白兎神、スマホに悩む話
注 『ウサギ神交遊記』として以前にKindleで販売していた短編集の中の一つを加筆した物語です。
こんにちは、白兎神社に鎮座するウサギ神シロナガミミノミコトと申します。
昔は因幡の白兎と呼ばれていたと言えば、ご存じの方も多いでしょうか。
さて神代の昔に鎮座して人間界を見守るうちに、時代の変化は神々の世界にも容赦なく押し寄せます。
神代以来の伝達手段である手紙から携帯電話に替えただけでもウサギ神としては大進歩だったのですが、さらにスマホへ替えることになってしまいました。
神々の間でも写メや〝つながり〟(人間のLINEに相当)が一般的となりまして、年に一度、出雲に全国の神々が集まる際には皆様から「ねえ、シロナガミミノミコト、〝つながり〟しましょうよ」「僕の〝つぶやき〟(人間のツイッター、X)、フォローしてよ」「君のケイタイじゃ、私からの写メが開けないよ。スマホに替えてよ」などなどと責められ、いえ勧められまして、神同士のおつきあいも考え、やむなく難しそうなスマホに挑戦することになったのでございます。
そして先ほど届き説明書を読んだ後、スマホを手に途方に暮れているのです。
わたくしは、じっと画面を見つめました。
アプリが並んでいます。
かれこれ一時間ほど見ていたでしょうか。
楽しくて見ていたのではございません。
繰り返しますが、途方に暮れていたのです。
あ、電話の呼び出し音です。
ヤカミヒメからです。
すぐに出ました。
通話はなんとか。
「こんにちは。どう? 今日はスマホが届くって言ってたでしょう? メールを送ってみたけれど返事がないから、まだとまどっているのかと思ってかけてみたわ」
明るいお声です。
対してわたくしは暗い声で答えました。
「ダメです、ヤカミヒメ。わたくしにはスマホは無理です」
「慣れの問題よ」
「もっと根本的なところで無理なのです。ウサギの手では、画面のキーをタッチできません~」
「ええ~! だって、あなた、そのウサギの手で、出雲で器用に鶴を折ったり餃子を包んだりしていたじゃない。画面操作くらい大丈夫だと思ったわ」
「確かに、わたくし、器用なウサギですが、さすがにこんな小さな画面のキーは無理でございます。ガラケーに戻そうと存じます」
悲痛な宣言をしたところ、ヤカミヒメは明るくお笑いになりました。
「それならタッチペンを使えばいいのよ。人間の姿になれるなら100均か家電量販店へ行けばすぐ買えるけれど、ウサさんでは無理だから、あたくしがすぐに手配するわ。安心して待ってらっしゃい。今日中に届くはずよ」
「ありがとうございます。タッチペンという手がありましたか。ご厚意に甘えてお願いいたします」
「まかせておいて!」
通話を終了しまして、わたくしは安心してカウチに寝転び、スティック・キュウリを囓ったのでございます。
ええ、毎日ニンジンスティックを食べているのではありませんよ。
その日によって、これでもバリエーションをつけているのです。
さて、キュウリをポリポリ囓ったりゴロゴロしているうちに三時間ほどたったでしょうか、神社の入り口で声がしました。
「ごめんください、シロナガミミノミコト。KFNの雉です。タッチペンをお持ちしました」
わたくしは急いで起き上がり、玄関へ走り扉を開けました。
一羽の若い雉が立っています。
嘴で首から提げた透明ケース入り身分証明書をくわえて、わたくしに提示しました。
昔は立派な錦の文袋だけを下げていたのですが、今はそれに加えて身分証明書も下げております。
これも時代ですね。
ちなみにKFNは「雉の文遣いネットワーキング」の略称です。
昔は「雉の文遣い特急便」の名称で手紙の配達をしていましたが、時代と共に神々も電話や携帯やスマホを使用するようになり、雉さん達が各方面へ手を広げました。
そこで手紙だけではなく広いコミュニケーションサービスを表す名称を考えたそうです。
