【2015年6月】黒種 紫樹 - 鎖【全体テーマ:ロボット】

(2015年6月に部員で書いたものです。全体テーマは”ロボット”)

 あぁ、騒がしい。こんなんじゃ、ゆっくりと寝られない。どうせ、騒がしい原因など分かってる。あと、数分すれば収まるだろう。どうせいつもの日課だ。

 …………可笑しい。あれから何分経った? まだ騒がしい。そして、聞き覚えのない声がいくつか聞こえる。

 あぁ、もう。騒がしいから起きてこの家から抜け出そう。

 そう心の中で決め、薄く瞼を上げる。

 あれ、いつもの天井と違う。ここは……?

 見覚えのない天井に少し驚きながら、辺りを見回そうとする。だが、おかしなことに首が動かせない。

 「先生! 目が覚めました!!」

 「やっとだ、この時を何年待ったことやら」

 「うん、数字も正常だね。さて、廣川 怜奈さんだね」

 自分の名前が呼ばれたので反射的に、はい、と答えようとした。だが、声が出ない。 喉が引き攣って上手く舌が動かせない。

 「あぁ、無理して話そうとしないでいいよ。それにきっと今の事態に混乱しているだろうから、少し説明するね。だから、これから話す僕の話をしっかり聞いてね」

 そう言うと白衣を着た銀縁メガネの男性は、ガタガタと音を立てパイプ椅子を私の横になっているベッドの横に置き、腰掛けた。

 さて、何から話そうか。そう柔和に微笑んだ男性の口から出てきた話は、とても信じられない話だった。

 「まずね、君は三十年眠っていたんだよ」

 いや、眠っていたという表現は正しくないかな。うーん、言葉は聞いたことあるよね、所謂、植物人間状態になっていたんだよ。君は、三十年前大きな事故にあった。正直、救急で運ばれてきた時は誰もが『あぁ、可哀想に。この子はもう無理だ』って思ったぐらい酷い状態でね。でもその時君を処置することになった先生が凄腕ね。君は一命を取り留めた。心臓は脈打ち、脳にも血液がしっかり流れていて検査機械には反応していた。でも、君は目覚めることは無かった、たった今までね。あぁ、そうそう僕の横で君のことを心配そうに覗きこんでいるお二方は、君の両親だよ。私の横に座った医師はそう滔々と語りながら、私の両親を手で示す。そこには年老いた男性と女性がいた。

 二人が両親である、ということがいまいちしっくり来ない。

 まぁ、まだ混乱して記憶もぐちゃぐちゃしているだろうから、ゆっくり時間を掛けて落ち着こうね。焦らなくても大丈夫、君の眠っていた三十年に比べれば短いからね。

 医師はそう言うと、立ち上がり私の周りでバタバタと動き回っていた女性の看護師に一言二言伝えると、部屋から出て行った。

 「怜奈! あぁ、本当に良かった……良かった…………」

 「本当に良かった、一時はどうなるかと……」

 先程両親と言われた二人は私の周りを取り囲み、私の手を握ったり肩の辺りを叩いたりしていた。感覚は無かったが。

 「感動の再会のところ、すみません。少し検査が有りまして」

 看護師が申し訳無さそうに、そう言う。私の両親は私から離れた。

 「廣川さん、おはようございます。これからゆっくり元の生活に戻りましょうね」

 看護師は微笑み、片手にガーゼを持ち、もう片手でえ霧吹きを持った。ガーゼを霧吹きで濡らし、霧吹きをベッドの横にある小さなテーブルに置く。すみませんね、ちょっと口開けますね。と言うと同時に看護師は私の顔に自身の顔を近付け、私を見つめると顎に手を当てた。そして、先程の微笑みからは考えられない程の力で私の顎を下げた。ふわっと、看護師の香水が香る。力抜いて下さいね。そう言うと先程濡らしたガーゼを私の口の中に突っ込み、強張って動かない舌や乾ききった咥内を撫でる様に、擦る様に動かした。舌を押されると、人間の条件反射で吐きそうになる。何周かガーゼが口の中で動くと、取り出された。

 「苦しかったですよね、でもこれをしないと口の中が乾ききって動きませんから、仕方無いんですよ」

 看護師は再び微笑んだが、恐怖からか身体は弛緩することは無かった。

 「数値は正常なので、お父様、お母様もう大丈夫ですよ」

 両親は看護師の言葉を聞き、泣きながらお辞儀をしている。その光景を目の端で捉えるが、何故か私には違和感しか無かった。

 両親を見つめていると、視界の端に写真立てがあることに気が付いた。その写真には三人の人物と背景にはどこかの遊園地だと思われる乗り物が写っていた。

 きっと真ん中の小さい女の子が幼い頃の私で、両端の大人が両親なのだろう。そこに写っている大人は今、看護師にお辞儀をしている人に雰囲気は似ていた。真ん中に写っている少女は何故か暗い顔をしていた。

