新しい挑戦を支える土壌。伝統と革新の交差点、京都で"していい"を探る。(後半)
この記事は、「新しい挑戦を支える土壌。伝統と革新の交差点、京都で"していい"を探る(前半)」の後半記事です。
まちに息づく、“一息つく”場所
前半の記事では、訪れたいくつかの場所を、”新しいことを始める場所”として紹介しました。後半であるこの記事では、京都で見つけた、”まちに息づく、一息つける場所”を、想像を膨らませながら紹介していきます。
サウナの梅湯
まち歩きを続けて体はもう疲労困憊。一日の疲れを癒すために、街の人々も訪れる『サウナの梅湯』に行くことに。京都府内外の知り合いにおすすめされた銭湯です。
2015年に廃業寸前から再び始動したこの銭湯、時の流れを感じさせるその佇まいが魅力的であるのに加え、銭湯内ではオリジナルステッカーやTシャツが並べられており、懐かしさと新しさが共存する空間がありました。温かみのあるロビーは、お客さんが行き来する賑やかな雰囲気です。
この銭湯は、この街の人々にとってどんな存在なのか考えてみました。
ここでは、ご近所さんと一緒になって時間を過ごすことができます。それに加えて、番頭さんと会ってちょっと話して、その一日にささやかなリズムを生み出しているのかもしれません。はたまた、予想もしない人にこの場所で出会うこともあるかもしれません。
きっと疲れを癒すだけではなく、一日を豊かにするリズムとアクセントを生み出す場所としても魅力もあるのでしょう。さらにそんな雰囲気を味わい、あわよくばその雰囲気の一員になりたい人が全国からやって来ていることで、それが適度に開かれたゆるい雰囲気に繋がっているのかもしれません。
フェンスに吊るされた謎の空き缶
次に見つけたのはこちら。駐車場のフェンスに括り付けられた空き缶です。たまたま目に入ったので「これは何だろう?」と思い、観察してみることにしました。手前のフェンスに1つ、奥の方のフェンスにもう1つ括り付けられているのが見えます。そこで、メンバーと話しながら、ちょっと背景を妄想してみました。
これらの空き缶は、月極駐車場のフェンスに括り付けられているので、そこに駐車場を借りている人が使うものでしょうか。たぶん車中で吸うのがはばかられたり、誰かの乗る前・降りた後の一服ルーティーンの場所なのかもしれません。
でもちょっと変だなと思うのは、この空き缶が括り付けられているのはフェンスを隔てて外側の道路の方に出っ張っていること。
これらの缶はどんな経緯でこんなふうに設置されたのでしょうか?はじめは、月極駐車場で”ちょっと一息”つきたい人がここで一服することがあって、吸い殻や灰が駐車場に落ちたままになっていたのかもしれません。それを見た管理人さんは、月極駐車場でタバコを吸うのを注意したのでしょうか。もし駐車場でのタバコを禁止しているのだとすれば、一応「駐車場の外側」に缶が設置されていることにも意味があるのかもしれません。
もしかしたら、これは管理人さんの配慮で設置したもので、吸い殻を一度に回収しやすいように道に面した側に出している可能性も考えられます。実際のところは分からずじまいですが、「こういうことかもしれない」と、いろいろな想像ができます。あなたならこの空き缶の意味をどう考えますか?
鴨川沿いのあれこれ
鴨川は京都の市街地の東側を流れる川。東京都内の川のように排水路のようにはなっておらず、河川敷があってやや開けた場所になっています。市街地に沿って流れているため、あえて川沿いを歩くこともできます。
宿泊先で聞いた話によると、鴨川は人々が散歩を楽しんだり、恋人同士で座ってちょっと話をしたり(そんなカップルが並んでいる様子を「鴨川等間隔カップル」というらしい。なんか、専門用語みたい?)、地元の大切な場所とのことです。すぐ裏手は若者が集まる繁華街で、彼らにとって鴨川沿いは、夜ご飯を食べてから終電を待つ少しの間を過ごしながら、酔い覚ましも兼ねてその日一日に思いを馳せる大切な場所のようでした。
ここまでで、いろいろな場所を見ていく中で考えたのは、「一息つける」時間を生む場所が街に息づいていること、それが疲れを癒すという目的を果たすためだけではなく、生活の豊かさやリズムを生み出すことにつながっているのではないかということです。
消費の接点に潜むギャップ
「一息つける」時間・場所というのは、何も休憩所だけを指しているのではないのかもしれません。そんなことを考えた場所・出来事を紹介します。
京都錦市場商店街
錦市場は約400年前に江戸幕府が公認し、本格的な魚市場として始まりました。活気あふれるお店が立ち並ぶ通りには、観光客だけでなく地元の方々で賑わっていました。
「食べ歩きはやめてくださいね」と可愛らしくはにかむ商店のお母さんの言葉からは、錦市場のローカルマナーが一軒一軒お店に浸透していることが伝わってきます。400年という歴史がありつつも、観光客として訪れていた私たちにオープンに接してくれました。
珍しい食べ物もあり、メンバーのわたるはスズメ(食用)の串焼きを食べていました。ちゃんとその場で美味しく完食、ごちそうさまでした。
老舗の荒物屋
まち歩きを続けていると、控えめで洗練された佇まいのお店があるのに気づきました。吸い寄せられるようにその店に近付いていくと、たわしやほうきなどが棚にキッチリと並んでおり、その店の青年がキビキビと洗練された手捌きで仕分けを行っていました。
何十年、何百年という時間を経て洗練されたであろう手作りの雑貨に見惚れていると、店を切り盛りするその若者は私たちの存在に気がつき、一瞥すると、すぐさま仕分け作業に戻りました。その瞬間、何とも言い難い、越えられない壁のようなものを感じた気がしました。
荒物屋で感じた感覚は「敷居が高い」に似た、自分のコミュニケーションがうまくいかなそうな感覚でした。このような現象は、生活の色々なところにあるはずなのかもしれません。それは、共通の文化の理解が不足していたり、それを理解するためにはどうすればいいのかが分からない状態に起こるのかもしれません。
「調律」の発見
ここまでで、気づいたことをまとめておきたいと思います。
「一息つく」という行為には、その目的を果たす合理性だけではなく、そのリズムがその人自身の生活にも、そして街の中にも息づいているということが大切なのではないか、ということに気づきました。
さらに、そこから少し話を広げてみると、「一息つく」ということは、疲れを取り除くという目的というより、自分の心身の状態を再確認して、「調律」するための行為であることなのかもしれません。
そうすると、生活の中にある行為には、それが癒すという目的でなくても、自分自身を「調律」する目的を果たすこともあるのかもしれません。
お店との関わり方でいえば、行きつけのお店に通うこともそうであるといえます。そんな「調律」の要素が一人ひとりの生活に息づくことで、その人を豊かにすることができるかもしれません。そしてこれは、一人ひとりがその街にただ住んでいる、延命されているのではなく、自分なりに関わりを持ち、影響を与えながらまちを使いこなすことに繋がるのではないでしょうか。
次回からは、実際の活動として「調律」という切り口でどんな「していい」が描けるかの挑戦をお伝えできればと思います。