全国の文遣いの雉からアンケートを集め、代表の雉たちが出雲に集まり議論したそうです。
ちなみに、なぜ東京や京都ではないかというと、国造り発祥の地として出雲は雉さん達にも思い出深い土地だからだとか。
最初は「雉の文遣いコミュニケーションズ」という名が候補に挙がったらしいのですが、短くするとKFC。
外つ国から来た鶏の唐揚げチェーン店と同じになってしまいます。
雉と鶏は違いますが、同じ鳥同士、トリを揚げる店と同じ略称はいかがなものかと反対どころかブーイングが出て、あっさり却下されたとか。
そうでしょうね。
ごもっとも。
そして「雉の文遣いネットワーキング」、略してKFNと名称が決定したのでございます。
あくまでも「雉の文遣い」という名称を残すのは、全国の雉さんが全員一致で賛成したそうです。
神代の昔から文遣いをしてきたのですから当然でしょうね。
「どうぞ、お入りください」
「失礼します」
若い雉さんは礼儀正しく室内に入り、持ってきた品を差し出しました。
「こちらがタッチペンで、これはスマホケースです。ヤカミヒメからの贈り物です」
雉さんが差し出したのは、白ウサギがうたっちしたこけしのような形のタッチペンと白ウサギのモフモフとしたぬいぐるみのようなスマホケースでした。
タッチペンは、ちゃんと耳と手足がついていて、シッポがペン先になっております。
「凝った作りですね」
驚いているわたくしの前で、雉さんは慣れた手順でスマホにケースをかぶせ、タッチペンをイヤホンジャックに差し込みました。
「はい。ヤカミヒメから詳しく形や色や材質の指定を受けまして、すぐに担当者が作りました。何十種類も出来合いのケースもタッチペンもあるのですが、さすがに今回のご注文の品はありませんでした。そのため通常なら10分程度で配達できるのにお時間がかかって申し訳ございません」
丁重に謝る雉さんに、わたくしの方が申し訳なくなりました。
「いえいえ、とんでもない。普通の品で良かったのですが、ヤカミヒメが気を利かせてくださったのでしょう。お手数をかけてすみません」
「どういたしまして。時々オーダーメイドの発注があるのですが、今回のように可愛らしいオーダーは滅多にありませんから、担当者が張り切って作っていましたよ」
「雉さんがお作りになるのですか?」
器用な鳥さんですが、こういう細工もできるのでしょうか?
すると雉さんは首を横に振りました。
「我々では無理です。別部門でニホンザルが作っております」
なるほど。
文遣いだけをしていた昔と違い、今は熊や鹿の宅配便も傘下に入っています。
ニホンザルの細工部門まであっても不思議ではございません。
「ちょっとお試しください」
雉さんに促され、わたくしはタッチペンを手にキーを押してみました。
時々はずしてしまいますが、それでもウサギの手でチャレンジするよりはずっと具合がようございます。
「ありがとうございます。おかげでスマホを使いこなせそうです」
「主な設定はすでにこちらでしてから出荷しておりますが、せっかくですし電話とメールの着信音もお好みのものに変えましょう」
そうですね、今は最初から入っている無難な音だけですから、雉さんがいるうちに変えてもらいましょう。
「それではお願いいたします。電話の着信は『ジュピター』、メールの受信音は『威風堂々』にお願いします」
雉さんは、まじまじとわたくしを見つめました。
「マジっすか?」
よほど驚いたのか、若い雉らしい本音が漏れたようです。
わたくしもついつられてしまいました。
「ええ、マジっす。今まであまりにも軽い音楽でしたから、この際、神らしく威厳のあるものに変えたいのです」
雉さんは大きく深呼吸をしました。
「こちらのデータでは、これまでの電話の着信は『ウサギのダンス』、メールの受信は『うさぎ』だったはずですが変えるんですか?」