 あぁ、眠い。三十年も本当に寝ていたことが信じられないぐらい眠い。

 私はゆっくり意識を手放した。

 じりりりりりりりり

 う、うるさい。

 いつもの様に、手を伸ばそうとした。だが、

 「(動かない……)」

 何とかして腕を動かし、騒音の原因を止めたかったが腕が思うように動かすことが出来ずに、薄く目を開ける。

 「先生! 廣川さん起きましたよ。一先ず安心ですね」

 昨日と同じ看護師が私の顔を覗きこんでいた。その横には、昨日と同じ医師が立っている。

 「やあ、廣川さん。気分はどうだい?」

 医師から質問された問いに答えようにも、またもや口の中が乾ききっていて上手く舌を動かせないでいると、看護師が昨日用いた霧吹きとガーゼを構えた。そして、昨日と同じようにガーゼを濡らし、私の顎を下げるとガーゼを口の中に突っ込む。少し口の中が潤い、舌が動くようになった。

 「……さ、最悪です」

 「ふふ、そうだろうね。口の中にガーゼを突っ込まれて最高です、って人は恐らくこの世に存在しないだろうね」

 医師は楽しそうに笑っている。正直、ムカつく。

 「さてさて、昨日は保護者の方がいらっしゃったから話せなかったことを話そうか」

 医師は昨日と同じようにパイプ椅子をガタガタと音を立てながら用意し、腰かけた。

 「昨日、君が三十年間眠っていたことは話したよね。あぁ、申し遅れたけど、僕の名前は綾瀬という。以後お見知りおきを」

 医師――否、綾瀬先生は大仰にお辞儀をする。いちいち癪に障る奴だ。

 「まず、昨日話したと思うけど君は三十年前に事故にあった。その時の記憶は?」

 「……あまり思い出せないです」

 「うーん、事故の衝撃で記憶の方で少し障害が出ているのかもね」

 そう言うと綾瀬先生は横に立っていた看護師に支持を出す。看護師は、ボードを綾瀬先生に渡した。

 「昨日ご両親とお会いしたけど、感想は」

 「……」

 昨日の両親が泣きながらお辞儀をしていた様子と今も視界の端に映る写真の中の両親を思い出す。

 「今はご両親も居ないから、大丈夫。僕もこのことを外部に漏らしたりしないよ」

 「……びっくりするぐらい何も思いませんでした。懐かしさも情も何も」

 「……うん、そうか。目覚める直前の何か記憶はあるかい?」

 「何も」

 そうかい、と言いボードに書き込む。外部に漏らさないと言っていたけど、書類で残っている限り、いつ外部に漏れてもおかしくないな、と考えていると

 「本題に入ろうか」

 カタリ、とボードをベッドの横にある小さなテーブルに置く。

 「何か、変だなって思うことは無い?」

 「……身体が動かないのは、事故のせいですよね」

 「うん、そうだね」

 昨日君に僕は大きな事故に巻き込まれたと言ったね。それはそれは大きな事故でね。君は何とか一命を取り留めた。もうそれは奇跡の様な出来事だった。だが、君は首から下の神経にダメージが大きくてね。心臓は動いているのに、血液は身体に巡っているのに、首から下は動かないんだ。

 「……何となく予想はしていました」

 「察しが良いねぇ。さて、ここから先が本当の本題。君は三十年眠っていた」

 綾瀬先生は指で三を示し、私の目の前にかざす。

 「三十年という歳月は凄いものなんだよ。三十年前の僕はなんと五歳だった。だけど、三十年でこんなにも変わった。それと同じように、技術も三十年で大きく変わった」

 綾瀬先生は自分は三十年前は五歳だったと言った。私は当時確か高校生だった様な気がする。といことは、本来なら私の方が年上な訳だ。それにしても、話の先が見えない。

 「三十年で科学技術は進歩した。そして、身体が麻痺してしまったり欠損してしまったりした人にとって夢の様な技術が確立された。そう、動かない部分を機械というよりもロボットと言った方が正しいのかな。取り敢えず、それらでカバーすることが出来るようになったんだ。脳と心臓が生きていれば、ロボットと君の頭を繋ぎ脳からの信号がロボットに行くようになる。最初は制御が難しくても、しっかりリハビリをすれば社会復帰さえ出来るんだ!」

 綾瀬先生は握り拳を高く掲げそう言う。

 「どうだい? 驚きだろう」

 「ええ……」

 技術よりも綾瀬先生のリアクションに驚きました、という言葉は胸の中に仕舞っておいた。

 「それで?」

 「それでだねぇ、首から下が動かない君にこの話をした理由はもう何となく分かっているのだろう」

 「……私の頭をロボットに移植するかどうかを聞きに来たって事ですよね」

 「そうそう。君のご両親には昨日この話をして同意を貰っているんだけど、本人の意見が一番大事だからね。君の意見を聞かせて欲しい」

 「……」

 単純に考えるのなら動かない身体で一生過ごすよりも、リハビリは大変だとしても動く可能性のある身体を手に入れる方が良いのだろう。だが、

 「……決めるまでに時間をくれませんか?」

 私の口から滑り落ちてきたその言葉は私自身にとって意外なものだった。無意識に返事をしていた。

 「勿論。つい昨日目覚めたばかりの君にこんな難しい質問をしてすぐに答えを出せだなんて、そんな酷いことは僕はさせないよ」

 綾瀬先生は微笑み、私の頭を撫でた。本当の年齢なら、私の方が年上なのだから、と違和感を覚える。

 「ただ、一週間以内に答えを出してほしいな。じゃあ、また午後の検診のときに」

 綾瀬先生はそう言って立ち上がると、ボードを小脇に挟み病室から出て行った。残ったのは看護師と私。特に会話する話題もなく、淡々と看護師が作業をしているのを横目に見ながら、私は色々と考え事をしていた。

