへきたもんだ♪
飲む・打つ・買うが好き
今日は事務手続きがあるので早めにスクールの食堂に向かった。スクールの門を入ったところでスタッフに声を掛けて、靴を脱いでそのまま事務所のドアをノックした。
事務所では事務長のトモコが対応してくれて、財布やパスポートなどを金庫から取り出してくれた。財布の中身を一緒に数えてノートの金額と一致していることを確認して私が署名した。
パスポートやカード類もチェックして私の署名を求められた。そして最後に一か月間の洗濯料金を精算した。
事務所を出ると食堂には学習者たちが集まってきていた。しかし高齢者席にはチエの姿はなかった。
このところ日本の大学が春休みになったことで、大学生らしき若者が多くなり高齢者席にも若者たちが座るようになっていた。
1月から2月のマニラは一年中で一番過ごしやすいと時期と言われているが、3月に入ると夏の厳しい日差しが戻ってくる。そのことを知っていてそれを避けるように高齢者がこの時期は少なくなるとマーガリンも話していた。
高齢者テーブルに腰を下ろし一人食事をしているとチエがやってきて隣に座った。
チ:「シゲは今日帰国ですね。お世話になりました。」
鍵:「こちらこそお世話になりました。このテーブルも随分と景色が変わりましたね。」
チ:「そうなの若者だらけになってしまいましたわ。」
鍵;「あと2か月間レッスンを頑張ってください。そしてお互いに東京オリンピックの都市ボランティアを楽しみましょう。」
チ:「そうね。頑張りますわ。でも、これからこのスクールに同年代の人がいなくなるのが寂しいですわ。」
鍵:「マッキはいるのでしょう?」
チ:「彼は奥さんが今週末にこちらに来たら、一緒にセブに行って観光旅行するそうなのよ。」
鍵:「そうでしたか。料理教室は続けるのでしょ?」
チ:「そうだけど。これからは若者と一緒に教わることになるそうよ。私は若者と話す自信がないわ。」
鍵:「そういった状況もチャンスと思って楽しんでください。チエのそばには何時も素敵なご主人が一緒にいると思って。」
チ:「素敵なご主人?」
亭主の鑑みたいなひとだと主婦は大変!
鍵:「私から言わせてもらえばチエのご主人は酒もたばこもやらないで、定時に帰宅するという亭主の鑑みたいな人に思えるよ。」
チ:「そんなひとだと主婦は大変なのよ。主人は自分にも厳しいから私にも厳格な妻でいて欲しかったのですわ。だから主人の帰宅時には家にいなくてはいけないし、休みの日は一日中家にいるから三度の食事を作らなければならない。それに冷凍食品を使うのは手抜きだといっていたので、大変だったわ。」
鍵:「へえ、そうなんですね。」
チ:「シゲの奥様が羨ましいわ。」
鍵:「どうして?」
チ:「主人は厳格な人で女は家事と育児に専念するものだという考えでしたのよ。だから私が日曜日に外出することにもうるさくて、唯一許して貰えたのが役所で募集したコーラスグループに人数が集まらないという事で、埋め合わせのために私は参加したのですわ。」
鍵:「へえ、そうだったんだ。」
チ:「シゲはゆるい生き方をしているから自分に甘いでしょう。だから奥様に対してもゆるい生き方を認めていると思うのですわ。」
鍵:「チエからは僕はそういう風に見えるんだね。しかし、言われて見ればそうかもしれないね。」
チ:「間違いないわ。シゲがそんな性格だからイベントなんかにしても皆をまとめることが出来るのだと思うわ。それはあなたの魅力ですわよ。」
鍵:「そうなのかね。妻には友達と旅行やランチに出来るだけ出かけて貰いたいと思っているんだ。
そうして妻が楽しむことで家族に優しくなれると思っているんだ。
冷凍食品もうまく使えば良いと思っているよ。妻も人生を楽しめばよいと思っているので彼女を束縛するつもりなんてない。僕は家に一人でいる時は即席ラーメンでも作って食べているから。母がデイサービスに行かない時は僕が2人分作っているんだよ。」
チ:「そうでしょう。そういうところが主婦にとってはありがたいのですわ。」
鍵:「でもチエのご主人と違って僕は、飲む・打つ・買うがやめられないんだ。」
チ:「えっつ、シゲは博打ばくちやるの?」
鍵:「いいえやらないよ。僕の飲む・打つ・買うは、高血圧の薬を飲んで、インフルエンザワクチン注射を打って、健康家電を買う。だよ。「チエがここであんたこれ以上どんだけ長生きしたいんだよっ」て突っ込まなくっちゃだめだよ。」
チ:「ふふふ。面白いわね。シゲってそういったつまらないジョークを言えるところが凄いのですわ。」
鍵:「褒められているかどうか微妙だけど、まぁいいか。そろそろ部屋に戻るね。また後でね。」
チ:「そうね。」
そう言ってトレーをかたづけて、スタッフに「Thank you for the meal.」ごちそうさまでしたと挨拶をして食堂を後にした。
良くやったぞ!頑張ったな俺!