ようやくビジネス口調に戻ったものの、非常に不本意なようです。
しかし、わたくしも負けません。
「ええ、以前から変えたかったのです。初めてケイタイを持ったときに、他の神々に勧められて『ウサギのダンス』と『うさぎ』にしましたが、いくらウサギ神だからとはいえ、こうもウサギづくしにするのもいかがなものかと。スマホにするときは、絶対に『ジュピター』と『威風堂々』のサビにしようと楽しみにしていたのです」
「はあ……」
複雑な表情でしたが、器用に嘴で操作し希望の音楽をインストールしてくれました。
試しに聞かせてくれたので、わたくしは非常に満足しました。
「どうもありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして。変えたいときは、いつでもお呼びください」
どうもわたくしの着信音をウサギ関係にしたいようです。
「変えることは無いと思いますが、操作でわからないときは教えてください」
「もちろんです。いつでもサービスセンターへご連絡ください。あ、WiFi接続は、早くからスマホをお使いの神の神社でしたらどこでもできます。またお寺でもできます。申し訳ございませんが、まだこちらの神社には備えておりませんので、必要なときは他の神社でお願いいたします。たぶん来年にはできると思いますが……」
「わかりました。その時はヤカミヒメの神社へ参りましょう。そこなら、できますよね?」
「はい、大丈夫です。それでは失礼いたします」
雉さんが帰った後、わたくしはメールをチェックしてみました。
あらま~、どさっと入っています。
全国の神々から、「スマホデビューおめでとうメール」でございます。
嬉しくなって、さっそくお礼のメールを出しました。
もちろん真っ先にヤカミヒメへスマホケースとタッチペンのお礼を申し上げましたよ。
そして他の神々へメールを一斉送信したところで、高らかにジュピターが鳴りました。
いい気分。
ヤカミヒメからです。
すぐに出ましたよ。
「シロナガミミノミコト、今度はできるでしょう? タッチペンの使い心地はいかが?」
「ありがとうございます。とても快適です。まだうまく使えないところはありますが、慣れれば使いこなせると思います。スマホケースまでプレゼントしていただいて、嬉しゅうございます」
「あら、ケースも間にあったのね。両方できるまでに時間がかかるようなら、タッチペンを先にって言っておいたのよ」
「すぐにニホンザルさんが作ってくれたそうです」
「KFN所属のニホンザルって、とっても仕事が早くて腕が良いって評判なのよ。ま、神々相手の仕事だから、手抜きをすれば祟られるってわかっているでしょうし」
明るい口調ながら、恐ろしいことをおっしゃいます。
「充分素晴らしいお仕事でしたよ。ところで、タッチペンもスマホケースもウサギ仕様なのは、わたくしへのお気遣いでしょうか?」
「当然よ。ウサギ神の持ち物ですもの。そうしなくっちゃ」
きっぱりとおっしゃるヤカミヒメに、わたくしは「神の威厳が~」とか「ウサギ神だからこそ厳めしさが必要なのでは~」とかという台詞を言うことができませんでした。
トホホ。
「そうそう、もう数日で出雲大社へ集合よ。そちらで会いましょう。頑張って操作を覚えてね」
集合って、まあ、神無月は全国の神々大集合ですが……。
電話での会話が終わり、わたくしは気を取り直して説明書を片手に操作を覚えたのでございます。
数日後、新しいスマホを手に出雲大社へ参上しました。
恒例の年に一度の集いでして、全国では神無月、出雲では神在月と呼ばれている月でございます。
オオクニヌシノミコト(大国主命)とスセリビメにご挨拶を申し上げ、顔なじみの神々と挨拶を交わした後は、縁結びやら神々の会議やらが目白押しなのです。