 「(看護師に触られてもびっくりするぐらい感覚が無いもんだ。不思議)」

 自分の過去を振り返ろうにも、自分の事故の前の記憶は靄がかかったように鮮明でなく、思い出せない。無理に思い出そうとすると、頭が痛んだ。本当に首から上は正常なんだ、と嫌な形で再認識してしまう。

 「無理に思い出さなくても大丈夫ですよ」

 看護師は作業が終わったのか器具を片付けながらそう言う。まるで見透かされているようだ。

 「ありがとうございます、三栖さん」

 私は看護師の名札を見て、答えた。三栖さんは、器具が沢山乗った銀色のプレートを持つと病室から出て行った。

 「(一人は暇だ)」

 病室の天井はパターン化されていて面白くない。身身体が動く訳でも無いから、病院内を散歩することも出来ない(もし出来たとしても、きっと綾瀬先生に怒られるだけだが)

 ふと病室内を首を動かさずに視線だけ動かして観察してみた。如何やらこの部屋は一人部屋の様だ。大きなクローゼットと色々なものを置き、収納できる棚と超薄型テレビが置いてあった。部屋の中にあるものを見る限り、テレビ以外で年数が経っていることを感じられない。(超薄型テレビは当時高かった記憶が幽かにあった)

 他にものがない質素な病室。いや、病室だからこれぐらい質素で良いのか。と自問自答をしながら私の真横にある、病室には不釣り合いだと思える程大きな窓を眺めた。

 「(あぁ、月日は経っている)」

 窓の外には立派な木が生えていた。そして、木の葉から覗いて見えた空は茶色と黄色を混ぜた様な汚い色だった。私はそれが何となく、時の流れの証拠の様に感じられた。

 またうるさくて目が覚めた。その感覚に酷く懐かしさを覚えながら、目を左右に動かす。部屋も窓の外もすっかり暗くなっていた。

 「娘がそんなこと言うはずが有りません!」

 「お母様、落ち着いて下さい。ここは病院ですよ」

 「落ち着いていられるもんですか! 早く手術して下さい!」

 「おい、お前。年甲斐もなく喚くんじゃない」

 「あなたは黙ってて!」

 ガラリと大きな音を立てて、病室の扉が開く。

 パタパタと自分の母親は私が横になっているベッドの元に駆け寄る。

 「ねぇ、手術しましょう? 今すぐに! それがいいわ!」

 「お母様、まだ彼女は目が覚めたばかりで混乱しているんです。時間を与えてあげてください」

 「何で? このまま寝たきりでいるよりも動けるようになった方が幸せに決まっているでしょう?」

 「幸せ云々の前の話です。彼女には時間が必要なんです」

 「三十年も待ってて、これ以上待てというの!?」

 母親は私の肩を掴むと激しく揺さぶる。動けない私は成すがままだ。

 「お母さん、聞いて下さい」

 揺さぶられながら、やっとのことで声を出す。母親は、我に返ったかのようで動きを止めた。

 「私、手術を受けます」

 決意したきっかけは、多分好奇心だろう。

 三十年経った、世界を見てみたいと思った。まだ、頭が混乱していて何が変わったか全てを比べることが出来ないとしても、世界が見たかった。

 綾瀬先生は私の言葉にとても驚いた顔をして私の顔を見ていた。母親と父親も驚いていたが、綾瀬先生程ではなかった。

 「いいのかい? まだ悩んでもいいんだよ?」

 「いいんです。このままでいても何も変わらないので」

 綾瀬先生は眉間に皺を寄せ、少し何かを考える素振りをした後、いつも通りの顔で

 「じゃあ、手術の日程について詳しいことが決まり次第、ご両親にはご連絡します。今日はもう面会時間が過ぎているので、お帰りお願いします」

 と言った。

 母親と父親は顔を見合わせると、取り乱していたことを謝罪し、綾瀬先生にお辞儀をしてから退室した。

 母親と父親が居なくなり、静まり返った病室。

 「本当に、手術していいのかい。後悔しないかい」

 綾瀬先生がポツリと呟いた。

 「いいんです」

 後悔しないのかい、という問いに少し引っかかるが、私はそう答えた。

 「そうかい。じゃあ、手術の日程を決めておこう」

 綾瀬先生は白衣を翻し、部屋から出て行った。

 目が覚めた。顔には色んなチューブが貼り付けられていて、気持ち悪い。

 頭を整理する。確か手術することを決めて、その三日後に手術をすることになり、今は手術終わりだ、多分。

 目を動かすと、綾瀬先生といつもの看護師さんがいた。両親はいない。

 「おはよう、気分はどうだい?」

 最悪です、と以前と同じように答えようとしたかったが、生憎口にも酸素マスクをされ、チューブを口の中に通されていて、口が動かせない。なので、目を左右に動かし否定を伝える。

