飽きっぽいことは健全だと思う
一昨日夜市で占いを出店していた知人の
応援がてら久しぶりに
占いをしてもらったという話をしました。
前回の投稿で話していなかった
言われたことで
もうひとつ当たっていると感じたことを
お話しするとそれは
一緒にいる人の影響を受けやすい
ということです。
このことは私自身も自覚があり
人とあまり深く関わらろうとしないのも
それを意識しての行動なのです。
今となっては「冷たい」と言われるように
なりましたが
本来の私の性格としては
人に感情移入しやすく
泥沼にハマりやすい性質を持っています。
そしてそれは自分の性格の中でも
自分自身があまり好きではない部分で
「冷たい」と言われるようになったことが
どこか嬉しいように感じる部分すらあります。
辛い状況下にいる人を助けているうちに
自分まで巻き添えになってしまうという状況を
私は内心忌み嫌っています。
人と一緒に長く居過ぎてしまうと
情が出るようになって
その結果自分の大事な意思決定すら
曲げてしまうことを大変恐れています。
だからこそ
人に忖度せずに自分の道を突き進む人を
私は尊敬の対象として
つい崇めてしまうのかと思います。
私が「推し」がいいなと思う理由は
自分のそばにいるわけではないので
意見の違う時は楽に離れられるからです。
そうやって自分の意見が変わるたびに
推しをいくつも変えてきました。
実家の親戚から私は
「SISは宗教に洗脳されそう」
と言われたことを
半分「たしかになぁ」と思いつつも
もう半分は「わかってないなぁ」とも
思ってどこか意識してきました。
私の意見は確かにインフルエンサーとか
推しの受け売りかもしれませんが
それでも人間である以上
完璧に私と一致した価値観なんてないと
思っているので
自由に行き来して
自分の意見を追求していきたいのです。
そのために「飽きる」という工程は
私にとって必要でした。
私の思う「洗脳」とは
その自分の推しの意見が
自分と違うとどこか違和感を
感じているのにも関わらず
その違和感を飲み込んで
盲信してしまうとか
情でそうせざるを得ないようになる
というような
自分を犠牲するような状況が
続いてしまうことだと思っています。
自分をアップデートさせたり
意識改革を起こしたりするために
一時的にその考え方を取り入れて心酔するのは
私は全然あっていいことだと思います。
「飽き」というのは
人間が何かに盲信しないように
偏らないようにするための
便利なツールだと思っています。
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