信じる者の幸福
こんにちは、いつもいつも季節の変わり目のように体感しており、四季でないどこかに居るような気がしているさいちゃんです。
今回は、「信じること」について少しお話を。
信じる人は、強いでしょうか?弱いでしょうか?
何を信じているのか。そもそも自分を信じられているのか。
そして、信じることで、幸せになる?馬鹿を見る?
これこそ自分を信じているかどうかによるのかなあと思います。
誰かを信じることは、その誰かにも信じてもらっていることを前提としておくのですが、そういった「信頼関係」を築ける人は、私は強いと思います。
信頼関係そのものが強みでもあるし、"人間関係の構築"として、大前提でもあり、最終形態ともいえそうです。
もし、信じているけれどなんだか自分は弱い..というパターンがあるとすれば、依存や自分を見失っているに陥っている状態かなあと思います。
そもそも"信じる"の対象はなんですか?
相手を信じること、自分を信じること。
どちらもあるものだとは思います。が、先に持ってきておくべき方はあります。それはまず自分を信じること。
「人をすきになること、自分をすきになること」においても、"どっちが先でもいいのではないか"とも思われます。(「すきでいること」という進行形になると、またニュアンスは変わります)
でも、信じることに関しては、まずは人を信じている自分を信じられるかを見つめ直すといいのではという持論があります。なんだか「信じる」というワードがゲシュタルト崩壊してきましたが、持ち直してください。
例え話をします。
誰かを信じています。
「この人は良い人で優しい」「私は彼氏をすきだし、彼氏も私をすきだ」。
そこに、『この人って酷いんだよ』『この男はモテるよねー女遊びをしていそうだよ』とか、耳にするとします。
そこで「えっ!最悪」「浮気されてるかも」と思って勝手に傷付くのは、信じない者の不幸。
そこで「ふーん(自分が信じていることを信じて流されない)」「女遊びするような人かどうかは自分が1番知っている」と思って自分を揺らがせないのは、信じる者の幸福。
視野が狭くなりすぎて他人の意見を全遮断するのは、極端すぎるし何事もバランスかなとは思います。しかし、その人と話をするとき、勝手に信じずに負の気持ちを持ってしまっていると、相手を傷付けてしまいます。"信頼関係"がある場合には、そこに影りが出てしまう。
しかし、信じていて、もし信じていた結果ではなかった場合に傷付くのではないかとも思われるかもしれません。信じていただけに余計に、ですね。でも、最後まで信じていた自分を褒められるし、信じたくない結果にも自分が負けないと思います。
なので、私は信じることで馬鹿を見るとは思いません。
信じる対象は、まず自分から。そうしたら、大事な誰かを信じることができるし、誰かも自分を信じてくれるし、お互いしあわせでいられるかと考えます。
さいちゃんのお話、「信じて」みてはいかがでしょうか。スピリチュアルな意味合いではなく、論理的なお話でした( ◜ᴗ◝ )
2018.6.11 さいちゃんより
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