 「そうかい。ああ、手術は成功したから経過次第では今週中にもリハビリが出来るかもしれないから、もう今日はゆっくり寝てね」

 手術の後のせいなのか身体が重い。身体が重いという感覚があるということは、正常に頭がロボットの身体に接合されたということでもあるのだろう。

 そんなことを考えていたら、自然と瞼が降りていった。

 「おはようございます」

 「おはよう。リハビリは順調かい?」

 「はい。最近は大分何も掴まらずに歩けるようになりました」

 手術が終わり、リハビリが始まって約半年が経った。リハビリというのは途方もない時間がかかるものだと思っていたが、脳からの命令がロボットである身体に伝わるようになれば、滑らかに動けるまではいかなくても、動けるらしく思っていたよりも早い段階で手足を動かせるようになった。

 脳の命令が容易にロボットに伝わるようになれば、あとは細かい整備だった。

 ロボットも完璧ではないので、以前の普通の身体だったときと同じように動ける訳では無い。命令を出してから時間差もあるし、動作も完璧とまではいかない。だから、毎日身体の色々なところを動かし、調整を繰り返し、誤差を小さくしていった。

 だから半年経った今では、以前の様に身体を動かせる。いや、それはもしかしたら以前以上に動かせるのかもしれない。

 「(確か、私は運動オンチだったはず)」

 身体の調整の為に色々と運動したりするのだが、そのたびに脳みそが一瞬思考が停止する。そして頭が、運動したくないと考えてしまう。

 一旦身体を動かし始めてしまえば、そんな考えは霧散してしまうのだが、それでも毎回運動し始めは憂鬱だ。

 この憂鬱になるのはきっと以前の私の考えなんだろう。

 何となくだが、そう理解をしていた。落ち着けば、以前の記憶が全て戻ってくるような気がしていたが、記憶はずっと靄がかかったままだった。

 あまりにも気になるので、ある日、綾瀬先生にこのロボットの身体はどれぐらい以前の身体と同じであるのかを質問した。

 見た目は以前とほぼ同じに作られているし、触ってみてもそれは人と同じように作られている。そう綾瀬先生は言った。確かに手触りも肌特有の弾力も人間のそれである。

 「でも、中身は違っているよ。この身体を動かしているのは機械だ。だから人間の様な筋肉が無いおかげで少し無茶な動きをしても疲れないし、長く筋肉を使わなかったからといって衰えるわけでもない。それに人によっては以前よりも動ける場合もある」

 ということは、私はきっと以前の私より動けているのだ。そう理解した。

 「そうそう、君が眠っている間にね『教育』をしておいたから」

 「『教育』?」

 「ほら、睡眠学習っていうのがあっただろう? あれの技術も改善され、植物状態の人間が目覚めた後に日常生活に困らないようにするための措置が出来たのさ。君のように、何年も眠っていると見た目は当時のままだが、法律上では年を取っていく。見た目が変わっていなくても、周りの目が気になって学校に通えなくなる子も多いからね」

 確かに、手術後に鏡で見た自分の姿には驚いた。そこに映っていたのは四十越えの人間には見えなかった。高校生の自分であった。

 確かに大学なら年齢も見た目も気にせず学校には通うことは出来るのかもしれない。

 「それに、三十年で教育内容も変わってますもんね」

 「そうだね」

 自分の習っていない、全く知らない内容をこれから習っていくというのもなんだか気乗りしない。

 「ああ、でもその『教育』のおかげで今の君は現代の大学生と同じぐらいの知識量を兼ね備えているから、大学に入学しても何の苦労もないと思うけどね」

 「……技術の進歩って凄いですね」

 「うん。まぁ、まだこんな話しても信じられないだろうから、取り敢えずこの教材を解いてみたらどうかな?」

 綾瀬先生はとある大学院の過去問を渡してきた。事故にあう前は普通の高校生をしていた人間に随分不釣り合いなものを渡してくるな、と思いながらも特に断る理由も見当たらなかったので、そのまま受け取った。

 その日の夕方、受け取った過去問に手を付けたら、夕飯までの数時間で解ききってしまった。その時、私は一種の恐怖を感じたのだった。

 手術が終わって、一年が経った。

 「今までありがとうございました」

 「うん。リハビリお疲れ様」

 病院の入り口に立ちながら、感慨深そうに綾瀬先生が言った。

ほぼ全身を手術したのだが、一年で身体を自由に動かせるということに少しの恐怖を覚えながら、そう言った。

 綾瀬先生は、微笑みながら私の頭をポンポンと叩いた。私の方が戸籍上は年上なんだけどな、とか思いながら着替えなどが入っている鞄を持ち直す。

 「タクシー、来たね」

 「そうですね」

 「ご両親は?」

 私は黙って首を横に振る。私の両親は手術後、数回しか見舞いには来なかった。私も両親も会うたび、話すたびに何か大きな溝を感じた。それが何かは明確には分からなかったけれど、それは両親も同じなのだろう。仕事が忙しくてすまん、と歯切れ悪く話す両親の姿を見るたびに、私に関わらなくていいのに、と思っていた。だから両親が全く顔を出さなくなってからは、溝も感じなくて済むので正直気が楽だった。

