【2015年6月】戸崎亨 - 転機となった日(後編)【全体テーマ:ロボット】
(2015年6月に部員で書いたものです。全体テーマは”ロボット”)
職員室に戻って、自分の席に着いた。それからしばらくの間の記憶がなぜかなかった。
「―――ですか?」
肩を揺らされ、はっと意識を取り戻す。
「大丈夫ですか?」
「は・・・・・・ああ!」
と、意味不明な声を出してしまい、敏文は恥ずかしさに顔をやや赤くした。
「す、すみません。寝ちゃってましたか」
「いえ、こっちに戻ってきてからずっとボーッとして、たまに奇妙な呻き声を上げていたので、少し不安になってしまって」
「うわ、その、すみません」
敏文は思いきり頭を下げた。顔は今にも、成熟しそうなリンゴみたいに赤くなって、自分の行動がただただ悔やまれるばかりだ。
「いえ、そんなに謝らないでください」
「でも僕気味悪かったですよね?」
「まあ、正直に言うと」
今日はなんて最悪な日なのだろう。敏文はそう思わずにはいられなかった。
敏文はお礼を言おうとしたところで、重大なことに気づいた。相手の名前が分からなかった。
敏文は、勤務が始まって一週間くらいで、同じ職場の人を全員覚えた。仕事をきちんとこなすためには必要なことだったからだ。
しかし、今目の前にいる先生は全く見覚えがなかった。毎日ここにいる敏文には、覚えていない先生はいないはずだった。
「失礼ながら聞かせていただきますが、今日から勤務ですか?」
「はい、といっても今日は挨拶だけですが」
髪の色は黒、おとなしめな印象を受ける女性だ。ロボットなのかもしれないが、ここに勤務するロボットは、人間と見違えるように作られているだけあって、ぱっと見では、見分けがつかない。
名前を聞こうとしたとき、相手の口が開いた。
「宮下先生、校長先生がお呼びです。一緒に来てください」
「あ、そうなんですか?」
「もう、放送で三回くらいかかっているのですけどね」
敏文はもう一回頭を下げた。恥ずかしさでおそらく顔はよく赤く色づいているはずだ。
しかし、校長先生のお呼びを無視したのはまずかった、と今更ながら敏文は思った。今日はすでに朝に、一悶着起こしていて、自分の印象は、どう考えても悪いのだから。
「急ぎましょう。って僕が言うことじゃないですね」
「いえ。事実ですから」
と、言葉を交わし、職員室を飛び出した。
小学校の頃、廊下を走ってはいけませんと、先生によく言われていた。しかしそれを全く守るつもりのないもの凄い速さで、敏文は廊下を走って行った。
敏文は理事長室のドアを開けると、もの凄い剣幕で椅子に腰をかけている校長先生の姿を見た。
「失礼します。遅れて大変申し訳ありません」
敏文はそういって頭を下げた。大失態だった。自分が怒られている姿が簡単に想像できた。
しかし、理事長は急に穏やかな顔になった。
「いやいや、頭を下げなくともいいよ。みんな結構忙しいからね。すぐに来るなんて思ってないよ」
「は、はあ」
「まあ、座って」
理事室は、真ん中に客対応のテーブルとソファがある。これがまた高級品で、ソファに座った瞬間、敏文はやさしく受け止められる。
「おおっ」
敏文は未知の感覚に思わず声が出てしまった。
理事長は、にやりと笑う。
「はっはっ。このようなものには座ったことはないかな」
「は、はい」
「まあ、あまり緊張しないでくれ。そこまでまずい話じゃない」
一緒に来た女は、敏文の向かい側の校長の隣に座っていた。
理事長は話を始める。
「今日来てもらったのは君に決定事項を伝えるためだ」
「決定事項ですか」
「そう。今日の主任会議での決定の一つに、君のことが含まれていてね。まあ、言いにくいのだが」
いよいよその時が来た。敏文は理事長をまっすぐ見ることができず、うつむいていた。
「君に、葉狩さんを使ってもらうことにした」
「え?」
敏文の挙げた驚きの声に、理事長が驚いていた。
「な、いきなり声をあげないでくれ。心臓に悪いだろう」
「す、すいません」
女はクスクス笑っていた。敏文は何度目であろう恥ずかしさに、頭を抱えたい気分になった。
「で、でも、なんで葉狩さんのことを。僕がクビって話じゃ……」
「ははっ。何を言っている。君の働きはよく知っている。まだ新人なんだ。先ほどはあんなことを言ってしまったが、問題起こるのは仕方のないことだよ。私も君くらいの頃は同じようなものだったからね」
「しかし、なんで葉狩さん話が出たんですか。使用は本人の自由だったはずです。それに新人の僕なんかの話がどうして主任会議なんかに取り上げられるのですか?」