部屋に戻って風呂、トイレ、ベッドなどの写真を撮って冷蔵庫の中のビールを取り出して乾杯した。
ふと♪思えば遠くへきたもんだ♪の歌詞が頭の中で流れていた。♪今では女房子供持ち、これからどこまで行くのやら♪それにしても良くマニラまできたもんだ。そして1か月間を想像していたよりも楽しく過ごせたもんだ。と思いながら2本目のビールの缶の蓋を開けた。良くやったぞ、頑張ったな俺。マニラに来て良かった、乾杯!と一人で祝杯を挙げた。
ここに来るのには不安も戸惑いもあったが思っていた以上に自分自身の成長を感じることも出来た。こちらに来る前に「もっと違う人生があったんじゃないか?」「もっと違う生き方を選んだ方が良かったんじゃないか」「これからどうして生きていけばよいのか」など悩んだ時期もあったが、今はこの生き方を選んでよかったと思えたし、この先もこの延長で生きていけばよいという確信が持てた。
ここまで連れて来てくれた自分の紙飛行機には感謝しかない。
そしてこれまでの人生における分岐点にはいろんな人が立っていてくれて、道案内をしてくれた。
そう思ったらお世話になった方々の顔が浮かんできて自然に涙があふれた。
そろそろ時間だと思って冬用のシャツに袖を通して古い方のリュックを右肩に、新しく買ったリュックを左肩に背負って、キャリーケースを手に持って部屋の外に出ようとしたところに、ノックがあり内側の扉を開けるとマンゴウの姿が見えた。
外側の鉄格子を開けてマンゴウを招き入れたら、キャリーケースを彼女が持つというので手渡した。
部屋を出て一礼して大変お世話になりましたといって言ってお辞儀をして部屋に鍵をかけた。
隣の犬が珍しくけたたましい声で吠えていて、まるで別れを告げているようだった。
部屋を出てマンゴウの後をついて歩いていき、スクールの前まで来たがタクシーはまだ来ていなかった。
そこにはチエがポツンと一人立っていただけだった。ひそかに見送りの人がすくなくて良かったと胸をなでおろしたが、本音を言うと寂しさも感じていた。
こんな時の気まずい緊張感が苦手なので早くタクシーに乗り込んで出発したいのだが、しばらくの間タクシーは来なかった。
チエとは1か月前にこの場所にタクシーから降りた時のわくわく感と不安感について笑いながら話をしていた。
マンゴウが携帯で連絡をしているところにタクシーが来て停まった。
ドライバーが降りて来てトランクを開けてマンゴウがキャリーケースを入れてくれてタクシーは出発した。
私は後ろを振りむき手を振って別れを告げた。タクシーは走り出すとすぐに右に曲がって停まった。別れは想像していたよりもあっけなかった。
何か不都合があったのかと車窓を見渡すとそこには見知った顔が並んでいた。
それはウクレレを持っているマサシとショウコ、それにマッキとケンだった。そしてマーガリンとフルーツの姿もあった。
私はタクシーを降りて一人一人の顔を目に焼き付けようとしたが、皆の顔が歪んでいて良く見えなかった。
これはチエが仕組んだサプライズだといって、フルーツが「This is a gift from everyone. Thank you for helping me. Please stay healthy forever. 」これはみんなからのプレゼントです。お世話になりました。いつまでもお元気でいてください。
と言いながらphoto albumを手渡してくれた。サプライズは照れ臭かったが嬉しかったしいつの間にかチエの姿もあった。私は一人一人と握手をして言葉を交わした。
最後にマーガリンが「I mean, you were a special student. Please love your wife forever.」本当に、あなたは特別な生徒でした。奥さんをずーと愛してあげてね。といいながらハグをしてくれた。
私は皆に手を振りながらタクシーに乗り込み窓を開けて、「Thank you for helping me. Bye bye.」といって身を乗り出して手を振った。
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