 「何かあったら、すぐここに帰ってきていいんだからね」

 「ありがとうございます」

 綾瀬先生の言葉に少し違和感を覚えながら、私はタクシーに乗り込んだ。

 扉が閉まり、発車する。窓から外を見ると綾瀬先生がこちらを見ていた。手を振るほど子供でもないので、ぺこりと頭を下げる。向こうも同じ動作をした。

 段々と先生の姿が小さくなり、前を向く。タクシーは向かいに来てほしいこと伝えた電話の時点で行き先を告げてあるので、特に道順を尋ねられることもなく、タクシーの中では会話は無かった。

 「(それにしても、これだけ技術が進歩しているのにタクシーはあるんだなぁ)」

 そんなことを考えていたら、家の前でタクシーが止まった。私は料金を払い、荷物を持ちながら降りる。

 家は私の霞みがかった記憶とほぼ同じものだった。

 事前に両親から渡されていた鍵を使い、家の中に入る。誰もいないので中は暗い。

 「確か、二階に私の部屋があったはず」

 二階に上がり、廊下を進むと突き当り右に「怜奈の部屋」と書かれたプレートが下がっている扉があった。扉を開け、中に入る。部屋の中は綺麗に掃除されていて、三十年の月日が感じられなかった。

 部屋の中にあったベッドで横になってみる。もふもふしていて、天日干しした後の独特の香りが敷布団からする。

 眠くなってきた。

 私はベッドの隅に畳まれてあった掛布団を手繰り寄せ、眠りについた。

 「いい加減にして!」

 「それはお前もだろう! あいつはお前が思ってる奴とは違うんだぞ!」

 「ふざけたことを言わないで!」

 「ふざけているのはお前の頭の方だろう!」

 ああ、騒がしい。ゆっくり眠りたいのに。

 そう思いながら、目が覚めた。両親が一階のリビングで喧嘩しているのだろう。これは、三十年前も今も変わらないのか、と思いながらも取り敢えずベッドから起き上がる。ベッドの横にあるデジタル時計で時間と日付を確認する。退院してから既に一日経っていることを時計で確認する。

 寝すぎたな、と思いながらベッドから降り、伸びをする。両親の声が聞こえなくなった。きっと父親が仕事で家から出たのだろう。部屋から出て、階段を降りる。廊下を進み、リビングの横を通る。

 母親がリビングの扉を開け、顔を出す。

 「あら、怜奈。おはよう」

 「おはよう、お母さん」

 「ほら、早くご飯を食べないの? 高校に遅刻するわよ」

 「……え?」

 私は動きが止まってしまった。私は三十年間眠っていた。今は高校に通っていないし、これから通いたいとも思っていない。

 「ほら、ハムエッグ。あなた、好きでしょ?」

 母親が手で示した方を見ると、リビングのテーブルには冷え切ったハムエッグとご飯が並べてあった。

 「どうしたの?」

 母親の笑顔に恐怖を覚えた。怖い。怖い。何を言っているのか理解が出来なかった。いや、理解したくなかった。

 「あ……。えっと、お母さん」

 「ん? 何かしら」

 「きょ、今日は、高校休みだよ」

 自分の声が震えているのがよく分かった。そして母親の目つきが一瞬変わったのが見えた。私のことをきつく睨んでいる。表情は無い。

 私に向けて、大きく手を上げて

 「あら、そうだったの。うっかりしていたわ」

 その時、母親は我に返ったのか、顔に微笑みを浮かべ、手を下した。

 私は大きく目を見開いて母親を見つめていた。身体が動かなかった。

 「そうそう、私もこれから仕事があるから、昼食は一人でよろしくね。帰ってくるのは六時ごろになると思うわ」

 「わ、分かった」

 「じゃあ、行ってきます」

 私は震える喉で声を絞り出す。

母親は私の返事を聞くと、私の横を通り過ぎる。心臓がばくばくと音を立てながら、全身に血液を運ぶ。なのに、指先は血液が通っていないかのように、冷えていく。

 「いってきます」

 「い、いって、らっしゃい」

 ばたん

 扉が閉まる音が聞こえた瞬間、全身の力が抜け、床に座り込む。まだ心臓がばくばくといっていた。

何故か、傷も何も無いはずの右足のくるぶしのところがじくじくと痛

んだ。いや、何故だかは分かっていた、分かりたくなかったが。

 つい先ほど、靄がかっていた記憶が鮮明に思い出されたからだ。

 それは、悪夢のような記憶だった。

 小さい頃から、家は呪いの場所だった。

 起業家である父親。父親を支え、自らも事務作業をしていた母親。

 一見幸せな家庭だった。でも、それは外見だけだった。

 父親は、仕事で何かあると母親にあたった。母親は何も抵抗しなかった。しかし、父親から受けるストレスの捌け口を私にしていた。

 最初は躾としても取れる程度のものだった。まだ幼い私が言うことを聞かないと、我が侭を言うと、泣き出すと、何か間違いをすると、強く叩かれた。最初の頃はあまり痛くなかったそれも、どんどんエスカレートしていき、叩かれた部分は母親の真っ赤な手形が浮かび上がって、じくじくと何日も痛んだ。