「なに。みんなロボットに頼っている中で、一人頼らず頑張ってくれているんだ。そんな君の働きはみんな見てくれているよ。だが、佐々木さんが、ここのところ、家にも帰らず働きづめだって言っていたのを聞いて、君のことが心配になったんだ。それで私のほうから会議に提案して、君のことについて話し合った。それで出た結論だ」
喜ぶべきところだ。偉い人たちがわざわざわざ時間をかけて自分のことを話し合ってくれたのだ。
敏文は、嬉しくなかった。
葉狩さん。その言葉は聞きたくなかった。頼ることは、やっと慣れた教職から、自分が抱えている辛さから、何より現実から逃げることのようで、そんなみじめな自分になるくらいなら、死んだほうかマシだと本気で思っている。
「僕は、ロボットには頼りたくありません。人が人と接することで成り立つ教育を僕は目指しているんです。だから……」
理事長から返ってきた言葉は無慈悲なものだった。
「しかし、これは決定事項だ。君にはしたがってもらう」
敏文には、これ以上言い返せる言葉も、権利もなかった。
あの日、憧れた人がいた。自分はそれになることは、たとえ何年かかってもできない。なぜなら逃げてしまうから。
目か溢れるものがあった。敏文はそれをぬぐった。
「す、すみません。子供みたいに、泣いて」
理事長は黙っていた。隣の女は憐みの目を向けていた。
敏文は、自分の無力さにこれほど失望したことはなかった。自分に問う、もっとできることはなかったかを。
すぐに、その行為にも意味がないことが分かった。
頭の中をよぎるのは、自分への糾弾と、後悔だけになった。
「宮下さん」
理事長が敏文を呼んだ。
「アンドロイドを使うことが、嫌なのはわかる。しかし、これは時代の流れなんだよ。今教師の仕事は、とてもじゃないが一人では抱えきれない。一日二十四時間使っても足りないくらい位に多いんだ。君ひとりですべてを抱えることは無理だ。それに生徒の学力の伸びはやはりアンドロイドがやっているほうが飛躍的にいいんだよ。今の教育現場には不可欠な存在なんだ」
「でも」
「君だって、もう何日も家に帰ってないんだろう。仕事が多すぎるからだ。このままでは、君は過労死してしまうかもしれない。それはこちらとしても困る。君には強制力を使っても、時代の流れに合わせてほしい。それが君含めたみんなのためにもなる」
「……わかりました」
理事長の言葉は正しかった。今の敏文には、それを受け入れることしかできなった。
子供みたいに泣いた割には、自分の無力さを嘆くことに意味はないことぐらいはわかるほど、大人だった。
「君は、葉狩さんに会ったことはあるのかね?」
「いえ、来てほしいと頼んだことは一度もなかったので」
「なるほど、道理で違和感を感じるわけだ」
「僕、何かおかしいこと言いましたか?」
理事長はとうとう笑い出した。敏文はその真意がわからず、笑いが不気味に見えてしまう。
「え、あの」
理事長は、隣の女を見てこう言った。
「この人が葉狩さんだよ」
「え……」
葉狩さんと紹介された女は、一度お辞儀をした。
「初めまして、自己紹介が遅れてしまい、申し訳ありません」
「はいど、うも」
ここにきて、今までの会話を思い出す。自分が葉狩さんに対してとんでもないことばかり言っていたことを認識した。
「あの、いろいろとよくないことばかり言ってしまって。その、ごめんなさい」
まるで、子供の時、ケンカした後の仲直りのときのような気持ちだった。
葉狩さんは、まったく機嫌を損ねた様子はなかった。
「大丈夫です。宮下さんの教育方針は素晴らしいものです。それをどうこう言うつもりはありません」
理事長が話に割り込んできた。
「宮下さん。葉狩さんと協力することは、決定事項です。しかしどのようにしていくかは話し合って決めてください。生徒のために何ができるのかを第一に考えて。私は席をはずします。この部屋は二人で使ってもらって結構ですので、気の済むまで話してください」
理事長はそう言うと、立ち上がり、部屋から出ていった。
部屋に二人だけとなり、お互いしばらくは、黙り込んでいた。
敏文は、あれほど忌み嫌っていた葉狩さんとどんな顔をして話せばいいかわからなかった。
先に口を開いたのは葉狩さんだった。
「私は、本来は生徒の学力向上のために働く者です。なので、授業は自分で言うのもよくないと思いますが、質の高いものを提供できると思います。さらに、先生としてやっていくために、ある程度の事務処理や生徒対応の方法を心得ております」