もっともブラックな環境ではありませんので、ひたすら仕事ばかりではなく、ゆったりと神同士の交流を深めこの一年の出来事を語らい合うのも大切な務めなのです。
神々が集う広間に行ったところ、すぐに美保神社のヤエコトシロヌシノカミ(八重事代主神)が近づいてこられました。
「シロナガミミノミコト、スマホの使い方、覚えた?」
「はい、何とか一通りのことはできるようになりましたが、まだまだ難しゅうございます。そうそう電話番号はこれで間違いないでしょうか? 古い携帯からの赤外線通信の方法がわからなくて手入力したものですから心配です」
懐からスマホを取り出すと、周囲の女神様達が歓声を上げられました。
「わ~、そのスマホケースとタッチペン、可愛い~」
「そういうケース、あったの? あたしもそれが良かったわ~」
「KFNの今年のカタログにあったかしら? 見たことないわ」
わたくしは、急いで説明しました。
「ヤカミヒメからの贈り物で、オーダーメイドなんですよ」
「なるほど、見たことないはずね」
近くにいた女神が感心しています。
その時、高らかに『威風堂々』が鳴りました。
諏訪大社のタケミナカタノカミ(建御名方神)からのメールです。
驚きましたよ。
あの御方は神代の昔から筆無精で、現代でもメールを送ってこられることは滅多にないのです。
急いで読んでみて、納得しました。
側仕えの神の代筆で、皆様によろしくとのこと。
主があまりにも出不精でつきあいが悪いのもどうかと案じたのでしょう。
「タケミナカタノカミの代理の神様から、出雲にお集まりの皆様に、主に代わってご挨拶を申し上げるとのことです」
にこにこしながら伝えたところ、周囲の神々がしーんと静まりかえり、気難しい顔つきでこちらを見ておいでです。
わたくし、なんぞ粗相でも?
「あの~、何か?」
すぐに、近くにいらっしゃったヤカミヒメが問い返されました。
「シロナガミミノミコト、その音楽、何? まさか着信がそれ?」
「はい。スマホに替えたので、電話着信は『ジュピター』、メールは『威風堂々』にしました。まだ〝つながり〟は始めていませんが、そちらも威厳のあるものにしようかと」
ご機嫌で『ジュピター』も聞かせました。
すると辺りの空気が一気に冷え込みます。
「あ、あの~?」
皆様が怒ったような雰囲気に変わられたので、何か不調法をしたのかと慌ててしまいました。
すると傍にいらっしゃったヤエコトシロヌシノカミが、声を振り絞られます。
「そんなのウサギ神らしくないよ。君らしくないってば。可愛くないよ~」
どうして、こんなことであなたが涙ぐむんですか?
口々に責められましたが、今度ばかりはわたくしも妥協できません。
だって、ようやく神らしい威厳のある音楽にしたんですからね。
「ずいぶん変わった音楽にしたんだね~」
のんびりとした口調を聞いて、わたくしははっとしました。
周囲の神々もあわてて一礼しておられます。
やってこられたオオクニヌシノミコトは、不思議そうなお顔をしておいでです。
「前の曲はとてもよかったのに今回はやめちゃったの? もったいないね~。あのウサギシリーズ、とても好きだったんだけど」
あなたまでそんなことを!
いやいや、いくらあなたのリクエストでも、わたくしは『ジュピター』と『威風堂々』を守りますとも。
「確かにわたくしはウサギですし、スマホケースもタッチペンもウサギ、着音もウサギでは、あまりにもしつこいと存じます。まるで自分がウサギであることを周囲に押しつけているような厚かましさを感じます」
必死に言い訳しましたよ。
「そんなことを気にしていたの? だって君はウサギなんだし、ウサさんらしく可愛くしても押しつけがましくなんてないよ。むしろ『ジュピター』の方が似合ってなくて変だよ」
ヤエコトシロヌシノカミが、力説されます。
他の神々まで大きくうなずいておいでです。
だから、どうして皆様、わたくしにそこまでウサギらしさを求めるんですか?