 いつしか、叩かれなくなった。もう躾をするほどの年齢でなくなったからではない。

何度も同じところを叩いていたせいで、真っ赤な手形は身体にシミの様に残るようになってしまったからである。これでは、虐待であると思った母親は新しい躾を考えた。

 新しい躾は、右足のかかとに煙草を押し付けるものだった。もうこの頃にはこれは躾ではなく、ただ母親のストレスの捌け口として行われている行為であることを私は理解していた。しかし逃げたくても逃げられなかった。逃げた後に見付かるのが怖かった。見付かった後にどんな躾がされるのかを想像すると、身動きが出来なかった。

 出来ることなら、母親にも父親にも顔を合わせたくなかった、しかしそんなことをして、母親の機嫌を損ねたら……。そう思うと毎朝家族と顔を合わせるしかなかった。いつまでも心も身体も家という呪いの場所に鎖で繋がれていた。

 毎朝、起きるのが辛かった。起きて顔を合わせるのが辛かった。

父親と母親の言い争っている声で起きた日なんて最悪だった。そういう日は、大抵父親は母親の作った朝食に手を付けずに早く出勤する。言い争いと自分の作ったものに手を付けなかったことに苛立ち、母親は朝から私に躾をする。

 逃げ出したかった。家から。現実から。全てから。

 だけど、私は必死に生きていた。まだ望みはあったからだ。

 いつか父親が気付いてくれる。父親は母親が躾をしている時は、いつも家にいない。そういう時を母親は選んで躾をするからだ。だからきっと、躾のことなんて知らないんだ。知らないから、私を助けることも出来ないんだ。知ればきっと、母親の躾を止めさせてくれるはず。

 そう信じていた。

 しかし、現実は違った。

 「もうさ、いい加減にしてほしいよな」

 ある日の深夜、突然目が覚めた。ベッドから起き上がり、時計で時間を確認すると時刻は午前一時。もう母親も寝静まっているはずの時間。

 しかし、一階から話し声が幽かに聞こえた。声の主は父親だった。

 今しかない。今しか父親に母親のことを打ち明けられるときは無い。そう思った。母親の前ではこんなこと言えるはずもない。しかし、父親は働きづめで私と父親の二人きりで顔を合わせるときなど年に一回あるかないかの出来事だった。

 母親を起こさないように、忍び足で廊下を進み階段を降りる。リビングの扉の前に立ち、耳をそばだててリビングの様子を伺う。父親はどうやら誰かと電話しているようだった。

 「もうこっちは毎日ひやひやしてんだから、笑うなって。分かってるよ。あと二年だ。我慢しろよ。あいつが成人したら別れてお前と結婚してやる。あ? 怜奈のことか? あいつを引き取って、何かの拍子に虐待のことがバレてみろ。お前も俺も破滅しかねぇんだぞ。そんな危なっかしいの引き取る訳ねぇって。可哀想だがな。しかし、あいつもよく逃げ出さないよな。俺だったらとっくに逃げ出してるって。あいつが逃げ出してくれたら、もっと早く別れて、お前と一緒になれるのにな」

あ……あぁ……あ……。

目の前が真っ暗になるのを感じた。

希望なんて、望みなんて、最初から存在していなかったのだ、この家には。いや、薄々感じていた。希望なんて、望みなんて無いことなど。でも、少しでも持っていたかった。捨てたくなかった。どもそれも全て泡となって消えた。そのことを理解した瞬間、心が悲鳴を上げた。体が悲鳴を上げた。今まで我慢していたものが全て噴き出した。しかし、皮肉なことに今まで母親に躾られた私からは悲鳴は実際には出なかった。

 逃げなくては。逃げなくては、この家から。

真っ白になった脳みそにはその言葉しか無かった。ここから、逃げなくては。自分はダメになる。いや、とっくにダメになっているのかもしれないが、希望のない、望みのないこの場所にしがみついていても何も無いことが明確になった今、この呪いの場所から一刻も早く立ち去らなくては。

 震える手で玄関の鍵を外す。素足のまま靴を履いた。パジャマであることなんて気にする冷静さなんて無かった。

 外に出た。夜の少し冷たい風が、パジャマである私に容赦なくふきつける。私はただ目的地もなく走り出していた。一刻も早くこの場所から離れたい、その一心で走った。運動が苦手で、体力も無かったから何度も転んだ。走る振動で転んだ時に出来た傷口がじくじくと痛んだ。煙草を押し当てられて見るに堪えない状態になっている右足の傷も痛んだ。でも、母親の躾に比べれば、痛くなかった。

 はぁ、はぁ。

どこをどう走ったか全く覚えてないが、今はどこかのビルの陰にいた。

 走り続け火照った身体とは対照的に頭は酷く冷静だった。

 死ぬしかない。

 そう思った。あの場所からどんなに離れても、身体が、心があの場所に鎖で繋がれている感覚がしていた。どんなに逃げても逃げられない、と直感で理解した。この鎖を断ち切るには、死ぬしかない。そう結論に至った。