「ああ、それはよくわかっているよ」
敏文は、仕事をする中で、授業だけでなく、あらゆる仕事をこなすアンドロイド職員たちを見てきていた。いまさらそれを否定はできない。
「だけど、それらも全部教師の仕事だ。せめて担任として受け持った生徒だけでも、その仕事を放棄したくはない。君に任せてしまうと、僕は彼らの担任ではなくなってしまうと思うんだ」
敏文は素直な気持ちを言った。今まで、頑なになって会うのを避けてしまっていた。今こうしてようやく会えたのだ。望まずとも、これから協力しなければならない。ならばせめて自分の気持ちだけでもわかってほしかった。
くだらないと、蔑まれるだろうか。わがままだといわれるだろうか。敏文は葉狩さんの言ったあらゆる言葉をすべて受け入れる覚悟はあった。
「そんなことないですよ。宮下さん」
「え?」
葉狩さんが言った言葉は、敏文の予想を斜め上に行く答えだった。
「佐々木さんのことはご存知ですか?」
「ええ、まあ」
「佐々木さんは、宮下さんの知ってのとおり、あまり学校に来ていません。二年四組の担任でありながら、ほとんど自分の生徒にも会っていません。なのに、クラス人から人気なんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。授業は全部任せているけれど、クラスメイト一人一人のことをしっかりと考えています。クラスメイト一人一人専用のノートを作り、それぞれの生徒に合った、課題の作成や、進路相談などをしています。クラスでの決め事があるときは、できるだけ学校に来ていますし、来ない場合も、必ず結果を把握して、クラスのために自分のできることをしています。こんなような佐々木さんの影の努力を知っているからこそ、生徒に人気なのです。彼女は立派に担任としての役割を果たしていると思います」
敏文は、佐々木さんがこのようなことをしているとは、一切知らなかった。ただのサボり屋だと、本気でずっと思っていた。
「僕は、とんでもない勘違いをしていたのか」
「はい、そうだと思います。理事長先生の言う通り、時代は移っていきます。それに対応するように、教育の在り方は変わっていかなければなりません。確かに教師の中には、あなたが言う、仕事を放棄している人もいます。しかし、佐々木さんみたいに、この時代で、この時代に合った教育をしている人もいるのです。それは、授業など、私の仲間ができるような仕事を任せることでできた時間を生徒のために必要な別のことに使う。きっとどれは仕事放棄ではなく、自分のできることを、自分にしかできないと思うことをやって、立派に教師を勤め上げているということだと思います」
敏文は、目の前にいるロボットが、急に目障りに感じなくなった。今の言葉を、反芻するうちに、自分が教師として在るためにすべき新しいことを見つけたような気がした。
そして、それを実行するためには目の前にいる、自分の協力者が必要だ。
いまこの瞬間。本当の教師に変わる時だ。
敏文は、自分に言い聞かせた。
「葉狩さん、急に申し訳ありませんがとりあえず明日、僕の数学の授業を代わりにやっていただけないでしょうか」
「もちろん。私はそのためにいるのですか。でも宮下さんは?」
「僕は、とりあえずクラスのみんなと、一度向き合ってみます。できた時間を使って」
次の日、敏文は葉狩さんに今日の授業の範囲を伝えた後、各家庭に電話をした。今日から、授業用のアンドロイドが授業をすると電話をすると、今まで、敏文の授業に出ていなかった生徒たちが授業の時間に来た。敏文は、それが少し癪に思えたが、それも仕方ないと割り切った。
「葉狩さん。数人足りませんが、よろしくお願いします」
「はい」
「僕は、そのあと数人に、会いに行ってきます」
「え、彼らも連れてくるつもりですか?」
「もちろん。僕が受け持っている生徒ですから」
「……失礼ですが、おそらく彼らを連れてくることは無理だと考えます。少し危険な考え方も持っていますし」
「大丈夫です。僕に考えがあります」
「わかりました。頑張ってください」
敏文は、一礼して教室を後にした。
屋上に向かう廊下の窓から、葉狩さんの授業の様子が見えた今後は、あの教壇にはもう立てない。その寂しさはどうにも消えなかった。
向かったのは屋上。問題児たちの根城だ。
敏文は、その城の城門を開けた。主は昨日と同じ場所にいた。
「なんだよ、屑教師」
相澤がこちらをにらみつけながら言う。
ふと、敏文の頭の中にある光景が浮かんだ。
