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戸川純は女優である

15年ほど前、2006年にはてなにあげたテキスト。テキストのアーカイブとしてnoteを使ってみようかな、と思い、テスト。

今後何かあらためて書いてみたいと思った時のプラットフォームとして。

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あくまで私的な色々ですけれど。


遡れば…、TOTOのウォシュレットのCM?宝島のゲルニカ記事?\ENレーベルの販促物?…刑事ヨロシクのつや? 何がきっかけだったかはちょっと思い出せないですが、中学生だった私のハートを鷲掴みして、高校の時には通学カバンにステッカーも貼っていました。
ゲルニカの「改造への躍動」からヤプーズ「大天使のように」まで聴きつづけ、そしてしばらく離れていたわけですが、聴きたくなったときにはレコードプレーヤーはなく、CDは廃盤。ようやく最近になってのCD再発で、改めて聴いて、なぜ一頃離れたのか、を自分なりに納得したい、といった感じです。


解散近いハルメンズの上野にスカウトされる形で参加したゲルニカ。ゲルニカの制作物自体がコンセプチュアルなもので、そのパーツとして機能するために戸川のボーカルスタイルは自由度の高いものではありませんでした。同時に、当時の彼女にとっては、既にあるイメージに近づいて演じる方が、容易であったと思います。この時期のボーカルスタイルは演劇性を導入しているものの、まずゲルニカありきであり、そのイメージを逸脱するものではなかった点で、変幻自在などと冠されたとしてもその振れ幅は自ずと限界がある。というか、限界を設定したからこそゲルニカたりえた、とも言えるのでしょう。1982年にアルバム「改造への躍動」を発売、そしてシングル「銀輪は唄う」をリリースし、ゲルニカは活動を休止します。


1984年の初のソロアルバム「玉姫様」は「自らのアイドルたちを集めて作った」と言っていたように、彼女のアイドルバンド(ハルメンズ、81/2、PINK…)の曲に客演した曲を集めたような内容だったと思います。「森の人々」や「隣のインド人」などはハルメンズのデモ曲として存在していたらしいし、「踊れない」は81/2、「昆虫群」はハルメンズの1stの幕開け曲で、彼女自身は曲が求めるイメージ(=彼女がアイドルバンドたちに投影していた自己イメージ)をを自然に演じていたのではないか、と思います。すなわち「これが戸川純だ」と提示できるほどには自己イメージが確立されていなかった、と。


同年の「裏玉姫」でのヤプーズは後のヤプーズとは別物で、ツアーのためのバックバンド程度の位置付けと理解して構わないと思います。残された音源も「戸川純とヤプーズ」とクレジットされつつも、バンド的な部分の押し出しよりは、あくまで「戸川純」のライブ音源です。その秀逸なバンド名を引き継ぐことから、後のバンド活動のビジョンが萌芽したとも思えなくは無いですが。
「電車でGO」などのハルメンズの曲、81/2の「ベッドルームクイーン」なども演奏されていたようです。
蛇足ですけど「パンク蛹虫の女」の「パンク」は便宜的なもので、パンクとはちょっと違う。パンク的というか。切迫した、その表現方法であるが為の理由付けが希薄で、表層的。バンドの形態で、レパートリーに加える際のリアレンジ程度ののもので、元曲に対する批評性のようなものはありません。それゆえにちょっと気恥ずかしい。そしてパンクというには演奏技術がありすぎる。


そして、テレビ出演も果たした玉姫様のライブアクトで「壊れてる」というイメージを獲得することになったと思います。ただこの「壊れてる」も彼女の演技の一つであり、そのイメージは後々足かせになったと思います。


同年5月にシングル「レーダーマン」をリリースしています。カップリングの「母子受精」もあわせてハルメンズのカバーですが、ここで戸川の方向性が若干ブレたように感じます。楽曲における必然性が乖離し、オーバーアクト自体が空回りした印象で、玉姫様以降の戸川純に対するマスイメージを自らなぞっているようです。レーダーマンの歌詞は、視点がめまぐるしく変り、その点で非常に戸川向きな曲と言えなくも無いですが、めまぐるしく変るが余り、曲中の誰かを演じるようなボーカルスタイルは取れなかったのが要因のひとつだったかも知れません。
発売時期を考えると、甚だレコード会社の意向(玉姫様の思わぬ反響→勢いのあるうちにブレイクさせたい)によるシングルと思うべきなのかもしれませんが、ディスコグラフィの中でもちょっと違和感のある存在ではあります。