 家を飛び出したのは深夜だったが、明るくなってきた。朝だ。朝は平等にやってくるというが、そんなのは嘘だ。私はまだ夜の中だ。

 ビルの陰から出る。さぁ、後はトラックが来たときに道路に飛び出し、トラックに轢かれれば、この鎖を断ち切ることが出来る。

 そう信じ、スピードを出していたトラックの前に身を躍らせた。

 全て、思い出した。私が三十年眠っていたのは、事故なんかじゃなかった、自殺だった。それがなぜか助かってしまった。そして、生きてしまっている。

 また、鎖に繋がれてしまった。

 記憶が戻った瞬間、三十年前の自分に戻っていた。何も思い出せなかった頃の自分とは全く違うものになってしまった。

 頬に暖かいものが伝う。泣いているのだと頭で理解した。

 この家は、地獄だ。混乱しながらも頭で理解した。

 どうしよう、また逃げなきゃ。逃げなきゃ、また母親に躾をされる。今度はきっと私が逃げ出さないようにもっと酷くなる。もっと、頑丈な鎖で心も身体も繋がれてしまう。先程の母親の様子から見ると、母親の中の時間は三十年前から動いていない。それならば、躾も三十年前と同じように繰り返されて何もおかしくない。いや、酷くなってもおかしくない。そして、父親も今朝の喧嘩の声を聴く限りだと、前と一緒で希望になる存在ではないだろう。

 じゃあ、綾瀬先生は。

 綾瀬先生は私が手術を決めたとき、止めてくれた。何か知っているのかもしれない。もしかしたら、躾のことも知っているのかもしれない。

 でも。

 もう希望を、望みを持つことが怖かった。もう一度裏切られるのが怖かった。

 逃げたい。逃げなきゃ。

 頭の中でその考えがぐるぐると回る。ただ立ち上がって、この場所から逃げなくては、そう思い、立ち上がろうと足に力を入れるが、力が入らない。今まで身体に何も不具合は無かったのに、こんな時に! と心がはやる。

 ガチャリ

 逃げられない! と絶望が心から溢れだした。

 玄関の扉が開く音が聞こえた。頭が真っ白になった。

 「ただいま……って、怜奈、どうした!?」

 父親が帰ってきた。リビングで泣きながら座り込んでいる私を見て、駆け寄ってくれた。

 「また、母さんと何かあったのか」

 やめて、そんな優しい言葉をかけないで。また希望を、望みを持ってしまう。

 「おい、何も言えないのか。どうしたんだ」

 父親が私の顔を覗きこむ。

 「やっぱり、お前を引き取れば良かったな」

 「えっ……」

 父親の発言に間抜けな返事が口から零れた。

 「お前が眠っている間に離婚したんだよ、聞いてなかったか?」

 「な、何を……」

 「お前が眠っている間に俺とあいつは別れたんだよ。親権はあいつにあるが、あいつの今のあの状態を見ると俺が親権を取った方が良かったな」

 あぁ、そっか。

 「俺と別れれば落ち着いてお前に虐待をしなくなると思っていたんだ。だが、あいつはお前の目が覚めてから三十年前の続きをしようとしている」

 分かった。いや、分かっていた。全ての根源は

 「三十年前は俺と別れる前だ。だから、きっとまた虐待も」

 「もういいよ」

 この人は私が死のうとした本当の理由を知らない。自殺未遂は知っていても、全ては母親の責任だと思っている。だから、自分と別れ、母親が落ち着けば母親と幸せに暮らせるのだろうと勘違いをしている。本当は違うのに。

 父親も私が死のうとした本当の原因の大きな一つであるのに。本当にただの事故であると思っているのだろう。

 きっとこの人は何も分かっていないんだ。だって知っていたら、分かっていたら、私を引き取ってくれるはず。引き取らないとしても、もっと何か出来たはず。いや、分かっていても面倒だから何も私の為になることをやらなかったのかもしれない。

 父親に憎悪の感情が芽生えた。母親の躾を知っていたのにそれを見て見ぬフリをしていたこと。母親の状況が悪化することなんて、火を見るよりも明らかなのに、外で女を作ったこと。自分が原因で母親があのような凶行に至っているのに、別れるだけで母親の行動が収まると思い込んでいたこと。母親から離すという最善の策を取ってくれなかったこと。沸々と身体の中が煮えたぎる感覚がした。

 ロボットの身体なのに、変なの。

 脳の一部は酷く冷静だった。だが、大部分は憎しみで真っ赤に染め上げられていた。

 「私は、鎖を断ち切りたかった。お父さんなら分かってくれる、助けてくれると思ってた。だけど、お前は私の現状を知っていながら、捨てた!」

 叫んだ。生まれて初めて、心から叫んだ。

 「お母さんの躾を知っていた! 虐待だと知っていた! それなのに、お前は! 外で女を作って! お母さんの躾が悪化するなんて、少し考えれば分かるのに!! お前がきっかけで始まった躾なのに! お前だけ逃げて!! お前だけ……」

 ぜぇぜぇ。

私の呼吸音だけ静まり返ったリビングに響く。

 「……すまん」

 それは何に対して、謝っているの? 躾を知っていながら見て見ぬふりをしたこと? 外で女を作って、家庭環境をより劣悪化させたこと? 私を母親の元において離婚したこと? それとも、それら全部に対して誤っているの? そう言いたかった。叫びたかったが、目の前の男は私に手を伸ばしているのを目にした瞬間、息が止まった。

 私はその手に触れないように、思わず後ずさりをした。

 「あっ」

 それは今までの条件反射の様なものだった。反抗した私は、父親という存在の人間にこのような口をきいた私は、叩かれるのだと思った。躾をされると思った。

 父親の目を見られなかった。きっとそこには怒りの色が映っているから。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ! 父親にも、躾をされる! 心が、身体が、この呪いの場所に鎖で繋がれる!