あの日、自分を変えることになった、転機が訪れた日。
その時の自分は、今の相澤とほぼ同じ位置にいた。そして同じ行動をとって、教師に突っかかった。
敏文は、今自分が逆の状況にあることに気付いた。
あの日の恩師のように、今、彼を変えられるかもしれない。敏文はそう思い、鮮明によみがえる記憶をたどる。昨日見た、あの日の夢の続きを。
「相澤、今日は一人なのか」
「てめえには関係ないだろ」
「また授業をサボるのか」
「あんただって、いまここにいるんじゃサボりじゃん。お互い様だ」
「俺は、ちゃんと代行を任せてきた。理由もなく逃げたお前と違う」
不思議なことに、相澤は、かつての自分とほぼ同じことを言っていた。
「逃げた、何バカなこと言ってんだ教師の分際で」
「いや、お前は逃げたよ。嫌なこと、面倒なことから逃げて、訳も分からず粋がっているガキだ」
「黙れよ。先生ってのはそんなに偉いのかよ。そんなことてめえに言われる筋合いはねえよ。生意気なんだよ屑がぁ!」
敏文は、今の相澤と、かつての自分を重ねてみていた。愚かなほど子供だったのだと、痛烈に思い知った。
敏文は、その時、恩師に言われた言葉を放った。
「じゃあ、勝負をしよう」
「なんだよ、ケンカか?」
「ああ」
「はあ、とうとうバカもいい所だな。教師が生徒を殴るのは、体罰になって解雇はもちろん、慰謝料だって請求できる。そんな覚悟があるのかよ」
「あるさ」
「はあ?」
「その程度覚悟はできている」
「へ、へへへ、なら上等だ。泣いて俺に詫びるまで痛めつけてやる。それをネットに流して、お前を辱めてやるよ」
「……やれるものならな」
「うらあ!」
敏文に痛みが走った。ここ数年、ケンカと無縁で過ごしてきたせいか、かなり痛く感じた。
また殴られた。そしてまた殴られた。痛みは積み重なり、悲鳴を上げたくなった。殴り返したくもなった。しかしそれはできなかった。
敏文は二時間程度殴られ続けていた。
「はあ、はあ」
相澤は疲れ切っていた。
「なんで、なんで一度もやり返さないんだよ。なんで膝もつかないんだよ。悲鳴もあげ……ないんだよ。疲れたよ、手が痛いよ……」
敏文は、その間ただ、痛みに耐え、相澤を見続けた。かつての恩師が、そうしてくれたように。
「もう無理だ、もうこんなのくだらねえよ。なんで……」
敏文は、すっかり意気消沈した相澤に向けて言った。
「もう終わりか。やはりお前は弱いな」
「なん……だと」
「俺は逃げなかったぞ。お前に殴られ続けるみたいな、くだらないことから。だけどお前はまた逃げようとしているじゃないか」
「な……」
「その程度の分際で、頭が高いんだよお前は。お前は敗者だ。なら俺の言うことを聞いてもらうぞ」
相澤は何も言わなかった。
「明日から、しっかり授業を受けろ。くだらないと思っていたことと真剣に向き合ってみろ。そんなバカらしいことを続けて、初めてお前は大人になれるんだ」
敏文はそれだけ言って、屋上を後にした。あの日の恩師と同じように。
その後、意識が朦朧とする中、理事長に発見され、救出されたところで、意識が途切れた。
次の日、敏文は何とか意識を取り戻した。
「あ、気付かれましたか?」
葉狩さんの姿が見えた。
「……ご迷惑おかけしました」
「本当に心配しました。こんな無茶をするなんて」
敏文は、何も言い返すことはできなかった。
「聞いてください。相澤君。授業に出てくれましたよ」
「本当ですか?」
「はい。嫌々みたいでしたけど。それでも宮下さんの説得が届いたみたいです。ここで逃げたらあいつに負けっぱなしみたいで、よけい癪にさわる、と、言っていました」
「それでいいんですよ。あいつにはきっとそれくらいがいいと、僕は思います」
敏文はただただ嬉しかった。自分が生徒の心を動かすことができたことが。
「宮下さん」
「はい?」
「私は無理だといいました。でも宮下さんはきちんと相澤君のことが分かっていて、それで本当に連れてきてくれました。二年三組の担任は、やっぱり宮下さんですよ。間違いありません」
「……ありがとうございます」
敏文は、初めて教師になってよかったと思った。
その年度末、敏文と葉狩さんのクラスが、最優秀学級賞なるものをもらった。六月ころから急にクラスがよくなり始め、敏文は学校内で、いい先生として人気者になりつつあった。さらに二年三組は、この学校の教育目標のモデルケースに抜擢された。
敏文は思う。教師を続けて本当によかったと。そして、あの転機の日が、自分を変えてくれたからこそ、自分は本当の教師になることができたのだと。
終