1985年にソロとしてでなく「戸川純ユニット」として、45回転12インチで発売された「極東慰安唱歌」。吉川洋一郎と飯尾芳史がユニットに名を連ねており、デジタルレコーディングの現場で飯尾が大きな役割を果たしたであろうことは容易に想像できます。デジタルイクイップメントによるハイファイなサウンド、であり、戸川のボーカル位置付けはあくまでもボーカリストに近い。
アンデス風あり、校歌あり、デジポップあり、で、そのバラエティさは1stを彷彿とさせるものの、1stが限りなく人力・ローファイな感じの感触であったのに比べて、その全てがデジタル化しています。「こんなのがやりたい」という戸川のアイディアに限定された環境で応える、その過程こそが実験で、そう考えるとソロ名義でなく、ユニット名義というのも頷けます。


1985年に「好き好き大好き」が発売されます。とりあえず傑作である、と言いたい。言います。テーマの軸に「恋愛」を据え、各曲でそのキャラクターを演じることで、戸川純の魅力を遺憾なく発揮していると思います。音の面では趣味をプッシュこそすれど、仕上がりに口を出したりはしなかったではないか、と類推します。何でもありで、各々のベクトルこそ違えど、キャッチーでポピュラリティに富んだ楽曲群のこのアルバムでは、下手に音楽家としての部分をアピールすることなく演者に徹することで大きな収穫が得られたと思います。


そしてツアーを挟み、ヤプーズとして本格始動。1987年には「それはエロ・グロ・イノセンス」のコピーされた「ヤプーズ計画」でデビューを果たします。「バンドの一ボーカルという立場に収まることは、戸川純の魅力は精彩を欠くのではないか」「ほんとにパーマネントなバンドとして続けていくの?」という懐疑を持ちつつも、「変幻自在」な「ボイスパフォーマンス」は、マルチトラックレコーディングの状況で、トラックメイキングにおいてキャラクターを隙間に散らすという方法で昇華されたようにも感じました。各メンバーがコンポーザーとして優秀であることもあいまって、バラエティに富む楽曲が準備され、華やかなデビューアルバムであったと思います。


上野の談によると「レコード会社主導のゲルニカ復活」で1988年にゲルニカ「新世紀への運河」が発売されます。既にヤプーズにおいてロックボーカリストである戸川純は、ゲルニカ1st時の「ゲルニカがイメージする当時の演者になりきる」のではなく、戸川純としての歌唱に変化しています。ゲルニカの「架空の戦前・中・後歌謡の模倣であること」が魅力であったことを思うと、ゲルニカらしさの一端は間違いなく欠落していると言わざるをえません。上野のオーケストレーションも、質が上がることがすなわち、もともとのゲルニカにあった、見世物小屋的ないかがわしさを感じさせなくなっています。「集団農場の秋」のようなムダに大げさな曲もあり、必ずしもゲルニカ的でないわけではないのですが、1stのころのゲルニカではありません。


1988年、ヤプーズは2nd「大天使のように」を発表します。「普通のロックバンドになってしまった」が当時の印象です(今改めて聴くとまた違った感想を持つのかもしれませんけど)。戸川純の名義においてならバックトラックは無責任に鳴らしたい音を鳴らしても許されるものの、ヤプーズと冠した時点でバンドとしてのアイデンティティを求められるので、それは結果的に楽曲やバックトラックの幅を狭め、戸川を十分に奔放にさせえないのではないか、なんてことを思いました。1st時の懐疑が現実のものになった感じですね。戸川純はヤプーズに含まれるのでなく、戸川純とヤプーズでもなく、戸川純 vs ヤプーズくらいの関係がベストな気がします。


で、そしてしばらく戸川純の音楽活動から距離を取ることとなりました。

要約すると。

戸川純の音楽との関わり方は「プロデュース」「歌詞を書く」「歌う」とあるわけですが、こと「歌う」においては、歌手としてのスキルとかそういう部分は置いといて、「演じる」方がよい結果を導く気がします。ゆえに「戸川純は女優である」と、結ぶ次第です。


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