「そうだよね~。やっぱり『ウサギのダンス』と『うさぎ』がいいよね~」
オオクニヌシノミコトが、にっこりされます。
大恩ある御方にそう言われては、逆らえません。
「はあ。それでは操作がわかりませんから、白兎神社に戻ってから変えます」
せめて少しでも延ばしたいという、必死な抵抗でございました。
「大丈夫」
ニコニコしながら傍にいらしたカナヤマビコノカミ(金山毘古神)が、ウサギカバーのスマホを手に取られて手早く操作なさいます。
そして聞き慣れた『ウサギのダンス』と『うさぎ』が流れ、神々のお顔がほころびました。
「はい。これで君らしくなったよ。僕ねハードだけじゃなくてソフトも強いんだ」
「ありがとうございます」
一応そう言いましたけどね、心の中では『なぜ、そんなにウサギ尽くしにしたいんですか? それにあなたは鍛冶の神様でアプリは関係ないですよね~』と叫んでおりましたよ。
場が穏やかになり、ヤエコトシロヌシノカミがおっしゃいました。
「君も〝つぶやき〟を始めなよ。簡単だから、すぐできるし」
「そうだね。ぜひ、おやりよ」
オオクニヌシノミコトもニコニコしながら勧めてくださいます。
意外かもしれませんが、オオクニヌシノミコトは早くからスマホに替えられ、〝つぶやき〟も極初期の頃から始められたのです。
記念すべき最初の〝つぶやき〟は「出雲大社なう」という、当然すぎるほど当然なものだったそうでございます。
それでも全国のスマホをお持ちの神々が、ご自分の神社で一段高いところにわざわざ神棚を設けてスマホを置き、手を合わせてその〝つぶやき〟を拝したそうでございます。
当時、わたくしはようやくケイタイを持ったばかりでしたから、出雲に来たときに他の神々に見せていただいたのです。
今も大国主命の〝つぶやき〟が入ると、神棚にスマホを祀り謹んで拝見し、おもむろに「いいね!」を押されるそうです。
「そうしますと、わたくしは『白兎神社なう』とつぶやけばよいのでしょうか?」
周囲の神々が爆笑されました。
「いやいや、それ当たり前だから」
「そうでもないよ。普通でいいんだよ。日常のちょっとしたことをつぶやくだけだから」
普通とは、けっこう難しゅうございます。
「わたくしの日常など、せいぜい『今日のおやつはキュウリスティック。昨日はニンジン。明日は何にしましょう?』程度ですよ」
すると、また周囲の女神達が歓声を上げられました。
「おやつが野菜スティックなの~? ヘルシー!」
「ダイエットにも良さそうね」
「ディップを変えれば飽きなさそう」
「やっぱりウサギ神のおやつよね~。可愛いわ~」
なぜか野菜スティックで盛り上がっておいでです。
こんなことで喜んでいただけるなら始めようかな~と思っていましたが、背中にグサグサと突き刺さるような視線を感じました。
振り返るまでもなく、どなたなのかすぐにわかりましたとも。
わたくしは盛り上がっている女神達の傍をすり抜け、広間の片隅においでの男神の前に参りました。
「だから、ウサギにはこの先に恋はありませんから。そんな目で見ないでください。恐いんですよ、オオモノヌシノカミ(大物主神)」
大神神社の公家装束の美形の神様は、今度は恨めしそうなお顔になられます。
「いいよね~、ウサギ神って。おやつが野菜スティックだっていうだけで、あんなに女の子にもてて。僕なんて……」
「ですから、うけるだけで恋には結びつきませんから。せいぜい白兎神社に新鮮な野菜が送られてくるだけで……あ、それ、いいですね」
つい、にんまりしてしまいましたよ。
その時、どなたかがつかつかとわたくしに近寄られました。
「ここにいたの、シロナガミミノミコト。お昼ご飯用の野菜を採りに行くから、手伝ってちょうだい」
つばがついて首の後ろまですっぽりと覆う農作業帽子を被ったスセリビメでした。
ちなみに帽子の前にはIzAの文字が刺繍してあります。
これは「出雲大社アグリカルチャー」の略称で、作業用にたくさん揃えてある帽子全てについております。
スセリビメはガーデニングと家庭菜園を趣味としていらっしゃいますが、家庭菜園の方は家庭の域を突破し、召使いや侍女も参加する農場と化しているのです。
