
主体性の裏側の正義
私は今まで主体的に生きなければ
とばかり考えていました。
だから少しばかり
「我が強い」のようなことを
言われたとて
「それの何が悪い?」くらいに
思っていました。
人に流されてばかりなくせに
愚痴ばかり言っている
そんな人なんてカッコ悪いと。
ただ人生の中で
いくつかやりたいことを達成してきて
今死ぬまでにやりたいことで
思いつくことといえば
1つか2つしかないなかで
新たな目標を見つけるのが難しく
自分では決して認めたくなかったのですが
以前より「ワクワク」することが減って
「これが老いなのか」
と頭の隅に思うようなことが
増えてきていました。
そんな私にいくつかの
気付かされる出来事があって
考えが変わるターニングポイントに
なってきたように思えます。
ひとつは主体的に生きているはずの
私の知人のSNSの投稿を見た時に
なぜだかいつもと違う感想を抱いたことです。
なんというか
言葉が強いというか
間違いなく正しいことを言っているのにも
かかわらずトゲトゲしく感じて
本当になぜだか
マイナスな印象を受けたのです。
自分の信念を主張する時に
私が周囲に与えていた印象の
片鱗をそこで感じたように思えました。
また最近流行っている「推しの子」の
シーンでひとつハッとさせられた
ことがあったのです。
主人公の演技が
監督の求めている演技に
指示をされることなく
意図を汲み取れたことで
評価されたという話があり
芸能界という
一見これこそ「主体性」が求められる場ですら
人の行間を読む能力が
強く求められているということに
衝撃を受けたシーンでした。
あと自分の色を出さずに行った
接客で褒められたり
私が大事にしてきた「主体性」と
相反するものの存在の大事さが
わかるような出来事が
次々と起こったのです。
自分の信念を主張しない人というのは
今まで私は
「なんのために生きているんだろう」とすら
感じていたのですが
いざ自分がある程度満たされた時に
今度は満たされていない誰かを
満たすためのスキルを
身につけないといけないように
思えてきたのです。
そうなると少し前の私の感覚では
ただの「老い」だったものを
「ステップアップ」なのかもしれない
と感じるようになってきました。
「自分の夢が見つからない時は
人の夢を応援しよう」
という言葉を
いつだか聞いたことがあるのですが
まさにその時が近づいてきているのかも
しれないのです。
主体性の逆を意味するスキルって
なんでしょうか。
「コミュ力」もしくは「協調性」?
すべてのことに良い面と悪い面があり
今まで大事にしてきた価値観の裏側にも
また違った正義があるのだと
実感させられました。