 私は反射的に立ち上がった。そして、父親の横を駆け足で通り過ぎて、そのまま玄関から、家から飛び出す。後ろは振り返られなかった。

 逃げなきゃ。もう誰も味方じゃない。もう希望なんて、望みなんて他人に待てない。持ちたくない。信じられるのは自分だけだ。

 走り続けた、ここがどこでもいい。ただ逃げたかった。

 新しい身体は皮肉なほど疲れなかった。転ぶこともなかった。

 昔と笑ってしまうぐらい同じなのに、そこだけが違っていて、酷く可笑しかった。

 「もう、いいよね」

 ここはどこかの廃墟になったビルの屋上。右手には、ビルの中で拾った手よりも大きな細長いガラス片。

 この身体になって、死ねるのか疑問だった。試しに、ガラス片を強く握ってみる。痛みがある。そしてガラス片が食い込んだ部分から血が流れ出る。

 この身体は人間とそっくりに作られているが、人間であった部分は心臓と首から上のみだ。

 それならば、心臓を、そして首から上を殺せば、死ねるはず。

 私は持っていたガラス片を心臓の部分に差し込む。

 「……っ」

 身体は機械化されていたが、人間のように生きられるように痛覚はあった。出血もすることは確認した。痛い、痛い。でもそれより、死へ一歩近付けていることに対して希望を感じた。今までのような幽かな、淡いものではなく、それは確かな希望があった。鎖から解き放たれる感覚が身体に、脳に染み渡る。

 心臓が、ばくばくと必死に生きようともがいているのが、脳に伝わる。もう楽にしていいのに、と思いながら更に深く突き刺す。

 けほっ。

 口から血が噴き出す。

 普通ならもう突き刺すのを止めるのかもしれないが、しかし、身体は脳からの指令にしか応答しない。脳が指令を送り続ける限り、突き刺し続ける。まだまだ、深く刺さるはず。もっと刺さなければ。そう一心不乱にガラス片を握りしめ、突き刺す。

 そして、ガラス片が身体の中に半分以上埋まったことを確認すると、両手でガラス片を掴み直し

 ぐるり

 身体に埋まったままのガラス片を無理やり回した。身体から色んな神経が、血管が切れる音が脳に響く。口からは大量の血が出てきた。

 痛かった。痛かったが、それよりも喜びの方が勝った。死へ近付けている実感がそこにはあった。

 ふらつく足を叱咤し、立ち上がりよろよろと安全のために備え付けられているフェンスに近寄る。普通の人間ならきっと、出血量から考えると動くことすら、ままならないだろう。だが、新しい身体なら動いた。

 出血量からするとこれでも十分死ねるのかもしれないが、不安だった。だから、首から上も殺さなければならない。

 フェンスは私の身長より少し高いぐらいしかなかった。これなら、新しい身体であれば登れると思った。

 冷たく感覚の無くなった指でフェンスを掴み、ふらつく足でよじ登る。身体が正常でなくても脳から指令が出ているので、身体は動いた。きっと過去の私の身体なら通常の状態でもフェンスを乗り越えることは決して容易いことではなかっただろう。

 フェンスを乗り越え、フェンスの向こう側に足を置いた。何とか立つだけの縁はある。下をちらりと見ると、そこには普通の街があった。まだ夜が明けていないので、人は居なかった。

 あと一歩踏み出せば。頭から落ちれば。

 全てから解き放たれる。自由になれる。

 死ねる。

 ちょうどその時、太陽が昇り始めた。太陽のおかげで空がオレンジに染まる。確か、三十年前のあの日の空も同じような色だった。

 あぁ、結局あんまり変わってないんじゃん、そう思った。私を取り巻く環境も、こうやって絶望して死ぬことを決意したことも、死ぬ瞬間まで鎖に繋がれていることも、昼間の空の色は変わっても朝焼けは同じことも、朝は私以外の人間に平等にやってくることも、結局変わってないんだ。

 あぁ、可笑しい。笑えてくる。

 上半身を前に傾けた。傾けた上半身の重力に従い、身体全体が傾く。足が縁から離れる。もう後戻りは出来ない。後戻りなんてしたくもないが。

 ふふふ。

 口から笑い声が漏れた。やっと自由になれる。楽になれる。それが嬉しかった。

 これで死ねる。

 もし、技術の発達で生き残ったとしても、何度だって死んでやる。

 誰も私を鎖に繋がせたりなんてさせない。

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