ちなみに出雲大社で人間が見ている領域と神々が集う領域は次元が違いまして、実際にはさらに広大な敷地で、スセリビメの趣味の野菜畑は人の目には見えませんが延々と広がっているのです。
毎年ここへ参る度に、食事用の野菜の収穫にわたくしを呼びに来られます。
ウサギの手が、小さな野菜を傷つけずに採るのに向いているそうな。
すでにスセリビメの後ろでは、同じく野菜採取で毎年呼び出しがかけられる穀物の女神・ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)と料理人の神・イワカムツカリノミコト(磐鹿六雁命)がIzA付き農作業帽子を被って待機しておいでです。
スセリビメは、持って来られた小さな農作業帽子をすぽりとわたくしの頭に被せられました。
ちゃんと耳が出せるように、穴も空いています。
もちろんこの帽子にも誇らしげにIzAとついております。
帽子の生地が雪兎のプリントなのが引っかかりますが、もはや気にはしますまい。
二本の長い耳を出している間に、スセリビメは手慣れた様子でわたくしの顎の下でしっかりと紐を結んでくださいました。
「さあ、行きましょう」
「はい!」
わたくしは三神と共に、いそいそと畑へ向かいました。
出雲へ来る楽しみの一つは、この野菜収穫なのです。
スセリビメのお作りになる野菜はたいへん美味で、しかも採取の合間につまみ食いをしてもOKなのです。
このメンバーは毎年野菜の収穫を楽しみにしていますから、お声がかかると他の仕事を放り出してでも畑へ向かうのです。
広々と続く野菜畑では、すでに男神が三名と召使い達が待っていました。
この男神達は、おそらく農場近くにいたのを適当に引っ張って来られたのでしょう。
農作業帽子からのぞく顔は、うんざりしておられます。
それでもスセリビメに逆らおうなどという、だいそれた神はおりません。
そのスセリビメの指示で、我々は野菜の採り入れを始めました。
わたくしはラディッシュ係です。
ちょこちょこと抜いては、時々土をはらって囓ります。
新鮮なラディッシュの甘みとほろ苦さは格別でございます。
「本当にシロナガミミノミコトって、おいしそうに食べるわよね~。作りがいがあるわ」
プチトマトを摘んでおられたスセリビメが、ニコニコしておいでです。
男神達はキャベツやレタスを収穫し終え、我々は野菜を抱えて厨房へ運びました。
すでに調理係が待ち構えています。
付け加えますと、こちらの畑全体が神気によって天然の温室状態なため、神在月=旧暦10月の気候であってもすべての季節の野菜が採取できるのですよ。
イワカムツカリノミコトが帽子を取られ、すぐさま調理に加わられます。
「今日は何でしょう?」
期待を込めてうかがいました。
「今朝、ヤエコトシロヌシノカミと他の神々が釣ってきた魚とエビがあるから、それを具にしたロールキャベツと野菜のサラダだよ」
「けっこうな献立ですね」
思わず顔がほころんでしまいます。
「さあ、あちらで待ちましょう、シロナガミミノミコト」
ウカノミタマノカミに促され、わたくしはまた広間へ向かいました。
すでに強制徴収されていた神々は、どこかへ消えておいでです。
「さっきラディッシュを囓っていたけれど、今年はどうでした?」
「たいへんおいしゅうございました。昨年よりも甘みが強いように感じます」
「そう。キャベツは少し堅かったのが残念です。でも、彼がうまく調理してくれるでしょう」
「はい」
そして、また広間で皆様と雑談をして昼食を待ったのでございます。
午後からは、縁結びやら会議やらが始まります。
雑談に加わりながら、つくづく思いました。
やはりウサギ神は、ウサギらしくしているのがいいのだと。
『ジュピター』と『威風堂々』には少し未練がありますが、『ウサギのダンス』と『うさぎ』も決して嫌いではございません。
まあ、これはこれで良いのかも。
ウサギ神としてのアイデンティティを再確認したスマホ奮戦記でございました。
完
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